三女 シルヴィア 2
閣議提出資料の事前チェックという大役を任されてから、シルヴィアの宮廷生活は激変した。
王妃の身の回りのお世話と並行し、刻々と変わる国政の膨大な書類を精査する日々。
「……また、この部分の収支計算に乖離がありますわ。宮廷伯様、こちらの領地の過去三年分の関税報告を再照会なさった方がよろしいのでは?」
「……相変わらず手早いな。その通りだ、使者を送る」
執務室の机を挟み、二人は淡々と、しかし恐ろしいほどの速度で処理を重ねていく。
クレマンは相変わらず鉄面皮のままで、お世辞も微笑みも一切口にしない。けれど、シルヴィアが差し出す資料には一度も疑いの視線を向けず、無言のまま次の指示を渡す。
(なんなのよ、この男は……っ)
シルヴィアは夜、自室の鏡に向かうたび、乱れた白銀の髪をブラッシングしながら歯噛みした。
宮廷の男たちは、今でも彼女を見るたびに顔をほころばせ、美貌を讃える甘い言葉を囁いてくる。
だが、シルヴィアにとってそんな言葉はもはや、ただの不快な雑音でしかなかった。
自分を「一人の仕事人」として扱い、完璧な仕事を当然のように要求し、そして正当に評価してくるのは、世界中であの不躾な機械男ただ一人なのだ。
認めたくない。悔しい。
けれど、彼に「完璧だ」と短く告げられるたび、胸の奥が熱くなり、顔が火照ってしまう自分を隠すことができなかった。
転機が訪れたのは、他国との通商条約の締結を控えた、ある夜のことだった。
王妃のお部屋での業務を終え、クレマンに頼まれていた条約書の最終確認をするため、シルヴィアは暗くなった資料室へ向かった。
だが、部屋のドアに手をかけた瞬間、室内から低いひそひそ声が漏れ聞こえてきた。
「……いいか、宮廷伯が来たら、こちらの差し替えた通商案を渡すのだ。あの男は数字の辻褄さえ合っていれば疑わん」
「ですが、王妃様の側近であるあのヴァルハイト家の侍女が事前に目を光らせております。あの女に見つかれば……」
「ハッ、ただの飾りの美女だろ! 難解な関税条約の抜け穴など、あの綺麗な頭で理解できるはずがなかろうが」
シルヴィアの血がスーッと冷えていくのが分かった。
不正な条約書の差し替え。そして——自分を「ただの飾りの美女」と舐めきった言葉。
昔のシルヴィアなら、激怒しながらも「どうせ私なんてその程度に見られている」と自嘲して諦めていたかもしれない。だが、今の彼女は違った。
(私の仕事を……あの人が認めてくれた私の確認作業を、舐めないでちょうだい……っ!)
シルヴィアは呼吸を整え、足音ひとつ立てずにその場を静かに離れた。
立ち振る舞いを乱して周囲に怪しまれれば、工作員に察知されて証拠を隠滅されかねない。
完璧な淑女の佇まいのまま向かったのは、宮廷伯の執務室だ。
「宮廷伯様」
音もなくドアを閉め、普段通りの落ち着いた声音で告げる。
「資料室に、不正な条約書を持ち込もうとしている不審者が潜んでおります。逃走および証拠隠滅を防ぐため、至急、衛兵の手配を」
取り乱すことなく、核心だけを静かに口にしたシルヴィアを、デスクで書類をめくっていたクレマンが、じっと見つめた。普通なら「証拠はあるのか」「勘違いではないか」と詰問するような場面だ。
だが、クレマンは迷いのない手つきで上着を羽織り、剣を帯びた。
「状況は理解した。衛兵を回す。行くぞ」
「……疑わないのですか? 私の聞き間違いかもしれないのに」
思わず口をついて出た問いに、クレマンは扉の手前で足を止め、振り返ることなく言った。
「君が自分の職務において、確信のない情報で私に報告を上げるような愚か者ではないことくらい、私が一番よく知っている。とりあえず取り押さえたら精査さえすれば後ろにいる者もわかるだろう。利権で得をするものが関わっていない筈はないからな」
「……っ」
胸が、激しく跳ね上がった。
根拠も証拠も提示する前に、ただ「自分の仕事への信頼」だけで、この男は自分を全面的に信じたのだ。
現場は静かに、かつ完璧に包囲された。
クレマンの指示のもとで急襲した衛兵たちにより、室内からは改ざんされた通商条約の原本と、特定の貴族へ不正に利益を流すための裏合意書が押収された。逃げ場を失った工作員たちは、顔を青ざめさせてその場に崩れ落ちた。
「ば、バカな……! なぜ気づかれた……!どこから話が漏れたのだ… たかが侍女の女一人が、この巧妙な抜け穴を見抜けるはずが……!」
捕縛された男が吐き捨てるように叫ぶ。
それまで淡々と処理を指示していたクレマンが、ふっと足を止めた。
ゆっくりと振り返った彼の灰色の瞳には、これまで見せたことのないような、凍てつくほどの冷たい怒りが宿っていた。
「見くびるな」
氷の刃のような声が、静まり返った部屋に響く。
「彼女はただの侍女ではない。我が国の通商・税収の過去データをすべて把握し、些細な数値の不整合も見逃さぬ、極めて有能な人だ。ただの飾りならこんなに長く王妃が侍女として徴用するわけがなかろう。実に有能な私の補佐官だ。お前たちのような愚か者が弄した浅知恵など、彼女の目をごまかせるわけがないだろう」
「っ……!」
クレマンの言葉に、捕らえられた男たちは絶句した。
そして、その背後で控えていたシルヴィアもまた、息を呑んで彼を見つめていた。
自分の美貌を褒められたことなど、生まれてから何度あったかわからない。
けれど——こんなにも誇らしく、胸が締め付けられるほど嬉しい「讃え言葉」を、シルヴィアは聞いたことがなかった。
「……連行しろ」
クレマンは冷たく言い渡すと、失意の男たちが引き立てられていくの横目に、シルヴィアへと歩み寄ってきた。
室内には、二人だけが残される。
「……手柄だな、シルヴィア。君の冷静で迅速な報告のおかげで、我が国の損害は未然に防がれた」
いつもの無表情に戻ったクレマンが、淡々と告げる。
シルヴィアは、溢れそうになる感情を必死に抑え込み、胸を張って凛とした微笑みを浮かべた。
「当然ですわ。私はヴァルハイト侯爵家の娘で、王妃様の侍女……そして、宮廷伯様の補佐官ですから。これくらいできて当たり前です」
強がるように、けれどどこか熱を帯びた声で言い返すシルヴィア。
クレマンはそんな彼女をじっと見つめると、ほんのわずかに——気づかないほど微かに、口元を緩めた。
「……そうだ。やはり君は、庭園に咲くバラなどではないな」
「……え?」
「咲き誇る花などよりも、よほど美しく、頼もしい」
「〜〜〜〜っ!?」
不意打ちのように落とされた言葉に、シルヴィアの顔が一瞬で真っ赤に染まった。
「な、ななな……何を、急に訳の分からないことをおっしゃっているのですか!? 貴方、人の機微に疎いくていらっしゃるのではなくて……っ!」
「事実を言ったまでだ。……さて、事件の処理で明日の閣議資料の作成が遅れている。今夜は徹夜になるが、付き合ってもらうぞ」
「……! もちろんですわ! 貴方が音を上げるまで、どこまでもお供して差し上げますから!」
プイと顔を背けながらも、シルヴィアの唇には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
見た目だけに惑わされず、本当の自分を見てくれる冷徹な鉄面皮。
そして、その鉄面皮に認められるために、完璧な自分で居続けようとする絶世の美女。
ヤキモキとするような、けれど誰にも踏み込めない二人の絆は、夜の宮廷で一層深く結ばれていくのだった。




