三女 シルヴィア 1
「美しさなど、庭園を彩る一輪のバラと何が違いましょう。愛でるには心地よいが、国を動かす役には立たない」
絢爛たる宮廷の回廊。
執務室へと向かう宮廷伯——クレマンの氷のように静かな声が響き渡った。
「私が求めているのは優秀な業務遂行能力であり、鑑賞用の花ではない。王妃様側近の席に『ヴァルハイト侯爵家の絶世の美貌』という飾りを据えれば派閥の威厳が増すなどと、益もない策をのたまう貴殿の無能さこそ、国家にとって不要だ」
一瞥もくれず、感情の失せた灰色の瞳で冷酷に切り捨てて去っていくクレマン。
背後で、王妃派閥の権益を誇大に語って彼に取り入ろうとしていた高官が、あまりの上品で鋭い毒舌に顔を蒼白にして立ち尽くしていた。
壁際で王妃の書類を抱えて控えていたシルヴィアは、去り行く彼の後ろ姿を冷ややかな瞳で見送っていた。
(……本当に、感情のない機械みたいな男)
宮廷伯クレマン。
冷酷無比な仕事ぶりと、どんな美女が微笑みかけようと一切の感情を動かさない鉄面皮で知られる男だ。彼にとって、どれほど高貴な血筋であれ、どれほどの美貌であれ、役に立たないものはすべてただの「無駄」でしかなかった。
シルヴィアは手にしていた書類をそっと抱え直し、小さく溜め息をついた。
ヴァルハイト侯爵家の三女・シルヴィア。
誰もが彼女を一目見た瞬間、息を呑む。
透き通るような白銀の髪に、宝石を散りばめたような青い瞳。誰もが認める「絶世の美女」が、彼女に与えられた唯一の肩書だった。
だが、シルヴィア自身は知っている。自分には、何も無いのだと。
長男のように家族を包み込む深い包容力も、
次男のように思い立ったら突き進む圧倒的な行動力も、
長女のように誰にでも注げる無償の慈愛も、
次女のようにあらゆる情勢を見通す聡明さも、
四女のようにひとつの物事をどこまでも探求する情熱も、
末っ子のクロエのように誰からも愛される素直さと可憐さも、自分には何ひとつ備わっていなかった。
あるのは、ただの「顔」だけ。
生まれ持った皮肉な造形に群がり、甘い言葉を囁いては中身の空っぽな自分を所有しようとする男たちを、シルヴィアは心の底からゴミ屑のように見下していた。
家族以外の者から
『貴方は美しいのだから、誰かに傅かれて我がままに暮らせばいいのではない?』
そう言われるたび、身がよじれるほどの恐怖を覚えた。見た目だけに甘えて他人に傅かれて過ごせば、自分はきっと本当の意味で腐り果ててダメになってしまう。
だからこそ、彼女は家を出て、王宮の侍女として仕える道を選んだのだ。
「シルヴィア、次の茶会で使う茶葉の選定だが——」
「王妃様、すでに先月の交易記録から、ご歓談予定の公爵夫人のお好みに合わせた3種をご用意してございます。温度管理の指示も完了しておりますわ」
「……相変わらず、完璧ね」
王妃は満足そうに微笑む。宮廷内では、シルヴィアは「気が強く、隙がなく、何にでも先回りができる非常に仕事の出来る侍女」として評価されていた。
だが、シルヴィア自身はそんな評価を鼻で笑っていた。
幼い頃から、あの恐ろしいほど聡明な次女の立ち振る舞いを見て育ったのだ。
相手の次の一手どころか十手先を読み、完璧に場を支配する姉に比べれば、自分の先回りなどただの気休め、できて当たり前の最低ラインに過ぎない。
ましてや、王妃の周囲で働く他の侍女たちの立ち回りこそ洗練されている。自分のような者がこの職を得られているのは、ただ「侯爵家の絶世の美女」という飾りを王妃側近に置くことで、派閥の威厳を保つためなのだと信じて疑わなかった。
自分の価値は、やっぱり顔だけ。
——そう思っていた。
あの日、宮廷の図書室で彼と二人きりになるまでは。
「……私の指示した資料の編纂、なぜ予定よりも早く終わっている?」
低い声に振り向くと、そこには溢れんばかりの書類を抱えたクレマンが立っていた。感情の読めない灰色の瞳が、まっすぐにシルヴィアを射抜く。
「宮廷伯様。王妃様より回覧のあった案件と拝見いたしましたので、関連する過去5年分の税収データも併せて分類しておきました。これで確認の手間が省けるかと」
シルヴィアは胸を張り、隙のない笑みを浮かべた。弱みを見せれば、この男もまた自分の容姿を揶揄するか、あるいは侍女としての出しゃばりを咎めてくるはずだ。
クレマンは差し出された書類を受け取り、無言で目を通し始めた。
長い沈黙。紙が擦れる音だけが室内に響く。
(どうせ……『女のくせに』とか『余計な真似を』と切り捨てるのでしょう。あるいは、私の顔を見て何か気の利いたお世辞でも言うつもり?)
シルヴィアは内心で冷たく嘲笑いながら、彼の言葉を待った。
しかし、書類から目を離したクレマンの口から出たのは、予想もしない言葉だった。
「……税の重複計算の矛盾点に、事前に気づいて修正してあるな」
「え……?」
「私が求める基準の、さらに上だ。無駄な説明を省き、核心だけを整理してある。……実に優秀な能力だ」
クレマンは淡々と言い捨てると、初めてシルヴィアの顔をまっすぐに見つめた。
だが、そこには社交場で男たちが浮かべるような意地汚い色も、彼女の美貌に惑わされる眩みも一切なかった。
ただ「有能な業務遂行者」を見る、冷徹で、けれど誤魔化しのない眼差し。
「君のその能力は、無意味な美貌の噂を振り撒くよりも、よほど国にとって益がある」
「……なっ……」
シルヴィアの喉が詰まった。
能力? 私に?
何を言っているのだ、この男は。
自分には何もない。
ただの顔だけの女だ。次女のような聡明さもないのに、お辞儀の角度や書類の整理が少し早い程度で、何を言っているのか。
「……お戯れを、宮廷伯様。私など、ただの飾り物の侍女でございます。美しいだけの女など、貴方様にとっては庭園の一輪のバラと同じなのでしょう?」
先ほど彼が回廊で言い放った言葉を引き合いに出し、吐き捨てるように言うと、クレマンはわずかに眉を寄せた。
「バラ? 確かに君の容姿は目を惹くが……私が評価しているのはそこではない。人の美醜など、業務の処理能力に勝るものか。……君は自分の仕事の価値も理解できないほど、愚かだったか?」
「〜〜〜〜っ!?」
あまりの言われように、シルヴィアの頬が怒りでカッと熱くなった。
「愚か……!? 私が、自分の仕事を軽んじているとおっしゃるのですか!?」
「事実を言ったまでだ。これほどの精度で先回りできる人間が、自分の仕事を『飾り』などと卑下するのは、作業効率を軽視している証拠だ」
クレマンは呆れたように短く息を吐くと、書類を抱え直して背を向けた。
「明日から、閣議提出資料の事前チェックも君に任せる。……断る権利はない」
「ちょっと……! 待ちなさいな、宮廷伯様!」
呼び止める声も無視し、クレマンは一定の足取りで去っていった。
取り残された図書室で、シルヴィアはきゅっと拳を握りしめた。
胸の奥が、かつてないほど激しく跳ね上がっていた。
悔しい。腹が立つ。あの不躾で、感情のない機械のような男!
けれど——
(……誰も、私をそんな風に見なかった……)
誰もが「美しい侯爵令嬢」としてしか自分を見ず、差し出したお茶の完璧さも、整えられた書類の正確さも、「美人が淹れてくれた」「さすが侯爵家」の一言で片付けてきたのだ。
それを、あの男は。
自分の「美貌」を完全に無視し、ただの「成果」として叩きつけてきた。
「……何よ、あの生意気な男。機械のくせに……っ」
顔を赤くして毒づきながらも、シルヴィアは自分の手元に残されたクレマンの手書きメモを見つめた。そこには、彼女の作業を前提とした、無駄のない次の指示が記されていた。
見た目ではなく、自分の仕事そのものを求められている。
その事実が、どれほど彼女の渇いたプライドを揺さぶり、そして恐ろしいほど胸を焦がすのか。シルヴィアはまだ、認めたくなかった。
そして翌日からも、クレマンの容赦ない「無感情な評価」と、それに完璧に応えようと意地になるシルヴィアの、誰も踏み込めない二人の時間が始まっていくのだった。




