第十八回 あなたもいた
私は、何と声をかけていいのかわからなかった。
目の前で、同級生の女の子が、千年も前に滅んだかもしれない国のことで泣いている。普通なら、ハンカチを差し出して、気の利いた冗談の一つでも言うところだろう。だが、私の口からは何も出てこなかった。右腕の熱が、まだ引いていなかったからである。
「ごめんね。デートなのに、こんな話」
「いや」
「引いたでしょ」
「引いてない」
「本当に?」
「本当に。むしろ」
むしろ、何なのか。自分でもわからなかった。私は言葉を探すように、沙耶香の頭上の織物を見上げた。
深い青の地に、金の糸。塔のような、冠のような模様。さっきまでは、ただの古い飾り物にしか見えなかった。それが今は、妙にはっきりと見えるのであった。糸の一本一本が、どこから始まって、どこへ向かっているのか。どの糸が上を通り、どの糸が下をくぐっているのか。まるで、ずっと昔から知っている文字を目で追うように、模様が意味を持ちはじめていた。
「霧谷君?」
沙耶香の声が、ひどく遠くに聞こえた。
織物の端の方に、金の糸が途切れているところがあった。そこだけ、模様が途中でほどけたまま、何も織られていない。私の目は、自然とそこに吸い寄せられていった。
そして、私の口が、勝手に動いた。
「織りかけのままでいい」
自分の声なのに、自分の声ではないようだった。
「続きは、次の世で、俺が読む。だから、どこにいても、必ず見つける」
店の中が、しんと静まり返った。マスターのコーヒーミルの音も、いつの間にか止んでいた。
はっと我に返ると、沙耶香が両手で口を押さえて、私を見ていた。大きく見開かれた目から、今度は涙がぽろぽろと、止まらずにこぼれ落ちていた。
「……今の」
「え?」
「今の、なんで」
「いや、俺、今、何か言った?」
「言った」
沙耶香は、震える声で繰り返した。
「織りかけのままでいい。続きは、次の世で、俺が読む。だから、どこにいても、必ず見つける」
私は、自分が何を言ったのか、その時はじめて知った。なのに、少しも思い出せない。言葉だけが、どこか別の場所から、私の口を通り抜けていったのであった。
「それ」
沙耶香は、涙を手の甲でぬぐった。
「それが、あの人の最後の言葉。湖のほとりで、私に言ってくれた言葉」
「俺、そんなの知らない」
「知らなくても、言えたでしょ」
「でも、本当に何も覚えてないんだ。騎士だったとか、湖とか、全然」
「いいの」
沙耶香は、泣きながら笑った。公園のベンチで見せた、あのいたずらっぽい笑顔とは違う。ずっと探していたものを、やっと見つけた人の顔であった。
「だから言ったででしょ。約束、したって」
「……林の中で、言ってたね」
「うん」
私は、自分の右手をじっと見た。剣を握ったことなど、一度もないはずの手である。それなのに、指の付け根のあたりに、硬いタコのようなものがある気がした。もちろん、そんなものはどこにもなかった。
「霧谷君」
「なに」
「やっぱり、あなただったんだね」
沙耶香はそう言って、テーブルの上に、そっと右手を差し出した。私はしばらくためらってから、その手を握った。
小さくて、温かくて、少しだけ震えている手だった。
そして、どこかで一度、確かに握ったことのある手だった。




