三女 シルヴィア 11
クレマンが王都を旅立ってから、季節は一つ巡り、秋の冷気と長雨が城塞を包み込んでいた。
諸国を巡る全権大使としての過酷な外遊を終え、クレマンが戻ってきたという知らせは、早朝の宮廷を静かに駆け巡った。
だが、旅立つ時と同じく、二人が私的に言葉を交わす機会のないまま時間が過ぎていく。
(……これでいいのですわ。お互い、本来の立場に戻っただけですもの)
シルヴィアは自分に言い聞かせ、王妃宮の回廊を進む。
だがその日の夕刻、王妃から「機構の報告書を宮廷伯の執務室へ届けるように」と命じられたとき、彼女の手元で羊皮紙がかすかに震えた。公務という揺るぎない名分。
けれど、それは同時に、逃げ場を失うことをも意味していた。
幾度となく通った執務室の重厚な扉。シルヴィアは深く息を整え、ノックを鳴らした。
「入れ」
短く、聞き覚えのある低い声。
扉を開けると、そこには長旅の疲労をわずかに滲ませつつも、相変わらず隙のない佇まいのクレマンがいた。デスクの上にうずたかく積まれた書類と、静まり返った部屋。
あの「一時間」と変わらない光景がそこにあった。
「王妃様より、機構に関する報告書のお届けに上がりましたわ」
シルヴィアは寸分の狂いもない淑やかな一礼を捧げ、書類を抱えて歩み寄った。
一切の私情を殺し、ただの「王妃宮筆頭侍女」として立ち振る舞う。
「……シルヴィアか」
クレマンは走らせていたペンを止め、弾かれたように顔を上げた。
灰色の瞳に一瞬だけ動揺が走り、彼はデスクの書類を受け取ると、静かに息を吐いた。
「わざわざすまない。助かる」
労いの言葉を受け取り、シルヴィアは書類を机に置くと、速やかに一礼した。
「用件は以上でございます。それでは、失礼いたします」
深入りを避けるように背を向け、一歩を踏み出したその瞬間。
「待て」
制する声とともに、鋭い足音が近づき、シルヴィアの手首が不意に掴まれた。
「……っ!?」
強く、けれど決して痛ませない絶妙な力加減。
手袋越しに伝わってくる熱に、シルヴィアの息が止まる。
振り返ると、そこにはいつもの鉄面皮ではなく、焦燥と抑えきれない情動を瞳に宿したクレマンが立っていた。
「……離してくださいませ、クレマン様。」
シルヴィアは冷たく突き放すように言った。
急いで王都を発たれてからの数ヶ月、一度も私的な連絡すら寄こさなかった彼への寂しさと、一人で勝手に思い詰めていた自分への情けなさが、言葉に微かな刺を込ませる。
「挨拶の一言もなく急ぎで旅立たれたのです。何か御用でしょうか?」
「違う」
クレマンの声が、低く室内にはじけた。
彼の手の力が増し、シルヴィアの身体が引き寄せられる。
「終わってなどいない。あの時は機構の発足と異国との交渉で一刻の猶予もなく、君に一言をかける時間すら惜しんで発たざるを得なかっただけだ」
クレマンの灰色の瞳が、濡れたように深く揺れている。
「……それに、中途半端な気持ちのまま君の手に触れれば、自分が王都を離れられなくなると分かっていた。だからこそ、何の約束も残せずに発つしかなかったのだ」
「クレマン様……」
「異国で君のいない夜を過ごすたび、私は自分がどれほど愚かだったかを思い知らされた。
言葉を惜しんだせいに、君に余計な冷たさを感じさせてしまったのなら……心から謝罪する」
彼にしては珍しく焦りを色濃く滲ませた、あまりにも真摯な釈明。
不器用で、けれど一切の嘘偽りがない彼の言葉が、すれ違いで冷え切っていたシルヴィアの心を解かしていく。
(……ズルいお人。そんな真面目な顔で言われたら、私が一人で勝手にいじけていただけみたいではないですか)
完璧な侍女の仮面の下で、シルヴィアの胸の奥から甘い切なさが溢れ出していた。




