三女 シルヴィア 12
言葉を失ったままクレマンを見つめるシルヴィアの視線に、彼はどこか追い詰められたような面持ちで、しかし離すまいとしっかりと彼女の手首を握り直した。
「……君を『便利な手札』などと思ったことは、一度としてない」
「クレマン様……」
「王妃宮の筆頭侍女として誇り高く立つ君の姿に、私は救われていた。……だが、王都を離れて思い知った。君のいない日々は、驚くほど味気ないものだったと」
冷徹無比と恐れられる宮廷伯が、目の前で愚直なまでに感情を露わにしている。
(……ああ、本当に。このお方はどこまでも不器用で、難しく考えすぎてしまうのですわ)
シルヴィアは小さく息を吐くと、手首から彼の手をそっと滑らせた。クレマンの灰色の瞳に一瞬だけ切ない動揺が走る。
だが、シルヴィアはその手を振り払うのではなく、逆に己の指先を彼の手袋越しにそっと重ね合わせた。
「言葉をくださらなければ、伝わらないこともございます。……私的な連絡のひとつもなしに発たれた貴方を、少しだけ不親切な方だと思ってしまった私の浅はかさも、お許しくださいませ」
「シルヴィア……」
「私にとっても……あの一時間は、特別でしたから」
照れくささを隠すようにわずかに目を伏せるシルヴィアの頬が、ほのかな赤みに染まる。完璧な侍女の仮面を外し、ただの恋する女性としての素顔を見せた彼女に、クレマンは引き寄せられるようにその肩を抱きしめた。
上着越しに伝わる彼の逞しい鼓動と、少し固い生地の感触。
数ヶ月の間、互いに胸の奥に閉じ込めていた熱が、静かに溶け合っていく。
……だが、彼の腕の中でその温もりに浸りながら、シルヴィアの頭の片隅にふと、ある身も蓋もない事実が浮かび上がった。
(……ちょっと待ってくださいませ?)
シルヴィアは彼の胸元に顔をうずめたまま、ふっと肩を揺らした。
「……クレマン様」
「ん?」
「私たちがこうして会うことを……王妃様も、どなたも『禁じる』とお仰ったことなど、一度もございませんわよね?」
「……何?」
クレマンの身体が、ぴくりと強張った。
シルヴィアはそっと身を引き、小さく首を傾げてみせる。その瞳には、先ほどまでの切なさは消え去り、少しだけ呆れたような、優雅な笑みが戻っていた。
「王妃様が気になさっていたのは、大事な筆頭侍女が無骨な執務室で夜遅くまで働かされることだけでございます。……お互いに『立場』だの『矜持』だのと難しく考えすぎて、ただ連絡の一本も寄こさずにすれ違っていたなんて……落ち着いて考えてみれば、なんだか酷くおかしな話ではありませんか?」
言われてみれば、周囲から「二人の交際を禁じる」などと言われた覚えは一切ない。
二人はお互いに仕事に対してあまりに誠実で、宮廷伯と筆頭侍女という立場を重んじるあまり、「私的な関わりを持ち込むべきではない」と勝手に高い壁を作り上げて自爆していただけなのだ。
自分の招いた滑稽な不器用に気づいたクレマンは、灰色の瞳をわずかに泳がせ、絶句した。
「……私は、君の立場を傷つけぬよう完璧な配慮をしていたつもりだったのだが」
「ええ。その過剰すぎる配慮のせいで、私がどれほど一人でヤキモキしたかお分かり?」
「……ぐ、ぐうの音も出ない」
あの鉄面皮のクレマンが、心底気まずそうに片手で口元を覆う。
そのあまりに生真面目な姿に、シルヴィアはとうとう堪えきれず、鈴を転がすような笑い声を零した。
「ふふっ……ですが、そんな真面目すぎる貴方だからこそ、私は惹かれたのかもしれませんわね」
シルヴィアは爪先立ちになると、呆然と立ち尽くすクレマンの頬にそっと手を添えた。
「これからは、無駄な深読みも我慢もやめにいたしましょう。お互いに難しく考えて苦しむのは、もうおしまいです」
「……ああ。君の言う通りだ」
己の滑稽さに苦笑しながらも、クレマンは今度こそ愛おしさを込めて、彼女の華奢な腰を引き寄せた。
二人の間を隔てていたのは、大層な障壁などではなく、ただ互いに真面目すぎたゆえの「思い込み」という幻影に過ぎなかったのだから。




