三女 シルヴィア 13
クレマンの腕に包まれたまま、シルヴィアは微かに肩を揺らした。
先ほどまでの張り詰めた緊張感や胸を刺すような切なさが嘘のように、重厚な執務室には穏やかで、どこか可笑しな温もりが満ちていた。
数ヶ月もの間、お互いに「立場」や「矜持」を盾にして勝手に身を引いては悩み抜いていたのだと思うと、呆れを通り越していっそ愛おしさがこみ上げてくる。
「それで……これからどうなさるつもりでしたの? 『通商条約機構』の総裁として、私にまた難解な数値を弾き出せとでも命じるおつもりでしたの? 『公務』という完璧な名分を盾にして」
腕の中で悪戯っぽく瞳を輝かせ、上目遣いに見上げてくるシルヴィア。
その問いかけに、クレマンは苦笑を噛み殺しながら、抱き寄せる腕の力をわずかに緩めた。
だが、指先ひとつ分たりとも彼女を逃す気はないとばかりに、その腰に回した手はしっかりと引き寄せたままだ。
「いや……君にそんな重労働を命じるつもりはない。これ以上、君を自分の執務室に囲い込めば、今度こそ王妃様から正式な抗議文書が届いてしまうからな」
「まあ。自覚はおありでしたのね」
「……ああ。だが、異国からの私信の一本も送らなかった己の愚かさについては、ぐうの音も出ない。君の言う通り、周りの目や立場を気に病むあまり、一番届けるべきだった言葉を蔑ろにしていた」
クレマンは深く、静かに息を吐き出すと、灰色の瞳でまっすぐにシルヴィアを見つめた。
いつもなら完璧に張り直されているはずの冷徹な政治家の面影は、どこにもない。そこにあるのは、ただ一人の男としての愚直なまでの誠実さと、抑えきれない熱だけだった。
「名分も、遠回りな理屈も、もう要らないのなら……素直に言おう。シルヴィア、私はただ、君に隣にいてほしい。仕事の有能な『協力者』としてではなく、私の生涯の伴侶として」
不器用で、生真面目で、難しく考えすぎてしまう男が、長い回り道を重ねた末に辿り着いたたった一つの言葉。
一切の飾り気のない、けれどこれ以上ないほど思いの詰まった求婚に、シルヴィアの胸の奥がじんわりと熱く痺れていく。
完璧な筆頭侍女として生きてきた彼女の心に、甘い幸福感がじわじわと広がっていった。
「……ズルいお方ですわ、クレマン様。そんな風に真っ直ぐにおっしゃられたら、私、お断りする口実すらなくなってしまいます」
「断るつもりがあったのか?」
「まさか。私がこの言葉をどれほど待ち焦がれていたか、本当にお分かりになっていらっしゃらないのね」
シルヴィアは爪先立ちになり、彼の首元にそっと華奢な両腕を回した。
彼の着ている上着の固い生地越しに、驚くほど速く打たれている彼の鼓動が伝わってくる。
冷徹な宮廷伯も、自分と同じように緊張し、心を乱していたのだと思うと、胸がキュッと締め付けられた。
「王妃宮の筆頭侍女としてのお役目は、後任をしっかりと育ててから、責任を持って引き継ぎますわ。ですから……それまでは、またあの『一時間』を復活させてくださる?」
「一時間、か」
クレマンの薄い唇に、小さく、けれど酷く優しい笑みが浮かんだ。
「いや……これからはもう、時計の針を気にする必要はない。君が望むなら、夜が明けるまでここにいればいい」
二人を縛りつけていた勝手な誤解と矜持の壁は完全に溶け去り、重なり合った唇から伝わる熱が、城塞を包む冷たい秋の夜を静かに溶かしていった。




