三女 シルヴィア 10
数日後。
通商条約は無事に調印され、さらには諸国との経済的連携を強固にするための「通商条約機構」が正式に発足した。
宮廷内は連日のように祝勝ムードに包まれ、王妃宮もその祝賀外交や来賓の対応で、目を回すような多忙を極めた。
そして機構の発足に伴い、クレマンはその全権大使および全権統括総裁として、諸国との不眠不休の交渉や調整のために、まともな言葉も交わさぬまま王都を旅立っていった。
出発前の立ち話すら叶わず、大広間の謁見で交わしたのは、大勢の貴族たちの目を挟んだわずか一瞬の冷ややかな会釈のみ。
二人が私的に顔を合わせる機会は、完全に失われた。
「シルヴィア、今日の午後の来賓対応の件ですが……」
「ええ、手配はすべて完了しております。東館の控室にはお好みのハーブティーをご用意させましたわ」
王妃宮の筆頭侍女として、シルヴィアは以前にも増して完璧に務めをこなした。
一筆書きのように美しい無駄のない所作、一分の隙もない仕込み、そして何があっても乱れることのない気品ある笑み。
周囲の侍女たちが「さすがはシルヴィア様」と羨望の溜め息を漏らすほどの完璧さだった。
けれど、誰もいなくなった夜の回廊で一人立ち止まるとき、シルヴィアの視線は吸い寄せられるように「あの執務室」の方向へと向いてしまう。
(もう、あそこに行く理由も……貴方に会う口実もないのですものね)
クレマンが不在の執務室の窓には明かりが灯ることはなく、重く冷たい闇が広がっているだけだ。
あの部屋でふたり、重厚な振り子時計の音だけを聞きながら羊皮紙に向かい合い、時折触れ合った手と手の熱。
あの一時間が、まるで初めから存在しなかった幻のように思えてくる。
今頃、彼は馬車に揺られ、果てしない長旅の途上にあるのだろう。
どこへ向かい、今どのあたりを走っているのかすら、今のシルヴィアには知る由もない。噂すら届かないほどに遠ざかっていく彼の存在が、宮廷の賑やかさとは裏腹に、恐ろしいほどの静寂となってシルヴィアに襲いかかる。
自分を深く必要としてくれたあの灰色の瞳も、不器用で無骨だった温もりも、すべては国家の重大局面ゆえに生じた一時的な熱病だったのだろうか。
手元に残ったのは、彼が淹れてくれたハーブティーの残り香と、彼の隣でしか知らなかった自分の情けないほどの恋心だけ。
(私をただの『優秀な協力者』としてしか見ていらっしゃらなかったからこそ、あんなに呆気なく、綺麗に置いていかれたのね……)
彼にとってシルヴィアは、通商条約という盤面を勝利に導くための最高の「駒」であり、有能な「手札」に過ぎなかったのかもしれない。
用が済めば手元から離すのは、合理的で冷徹な彼らしい正しさだった。
私情を挟まず、潔く身を引くことこそが、王妃宮筆頭侍女としての己の誇り。
お互いに宮廷での立場があり、守るべき矜持がある。
だからこそ、一線を越えることは決して許されない。
分かっていたはずなのに。線を引いたはずだったのに。
静まり返った回廊で、シルヴィアはそっと自分の右手に左手を重ねた。
昨夜まで確かにそこにあった彼の体温を探すように、けれど指先に残る冷たさに、ただ静かに唇を噛み締めることしかできなかった。
すれ違ったまま遠く離れていく彼の面影と、追うことも許されない自分の立場が、シルヴィアの胸に解けない鎖のように、切ない痛みを刻み続けていた。




