三女 シルヴィア 7
言葉を削ぎ落とした静寂のなか、足音ひとつ立てない静けさで二人は石造りの回廊を進んでいた。
クレマンの差し出した腕にそっと添えた手から伝わってくるのは、どこまでも均一で、微かな揺らぎもない体温だ。
氷の宮廷伯などと恐れられている男のすぐ隣が、これほどまでに暖かく、確かな安心感を与えてくれるものなのかと、シルヴィアは自分でも驚いていた。
(……ズルいわ、この男は)
自分を飾りの人形として扱う並の貴族たちなら、とっくに聞こえのいい甘言を並べ立て、手柄を奪い、手篭めにしようと画策するだろう。
だがクレマンは違った。
通商条約の締結という、国運を賭けた重大なミッションを成功させるためだけに、シルヴィアの誇りと頭脳を何よりも尊重し、一切の手加減なしに最高の対等さを要求してくる。
リスクを承知で自分に大役を任せ、執務が終われば、こうして無骨に、けれど完璧な手取り足取りで守り抜くのだ。
「……何を考えている」
前を見据えたまま、クレマンが低く問いかけてきた。
「別に……貴方の横顔が相変わらず鉄面皮だな、と考えていただけですわ」
「そうか。私は、明日の昼の会議で東部派の公爵がどんな顔をするか考えていた。君の弾き出した補正数値を見せつければ、通商条約の締結に向けた最大の障害が取り払われる」
「あら、私の完璧な仕事の成果を、貴方が独り占めして威張るつもりですの?」
「まさか」
クレマンはわずかに歩調を緩めると、チラリとシルヴィアを見下ろした。
その灰色の瞳には、夜の闇を溶かすような柔らかな熱が宿っている。
「『王妃宮筆頭侍女の協力による完璧な精査である』と、全員の前で公表する。条約が締結されるその日まで、君の誇りを踏みにじるような真似はしない」
「……っ」
どこまでもまっすぐで、一切の邪気がない信頼の言葉。
シルヴィアは胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われ、咄嗟に明後日の方向を向いた。
「……そういう大袈裟な主張を押し通そうとするから、王妃様の耳に入って『私の筆頭侍女を連れ回して重労働させている』とお怒りを買ったのですわ。だから執務時間を厳格に一時間に制限されたのではありませんの?」
「王妃様には正々堂々と説明するまでのことだ。通商条約を成功させ、君という稀代の才能を宮廷の政治劇から守り抜くためには、私にとっても君にとっても、この一時間は絶対に譲れない」
胸の奥に、甘く切ない痛みが走る。
明日の会議を乗り越えれば、間もなく通商条約は無事に締結されるだろう。
そうなれば、この「夜の一時間」も、命運を共にする特別な協力関係も、すべて役目を終えて静かに消えてしまうのだ。
(条約が結ばれたら……もう、こうして貴方の隣を並んで歩く理由もなくなってしまうのね)
手元に残るクレマンの体温が急にいとおしく、そして寂しく思えて、シルヴィアはそっと奥歯を噛み締めながら小さな息を吐いた。
やがて、重厚な装飾が施された王妃宮の扉が見えてくる。
扉の前に立つ二人の近衛兵が、夜の暗がりから現れた宮廷伯と、その腕に支えられた筆頭侍女の姿を目にして、一瞬だけ目を見開いた。
「ここまでで結構ですわ、クレマン様」
シルヴィアはそっと彼の腕から身体を離した。ハーブティーと彼の気遣いのおかげか、足取りにはいつもの気品と確かな力が戻っていた。
「見事なエスコートでしたこと。……条約が結ばれるその日まで、明日もまた、一時間だけ付き合って差し上げますわ」
「ああ。楽しみにしている」
クレマンは胸に手を当て、完璧な一礼を捧げた。
その動作一つをとっても、彼女をただの侍女としてではなく、命運をともにする唯一無二のパートナーとして扱っていることが嫌というほど伝わってくる。
背を向け、王妃宮の扉をくぐるシルヴィア。
背後に残るクレマンの視線と、遠ざかる体温の切ない余韻を感じながら、彼女の唇には、誰にも見せられない小さな笑みが浮かんでいた。




