三女 シルヴィア 5
「……一時間の繰り上げか。実質仕事処理が半減となるということか」
執務室の振り子時計が重厚な音を響かせる中、クレマンは手元の懐中時計に視線を落とした。
デスクの対面には、すでにペンを握りしめ、獲物を狙う猛禽のような鋭い眼光を放つシルヴィアが座っている。
「王妃様より『一日一時間厳守』の仰せを賜りましたの。一分でも過ぎれば、王妃様自らこの執務室の書類を暖炉にくべに突撃してこられます。……貴方も大切な国政の書類を灰にされたくはないでしょう?」
「……なかなか聞かない脅迫だな。通商条約を灰にするのか」
クレマンは眉一つ動かさず、デスクの上に二束の分厚いファイルを置いた。
「本来ならば二時間で精査する予定だった、東部領地の鉱物資源における関税見直し案だ。本職の補佐官たちでは二日かかる量だが……1日一時間で仕上げられるか?」
「私を誰だとお思いで?」
シルヴィアはフンと胸を張り、優雅な手つきで羽ペンをインク壺に浸した。
「王妃宮の筆頭侍女であり、貴方の気まぐれに付き合って差し上げている唯一の人間ですわ。一時間で完璧に仕上げてみせますから、貴方も足を引っ張らないでくださいまし」
言葉が終わるや否や、二人の間に一切の無駄話はなくなった。
カサリ、と書類をめくる音と、カリカリと羊皮紙を走るペンの音だけが室内に響き渡る。
(絶対に……あの一時間の制限のせいで処理しきれなかったなんて言い訳、この男の前で吐くものですか……っ!)
シルヴィアの胸の中では、猛烈なまでの対抗心とプライドが渦巻いていた。
今朝、王妃宮で注がれた温かい慈愛。見え透いたお世辞や美貌への賛辞ではなく、自分という人間の「努力」そのものを認めて愛してくれる王妃の言葉は、涙が出るほど嬉しかった。
だからこそ、王妃様の期待を裏切るような真似は万に一つも許されない。完璧な侍女として朝から晩まで仕え、そして夜のわずか一時間で、この「氷の宮廷伯」が提示する膨大な課題をすべて粉砕してみせる。それが、自分の誇りだった。
(過去五年の関税データ、東部貴族たちの思惑、市場の相場変動……見えてきたわ。この数字、意図的な記載漏れがある……!)
頭脳を極限まで加速させ、羊皮紙の上に素早く指摘を走らせる。
ふと視線を動かすと、無表情のまま恐ろしい速度で書類を片付けていくクレマンの姿があった。
男たちは皆、シルヴィアの前に立つと鼻の下を伸ばし、機嫌を取ろうと甘い言葉を並べ立てる。
だが、このクレマンだけは違った。彼女が侯爵家の令嬢だろうと、絶世の美女だろうと一切関係ない。
一人の能力ある人間として容赦なく扱い、一切の妥協を許さない。
(悔しいけれど……この男の隣にいる時だけが、私がただの『飾りの人形』じゃないと実感できるのよ)
自分を必要とし、対等な戦力として全幅の信頼を寄せてくるこの冷徹な男。
その期待に応えたいと願ってしまう自分を、シルヴィアは認めざるを得なかった。
無感情にペンを走らせながら、クレマンもまた、視線だけでシルヴィアを観察していた。
(……驚異的な集中力だ)
手際の鮮やかさは、長年国政に携わってきた自分の眼鏡にかなうどころか、時にこちらの予想すら超えてくる。
見えないところで血の滲むような努力を重ね、完璧を追い求めるその気高い魂。
(王妃様がお怒りになるのも道理か。……私が彼女の能力に甘え、酷使しすぎた)
自分が手放したくないと望んだせいで無理をさせている自責と、それ以上に「自分の隣で引けを取らずに戦ってくれるのは、世界中でこの女しかいない」という、冷徹な仮面の下に秘めた強い執着。
クレマンは静かにペンを置くと、席を立った。
「シルヴィア」
不意に低い声で名を呼ばれ、シルヴィアは肩を跳ねさせた。
「……何か問題でも? 私は今、非常に重要な箇所の確認をして——」
言いかけたシルヴィアの目の前に、湯気の立つ温かいハーブティーのカップが静かに置かれた。
「根を詰めすぎだ。思考の精度が落ちる。一口飲め」
「……っ、指示を出される筋合いはありませんわ! まだ三十五分しか経っていませんのよ!?」
「だからこそだ」
クレマンは灰色の瞳でまっすぐにシルヴィアを見下ろした。
「一時間という制約の中で、君が全力を出し切ろうとしているのは分かる。だが、疲労で精度が落ちたデータを提出されては困る。……君の完璧な仕事が必要なのだ、シルヴィア」
(そして——君が倒れてしまっては、困る)
口には出さず心の中で付け加えた言葉。
自分の美貌や身分ではなく、ただ「自分」を必要とする絶対の信頼。
そして、無骨で身勝手なまでの気遣い。
「〜〜〜〜っ!」
胸が、ドクンと激しく跳ね上がった。
シルヴィアの顔が一瞬で爆発したように真っ赤に染まる。
(なんなのよ……なんなのよ、この男は……っ! そんな顔で、そんな声で言われたら……拒めるはずがないじゃない……!)
「な、生意気なことを……っ! 人の機微に疎いくせに、人間に指示を出さないでくださる!?」
怒鳴るように言い返しながらも、シルヴィアは素直にカップを取り、熱いハーブティーを一口含んだ。甘い香りと温もりが体内に広がり、知らず知らず強張っていた肩の力がふっと抜けていく。
それを見届けたクレマンは、胸の奥で小さく満足の溜め息をつくと、自分の席へと戻った。
(あと二十五分。一秒たりとも無駄にはできないわ)
赤くなった耳元を隠すように白銀の髪を払いながら、シルヴィアは心の中で激しく毒づく。
自分を「宝物」として深く愛してくれる王妃宮と、自分を「不可欠な存在」として求め、不器用な情熱を傾けてくるこの執務室。
(負けてたまるものですか。あの一時間で、貴方の鼻を明かして差し上げますわ!)
「……ふん。あと二十五分ですわ。貴方の処理が遅れたら、容赦なく置いて点検を終わらせますからね」
「期待している」
短い返答とともに、再び室内に心地よいペンの音が響き始める。
限られた一時間という時間の中で、二人の不器用で確かな絆は、夜の宮廷で静かに、けれど熱く刻まれていくのだった。




