三女 シルヴィア 8
王妃宮の重厚な扉が静かに閉まり、クレマンの気配が遮断された瞬間。
シルヴィアは壁にそっと背を預け、誰にも見せられない小さな溜め息を吐き出した。
廊下の冷え込んだ空気とは対照的に、クレマンと接触していた右腕だけが、いつまでも熱を帯びている。
「……愚かな人」
暗がりの中で呟いた声は、驚くほどかすれていた。
明日の昼、東部派の公爵へ突きつける書類は完璧だ。
シルヴィアの計算通りに事が運べば、長年膠着していた通商条約の交渉は一気に妥結へと向かうだろう。
それは宮廷伯としてのクレマンの完全勝利を意味し、同時に——シルヴィアが彼の執務室に通う口実が、完全に潰えることを意味していた。
翌朝。
王妃宮の広間に差し込む日差しは、夏の終わりの酷暑を映すようにどこか重たく、眩しかった。
「シルヴィア。そろそろ彼方も大詰めですわね」
朝食のダージリンにそっとミルクを注ぎながら、王妃は優雅に微笑んだ。
そのお声には隠しきれない満足感が滲み、いつもより微かにトーンが高く、心なしかお機嫌な様子が伺える。
東部派との長年の対立にようやく終止符が打たれる兆しに、気品を保ちつつも胸を躍らせているのだ。
「はい、王妃様。補正計算はすべて完了いたしました。……。後は最後の確認を残すのみとなります。」
「ええ、あのお堅い宮廷伯がそこまで認めるのですもの。会議で東部派の公爵たちがどんな顔をするか、今から少し楽しみですわね」
王妃は楽しそうに目を細め、ソーサーにカップを静かに戻した。
「これで通商条約の締結も、もう目と鼻の先。大事な役割を果たしてくれたあなたには、近いうちに格別の褒賞を授けなくてはね。……まあ何より、これでようやくあなたをあの無骨な執務室へ貸し出さずに済むと思うと、わたくしも心から安堵いたしましたわ」
「……ええ。仰る通りでございます」
淑やかに、けれど隠しきれない満足感で微笑む王妃の言葉に、シルヴィアは深々と頭を下げて同意した。
王妃からしてみれば、大事な筆頭侍女を男の執務室に通わせる不本意な日々がようやく終わるのだ。
ほっと胸を撫で下ろされるのも当然のことだった。
だが、言葉を返すシルヴィアの胸の奥は、冷たい針で突かれたようにチクリと痛んだ。
指先にすっと力を込め、いつも通りの隙のない笑みを張り付ける。王妃の言う通りなのだ。
条約が締結されれば、二人の間にある「利害の一致による協力関係」は完全に終了する。
本来の自分は、王妃の懐刀であり、誇り高き筆頭侍女。
宮廷伯の過酷な要求に眉一つ動かさず応えて見せたのは、己の能力を証明するためであり、彼に恋着するためではなかったはずなのだ。
(分かっていたことですわ。最初から、条約締結までの限定された関係だったのだから……)
そう自分に言い聞かせるほどに、昨夜、夜の廊下で伝わってきた彼の均一で温かな体温が、鮮明に脳裏に蘇ってしまう。
自分の能力を誰よりも買い、飾りではなく「一人の人間」として求めてくれた男。
冷徹な仮面の裏に隠された、不器用なまでの情熱と誠実さ。
(あの一時間だけが……私が『私』でいられる時間だったのに)
仕事を完璧にこなせばこなすほど、彼との別れを自らの手で手繰り寄せてしまう皮肉。
穏やかな歓談に包まれる王妃宮のなかで、シルヴィアは遠くの執務室で今頃最終準備を進めているであろう鉄面皮な男の横顔を思い浮かべ、最後になるかもしれない「今夜の一時間」に向けて、密かに決意を固めるのだった。




