第十六回 ハイポリア
「お姫様」
私は思わず、その言葉を繰り返した。笑わないと約束したので、顔の筋肉を総動員して真顔を保つ。ブレンドの苦さが、こういう時には役に立つのであった。
「今、笑いそうになったでしょ」
「なってない」
「口の端がぴくってした」
「コーヒーが苦かったんだよ」
「ふうん」
沙耶香は疑わしそうに目を細めたが、それ以上は責めなかった。代わりに、頭上の織物を指さした。
「ハイポリアっていう国だったの。ずうっと昔の、地図にも残ってない国」
「ハイポリア」
「うん。大きな湖のほとりにあってね、都の真ん中に、白い塔が七つ立ってた。屋根は全部、深い青。夕方になると、湖に塔が逆さまに映って、都が二つあるみたいに見えるの」
彼女の声は、さっきまでの軽口とはまるで違っていた。思い出しているというより、目の前の景色をそのまま読み上げているような口ぶりであった。
「王様と王妃様がいて、私は三番目の娘。上に兄が二人。末っ子だから、わりと好き勝手してた」
「今と変わらないじゃないか」
「失礼な」
沙耶香はテーブルの下で私の足を軽く蹴った。
「ハイポリアには、変わった掟があってね。歴史を文字で書き残しちゃいけなかったの」
「掟。カフカだ」
「そう。だから、さっきカフカの話になった時、ちょっとびっくりした」
「じゃあ、どうやって残すんだよ」
「織るの」
沙耶香はもう一度、織物を見上げた。
「起きたことは全部、織物にして残す。王様の戴冠も、戦も、豊作の年も。都には大きな織物の館があって、何百人もの織り手が、毎日毎日、国の記憶を織り続けてた。文字は嘘をつくけど、糸は嘘をつけないって言われてたの」
「糸は嘘をつけない」
「うん。それで、王家の娘は、自分の織物を一枚だけ織ることを許されてた。自分の人生の記憶を、一枚に」
「沙耶香も織ったの」
「織ってる途中だった」
そこで、彼女は少しだけ言葉を切った。紅茶の表面に、天井のファンの影がゆっくり回っていた。
「その一枚、まだ完成してないんだ」
私は何も言えなかった。冗談にしては、あまりにも細かすぎる。七つの塔、青い屋根、織物の館。まるで、彼女の頭の中に一冊の分厚い本があって、そのページを一枚ずつめくっているかのようであった。
そして、私には一つ、言い出せずにいることがあった。
「あのさ、沙耶香」
「なに」
「笑わないで聞いてくれる?」
「それ、私のセリフ」
「いいから」
私はカップを置いた。手のひらが、少し汗ばんでいた。
「俺、子どもの頃から、同じ夢を見るんだ」
「どんな夢」
「宇宙の果てに、壁があるんだよ。ものすごく高くて、どこまでも続いてる壁。そこに、びっしり何かが書いてある。文字なのか模様なのかもわからない。でも、夢の中の俺は、それが読めるんだ」
「読めるの」
「うん。で、声に出して読み上げてる。読み上げると、その場面が目の前に浮かぶ。知らない町とか、知らない人とか。でも、目が覚めると全部忘れてる。覚えてるのは、読み上げてたってことだけ」
沙耶香は、じっと私を見ていた。瞬きもせずに。
「その壁の文字、何色だった?」
「え?」
「何色」
私は記憶をたぐった。夢の中の壁。果てしない壁。そこに浮かび上がる、細い線。
「……青、かな。青い地に、ところどころ、金色が」
沙耶香は、ゆっくりと息を吐いた。それから、泣き笑いのような顔をしたのであった。
「やっぱり。あなただったんだ」




