三女 シルヴィア 4
午前中の柔らかな光が差し込む王妃宮のサロン。
可憐な磁器のカップから漂うアールグレイの香りが、静寂に包まれた室内を満たしていた。
「……やはり、あなたが淹れてくれたお茶が一番落ち着くわ、シルヴィア」
ソファに腰掛けた王妃は、満足そうに吐息を漏らした。その傍らには、一切の無駄がない優雅な所作でおかわりのお湯を準備するシルヴィアの姿がある。
お辞儀の角度、茶葉の蒸らし時間、王妃の喉の乾き具合を察する絶妙なタイミング。
シルヴィアが提供するサービスは、本日も寸分の狂いもない完璧なものだった。
「もったいないお言葉にございます、王妃様」
シルヴィアは隙のない完璧な笑みを浮かべ、静かに佇む。
王妃はその美しい横顔をうっとりと眺めていたが、ふと、シルヴィアの目元にわずかな影——隠しきれなかった微かな疲労の痕跡を見つけると、途端にその眉をひそめた。
「……シルヴィア。昨夜も、例の冷血漢の執務室に行っていたのでしょう?」
不意を突かれたシルヴィアの背筋が、ぴくりと跳ねた。
「……宮廷伯様からご依頼のあった、通商データの精査に少しだけお時間をいただいたまでにございます。ですが本業に支障は——」
「支障がないからこそ、タチが悪いと言っているのよ!」
王妃は小さくテーブルを叩き、憤々とした様子でカップを置いた。
「あの氷のような男……クレマン宮廷伯! 宮廷の女たちがどれほど色目を使おうと鉄くずのように切り捨てるから、少しは骨のある男かと思っていれば……まさか私の大事な大事なシルヴィアを、勝手に自分の『有能な補佐役』などと呼んで使い込むなんて!」
王妃の頬が怒りで朱に染まる。
「昔から目鼻立ちの美しさばかりが持て囃されがちなあなたを、私がどれほど大切に手元で育み、その本当の賢さと努力を愛でてきたか! それを彼の方は……『過去データも把握する有能な補佐官』だなんて涼しい顔で言い放って! 私の宝物を勝手に自分の手駒にするなんて、万死に値するわ!」
(お、王妃様……そこまでお怒りだったなんて……)
シルヴィアは内心で冷や汗をかきながらも、どこか胸の奥が温かくなるのを感じていた。
誰もが自分の「顔」しか見ない中、王妃だけは昔から、自分の泥臭い努力や細やかな気配りそのものを愛してくれていたのだ。
「……ご安心ください、王妃様。宮廷伯様には、今後は毎晩二時間以上の作業は一切手伝わないと厳重に約束させましたわ。これ以上、私を使い潰すような真似はさせません」
シルヴィアが凛とした声で伝えると、王妃は首を横に振った。
「……シルヴィア。先ほど二時間と言ったけれど、撤回します」
美しい眉をきゅっと寄せて真剣な眼差しで見つめてくる。
「睡眠不足は美容だけでなく、健康の大敵です。侍女の執務だけでも人一倍完璧にこなすあなたが、夜に二時間も書類と向き合うなんて絶対にいけません。……手伝いは、せめて一日一時間に限定しなさい」
「一時間、でございますか……?」
シルヴィアが思わず目を見開くと、王妃は小さく溜め息をつき、扇子を優しく優雅に胸元で開いた。
「ええ、一時間です。それ以上は一分たりとも許しません。あの冷酷な男が泣きつこうと、私が許しませんからね」
そう口にしながらも、王妃は扇子の陰でそっと息を呑み、胸の中で密かに歯噛みしていた。
(……クレマン宮廷伯。どれほど甘言を弄したのかしら。美貌だけに群がる男たちを心底ゴミ屑のように嫌っていたシルヴィアが、あそこまで意地になってあの男の元へ通おうとするなんて……。私の大事なお気に入りを、よくも手放さずに手懐けてくれたものだわ……)
王妃にとってシルヴィアは、ただの「美しい侯爵令嬢」という飾りではない。
他のどの侍女よりも早く起きて完璧に立ち回り、見えないところで人の何倍も努力を重ねるその生真面目さと高いプライドを、何より愛おしく買っていたのだ。
それをあの感情のない機械のような男が、いとも容易く自分の領域へと引き入れ、シルヴィア自身に『自ら手伝いたい』とまで言わせている。
その手腕への不快感と、愛しい侍女を奪われたような口惜しさが、王妃の優雅な胸中に渦巻いていた。
「おわかりね、シルヴィア? 一時間以上引き留められるようなら、私が直接執務室へ乗り込んで、あの男の書類をすべて暖炉に投げ込みますわ」
上品な微笑みの裏に溢れ出る確かな圧力を感じ取り、シルヴィアは背筋を正した。
「……はい、王妃様。お心遣い、深く感謝申し上げます。決して無理はいたしませんわ」
深々とお辞儀をするシルヴィアの頭を、王妃は愛おしそうに撫でた。
「そうよ。あなたは私にとって、何物にも代えがたい宝物なのですから。あんな無機質な男の書類の山に埋もれさせてなるものですか」
「……もったいないお言葉にございます」
頭を下げながらも、シルヴィアの心の中には一抹のヤキモキした感情が芽生えていた。
(一時間……! たった一時間で、あのクレマン宮廷伯が提示してくるあの量のデータを処理しろとおっしゃるの……!?)
王妃の深い愛と気遣いは心から嬉しい。
だが同時に、「二時間あれば彼の倍の精度で片付けてみせる」と見得を切ったばかりのプライドが激しくくすぶる。
(いいでしょう……。それなら、あの一時間で彼の期待のさらに上を行く処理速度を見せて差し上げますわ! あんな機械男に『時間が足りなかった』なんて言い訳、絶対にさせてたまるものですか……っ)
自分を「宝物」として深く愛してくれる王妃の慈愛。
そして、自分を「対等な仕事人」として容赦なく求め、信頼を寄せるクレマンの冷徹な眼差し。
二人の間で強烈に愛され、必要とされる絶世の美女は、一時間のタイムリミットという新たな挑戦に密かに心を燃やし、どこまでも気高く胸を張るのだった。




