第十九回 むずかしい問題
どのくらい、手を握っていたのだろう。
気がつくと、窓際の老人はいなくなっていて、店の中には私たち二人と、カウンターの向こうで黙々とカップを拭いているマスターだけになっていた。私は急に恥ずかしくなって、そっと手を離した。沙耶香も、少しだけ照れたように笑って、紙ナプキンで目元を押さえた。
「ごめん。化粧、崩れてない?」
「よくわからない」
「そこは崩れてないって言うとこだぞ」
「崩れてない」
「遅い」
いつもの調子が、少しだけ戻ってきた。だが、私にはまだ聞いていないことがあった。
「なあ、沙耶香」
「うん」
「死活問題って、結局、何なんだ」
沙耶香は、ナプキンを小さくたたんで、テーブルの端に置いた。
「さっき、だんだん消えてきてるって言ったでしょ」
「うん」
「ハイポリアの記憶はね、子どもの頃は、もっとずっとはっきりしてたの。七つの塔の名前も全部言えたし、織物の館の織り手さんたちの顔も、一人ひとり覚えてた。夜、目をつぶると、湖の水の冷たさまで思い出せた」
彼女は、青いカップの金の縁を、指先でなぞった。
「でも、中学に上がった頃から、少しずつ抜け落ちていったの。最初は、塔の名前。次に、兄様たちの声。それから、織り手さんたちの顔。古い織物の糸が、端からほどけていくみたいに」
「……」
「先週ね、気づいたの。お母様の顔が、思い出せないって」
沙耶香は、笑おうとして、うまく笑えなかった。
「ハイポリアには、文字の記録がないの。織物も、全部燃えちゃった。だから、ハイポリアがあったってことを覚えてるのは、たぶん、この世界で私一人だけ。私が全部忘れたら、ハイポリアは、本当に、最初からなかったことになる」
「それが、死活問題」
「うん。私にとってはね。国が二回死ぬってことだから」
国が二回死ぬ。私はその言葉を、口の中で繰り返した。一度目は炎で。二度目は、忘却で。
「でも、なんで俺なんだ。夢の話なんて、今日初めてしたのに」
「覚えてない? 二年生の時の、国語の時間」
「国語?」
「ペヤング先生の授業。霧谷君、教科書の朗読を当てられたでしょ。なんかの随筆だったと思う」
「ああ、あったかも」
「あの時ね、霧谷君が読み上げはじめたら、急に、教室の中に湖の匂いがしたの」
私は、言葉を失った。
「水と、苔と、冷たい石の匂い。ハイポリアの湖の匂い。私、びっくりして顔を上げたら、霧谷君の後ろに、一瞬だけ、果ての壁が見えた気がしたの。それで、わかったの。この人が、読み手だって」
「そんなこと、あるのか」
「あったの。私には」
沙耶香は、まっすぐに私を見た。
「だからね、お願いがあるの」
「お願い」
「読んでほしいの。夢の中の果ての壁を。そこには、たぶん、燃えちゃう前のハイポリアが全部織られてる。霧谷君が読み上げてくれたら、私、きっと思い出せる。お母様の顔も、兄様たちの声も、全部」
「でも俺、起きたら全部忘れてるんだぞ」
「さっきは、起きてるのに読めたでしょ」
私は、頭上の織物を見上げた。もう、さっきのようには見えなかった。ただの、青と金の、古い布である。それでも、端のほうの、ほどけたままの部分だけは、なぜか目を離せなかった。
「……どうやったら読めるのか、全然わからない」
「私も、わからない」
「わからないのかよ」
「わからないから、一緒に探すの。それが、今日のデートの本当の目的」
沙耶香は、ふうっと大きく息を吐いた。そして、急に背筋を伸ばして、両手でぱちんと頬を叩いたのであった。
「よし。重い話、おしまい」
「え」
「これ以上ここにいたら、私、干からびるまで泣いちゃう。せっかくブーツ履いてきたのに」
「いや、でも、まだ聞きたいことが」
「続きは、また今度。物語は終わらないんでしょ?」
そう言われては、返す言葉がなかった。カフカの話を持ち出したのは、私の方なのである。
沙耶香は白い鞄を手に取って、すっと立ち上がった。目はまだ赤かったが、その顔には、公園で私をUFOの遊具で振り回した時と同じ光が戻っていた。
「霧谷君。カラオケ、行こ」




