三女 シルヴィア 6
「——そこまでだ」
重厚な振り子時計がガチリと時を刻み、低く重い打鐘の音が響いた瞬間。
クレマンの淡々とした声が、室内の緊張を打ち破った。
シルヴィアの羽ペンが、羊皮紙の上でピタリと止まる。
最後の一行、関税率の補正計算の数値を記入し終えた、まさにその瞬間だった。
「……ちょうど一時間。一分たりとも超過しておりませんわ、宮廷伯様」
シルヴィアは息を整え、ふうと小さな息を漏らすと、完璧な手つきでペンをスタンドに戻した。白磁のような額にはうっすらと汗が滲み、頬は熱気を帯びて桜色に染まっている。
デスクの反対側で、クレマンは彼女が提出したファイルを手に取り、灰色の瞳で静かに視線を走らせた。
本職の補佐官たちが二日かけてなお頭を抱えるレベルの複雑な関税見直し案。過去の不整合なデータを見抜き、最適解を算出した完璧な書類が、そこには完成していた。
「……見事だ。文句のつけどころがない」
「当たり前ですわ。誰に仕事を頼んだと思っていらっしゃいますの?」
ふん、と誇らしげに顎を上げるシルヴィア。
だが、その肩は目に見えて力尽き、小さく揺れていた。限界まで引き絞っていた緊張の糸が切れた証拠だった。
クレマンはファイルを閉じると、引き出しの中に鍵をかけてしまってから立ち上がった。
「約束通り、自室まで送る」
「結構ですわ。王妃宮までの道のりくらい、一人で戻れます」
「王妃様との約束だ。『一分たりとも無駄な負担をかけず、無事に送り届けること』が条件に含まれている。……君が途中で倒れでもしたら、明日の朝にはこの執務室が焼き払われる」
「……どこまでも大げさなお人ですこと」
口では毒づきながらも、シルヴィアは立ち上がろうとして——一瞬、視界がぐらりと揺れた。
「っ……」
倒れそうになった身体を支えたのは、素早く回り込んできたクレマンの腕だった。
無機質で冷徹に見える男の、不器用なほど力強く、温かい体温。
鼻腔をくすぐる、上質なインクと微かな煙草の香り。
「な、何をするのですか……! 無礼ですわ!」
顔を真っ赤にして跳ね起きようとするシルヴィアだったが、クレマンは彼女の肩をしっかりと抱え直すと、静かに、けれど逃がさない強さでその身体を支えた。
「無礼で結構だ。歩けるか?」
「あ、歩けますわ! この手を離して……っ」
「断る」
クレマンの短い一言に、シルヴィアの言葉が詰まった。
見上げると、いつもの鉄面皮な横顔があった。
だが、その灰色の瞳には、隠しきれない真摯な懸念と、彼女を誰よりも高く買っている男の誇りが宿っていた。
「君は完璧に仕事をこなした。ならば、私の役割は君を無事に送り届けることだ。……嫌なら、次回から作業時間を三十分にする」
「〜〜〜〜っ! 卑怯……! どこまでも卑怯なやり口ですわ、宮廷伯様……っ!」
悔しそうに唇を噛み締めながらも、シルヴィアはこれ以上抗うのを諦め、そっと彼の腕に身体を預けた。
夜の静まり返った廊下を進む二人の歩幅は、いつの間にかぴったりと揃っていた。
言葉こそ交わさないものの、互いへ寄せる絶対の信頼と温かな体温が、暗がりの中で心地よく胸を満たしていくのだった。




