第十四回 扉
その喫茶店は、古いビルの一階にひっそりと収まっていた。看板は小さく、店名は擦れて半分しか読めない。焦げ茶色の木の扉には、真鍮の取っ手がついていて、長年の手垢で鈍く光っているのであった。
「ここ?」
「うん。ここ」
「よく見つけたね。俺、この道何度も通ってるけど、気づかなかった」
「でしょ。見つけようとしないと、見つからないお店なんだよ」
沙耶香はそう言って、取っ手に手をかけた。その時、彼女はほんの一瞬だけ動きを止めた。真鍮の冷たさを確かめるように、指先でそっと撫でたのである。さっき狛犬を撫でた時と、まったく同じ手つきであった。
「どうしたの」
「ううん。ここの取っ手、好きなんだ」
「取っ手が?」
「うん。いろんな人の手の記憶がこびりついてる感じがするでしょ」
「サイコメトリーか」
「そうそう」
沙耶香は笑って扉を押した。上の方で小さなベルが揺れた。店の中は思ったより奥行きがあった。コーヒー豆を焙煎する香ばしい匂いが、むわっと顔にぶつかってくる。天井には古いファンがゆっくり回り、壁には色あせた地図や、どこの国のものかわからない織物が飾ってあった。カウンターの向こうには白髪のマスターがいて、こちらをちらりと見ると、何も言わずに小さく頷いた。
「いらっしゃいませ、とか言わないんだね」
「言わないの。そういうお店」
客は窓際に老人が一人いるだけであった。私は手前の、明るい窓際の席に座ろうとした。ところが沙耶香は、私の腕を引いて、迷うことなく店の一番奥へと進んでゆく。
「奥がいいの?」
「奥じゃなきゃダメなの」
「なんで」
「話の内容が内容だから」
そこは壁に囲まれた小さなボックス席で、古い布張りのソファが向かい合わせになっていた。頭上の壁には、例の織物が一枚掛けてある。深い青地に、金の糸で、塔のような、あるいは冠のような模様が織り込まれていた。沙耶香は席に着く前に、その織物を見上げた。じっと、長いこと見上げていた。
「……沙耶香?」
「あ、ごめん。座ろっか」
彼女はソファに腰をおろし、白い鞄を膝の上に置いた。私も向かいに座った。ソファは見た目よりずっと柔らかくて、体が思いのほか沈み込んだ。
「なんか、落ち着くね、ここ」
「でしょ。私、ここに来ると、帰ってきたって感じがするの」
「常連なんだ」
「常連っていうか」
沙耶香は言いかけて、口をつぐんだ。それから、テーブルの上のメニューを私の方へ滑らせた。
「まずは注文しよっか。話はそれから」
「ここまで引っ張られると、もう何を聞いても驚かない気がするよ」
「それはどうかなあ」
沙耶香は、公園のベンチの時と同じ、いたずらっぽい笑みを浮かべたのであった。




