第十七回 姫の記憶
「あなただったって、何が」
私の声は、自分でも驚くほどかすれていた。沙耶香は紅茶のカップを両手で包んだまま、しばらく黙っていた。天井のファンが、ゆっくりと三回まわるのを、私はなぜか数えていた。
「さっき、織物の館の話をしたでしょ」
「うん」
「その館の一番奥にね、一枚だけ、特別な織物があったの。ハイポリアが始まった日から、ずうっと織り続けられてきた、国全体の記憶。何百年分も織り足されて、天井よりも高くなって、館の壁そのものになってた」
「壁」
「みんな、それを『果ての壁』って呼んでた。世界の果てまで続いてる壁だって」
私は息をのんだ。
「でもね、織物って、織った人以外には読めないの。模様が細かすぎて、どこに何が織られてるのか、普通の人には全然わからない。だから、ハイポリアには『読み手』っていう役目の人がいたの。果ての壁の前に立って、織られた記憶を声に出して読み上げる人。その人が読み上げると、昔の出来事が、まるで目の前で起きてるみたいに浮かび上がるんだって」
「……それって」
「うん。霧谷君の夢と、同じでしょ」
沙耶香は、カップをソーサーに戻した。
「最後の夜のこと、話していい?」
「最後の夜」
「ハイポリアが、なくなった夜」
私は黙って頷いた。
「秋の終わりだった。東の山の向こうから、黒い旗の軍勢が来たの。ハイポリアには、ほとんど兵隊がいなかった。何百年も、戦なんてなかったから。みんな、織ることと、読むことばかりしてたから」
彼女の目は、私を見ているようで、私の向こうの、ずっと遠くを見ていた。
「夜中に、鐘が鳴った。窓を開けたら、湖の向こう岸が真っ赤だった。それから、都の門が破られて、火が塔に移って。一つ、二つって、白い塔が燃えていくの。湖に逆さまに映ってたから、燃える都が二つあった」
「沙耶香」
「大丈夫。続けるね」
沙耶香は小さく笑ったが、その笑顔は少し震えていた。
「私、自分の織物を取りに行こうとしたの。まだ途中だった、一枚だけの、私の記憶。織物の館はもう火に囲まれてて、みんな止めた。でも、行ったの。末っ子だから、わりと好き勝手してたって言ったでしょ」
「言ってたね」
「館の中は煙でいっぱいで、果ての壁が燃えてた。何百年分の記憶が、下から順番に、ぱちぱち音を立てて灰になっていくの。それを見て、私、動けなくなった。国が、本当に消えていくんだって思った」
カウンターの向こうで、マスターがコーヒーミルを回す音がした。その音が、なぜだか遠い火のはぜる音のように聞こえた。
「そしたらね、誰かが私の腕をつかんで、引っ張ったの。若い騎士だった。煤で顔が真っ黒で、鎧も半分焼けてて。その人、片手で私を引っ張りながら、もう片方の手で、私の織りかけの織物を抱えてたの。燃える前に、取ってきてくれてたの」
「その人が」
「うん」
沙耶香は、まっすぐに私を見た。
「その人が、ハイポリアの最後の読み手。そして、私を守る役目の、近衛の騎士だった」
私の右腕が、ずきりと痛んだ。公園からずっと、沙耶香に絡まれていた右腕である。痛いというより、熱かった。まるで、今まさに誰かの腕をつかんで、炎の中から引っ張り出しているかのようであった。
「二人で湖のほとりまで逃げた。夜明け前だった。後ろで都が燃えてて、空まで赤かった。そこで、矢が飛んできたの」
沙耶香はそこで、言葉を止めた。
「それから、どうなったの」
「わからない」
「わからない?」
「そこから先が、だんだん消えてきてるの」
彼女は自分の胸に、そっと手を当てた。
「最後に、あの人が私に何か言ったの。織りかけの織物を私の手に握らせて、何か、とても大事なことを。それだけは、絶対に忘れちゃいけなかったのに」
沙耶香の目から、一粒だけ、涙が落ちた。それは青いカップの縁を伝って、紅茶の中に小さな波紋をつくった。
「その言葉が、もう思い出せないの」




