三女 シルヴィア 9
王妃宮の振り子時計が、低く刻限を告げる。
「では、行ってまいります」
王妃に一礼を捧げ、シルヴィアは夜の回廊へと足を踏み出した。
これが二人の間にある「一時間」の最後になる——その覚悟を胸の奥にそっと秘めながら。
執務室の重厚な扉を開けると、そこにはいつも通りの光景があった。
書類の山、静まり返った室内、そしてデスクに向かってペンを走らせるクレマンの姿。
「来たか」
クレマンは時計を見ることなく言った。
灰色の瞳がシルヴィアを捉える。
その視線には、今日の昼の会議で東部派を見事にあしらい、通商条約の妥結を決定づけた男の勝利の影は微塵もなく、ただ目の前の彼女だけを映していた。
「昼の会議、見事な結果でしたわね。東部派の公爵方も、ぐうの音も出なかったとか」
「君の弾き出した数値に隙はなかった。それだけのことだ」
淡々と答えるクレマンだったが、彼は立ち上がると、シルヴィアのために一杯のハーブティーを淹れた。立ち上る湯気が、二人の間の空気をわずかに steam で包み込む。
「これで……通商条約の正式な調印式も、数日中に執り行われることになりますわね」
シルヴィアは温かいカップを受け取りながら、極めて自然な口調で尋ねた。
動揺を悟られぬよう、完璧な筆頭侍女の仮面を被って。
「ああ。正式調印の準備は私の補佐官たちに引き継がせた。君の手を煩わせるような計算は、もう残っていない」
(……ああ、やはり)
冷たい現実が胸を穿つ。
仕事は終わり、二人の間を結んでいた「利害の一致」という唯一の絆は、ここで完全に潰えるのだ。
「それでは……私の役目も、今夜で終わりということですわね」
シルヴィアの問いに、クレマンはすぐには答えなかった。
静寂が室内を支配する。
彼はただ、静かに彼女を見つめ、デスクの上の書類を一瞬だけ強く握りしめた。
何かを言いかけるようにわずかに唇を開き——けれど、すぐにそれを固く結び直してしまう。
「……王妃様との約束だ。条約の目途が立った以上、君をこれ以上拘束する理屈はない」
「……そうでございますわね」
クレマンの口から出たのは、どこまでも誠実で、けれど冷酷なまでに「正論」でしかない言葉だった。
彼のことだ。自分の立場とシルヴィアの誇りを守るため、これ以上の個人的な感情で彼女を巻き込むわけにはいかないと考えているのだろう。
だが、その完璧すぎる節度が、今のシルヴィアには何よりも切なかった。
「……短い間でしたが、宮廷伯様のお役に立てて光栄でしたわ」
シルヴィアは極上の微笑みを浮かべ、完璧な角度で礼をとった。
彼に伸ばしかけた指先を、ドレスの袖の中にそっと隠しながら。
「では、失礼いたします」
クレマンは背を向けた彼女の姿をただ黙って見送り、見開かれた灰色の瞳には落ちていく影だけが残されていた。
扉が閉まり、カツンと静かに遠ざかる足音。
これが、二人の「一時間」の終わりだった




