第36話 トロイ
※本編では映画の結末を含むネタバレがあります。
映画紹介
公開年:2004年
監督:ウォルフガング・ペーターゼン
主演:ブラッド・ピット、エリック・バナ、オーランド・ブルーム
スパルタ王メネラオスの妃ヘレネは、トロイアの王子パリスと恋に落ち、彼とともに国を去る。メネラオスの兄アガメムノンは、弟の妻を取り戻すことを名目にギリシャ諸国の大軍を集め、難攻不落の都市トロイアに攻め込む。ギリシャ最強の戦士アキレウスと、祖国を守るトロイアの王子ヘクトル。二人の英雄を中心に、都市の滅亡までを描く。
オーブンから天板を取り出した。
小ぶりの鯛を一尾、腹にローズマリーとタイム、レモンを詰めて焼いてある。表面にはオリーブ油を塗り、塩を振った。
付け合わせは、レンズ豆と玉ねぎを煮てパセリを混ぜたもの。別の皿にはオリーブとパンを並べた。
ゼウスは、鯛から立ち上る香りを吸い込んだ。
「今日は、ずいぶん香るな」
「魚の香草焼き。トロイアがあった辺りの料理を意識した」
「ほうトロイアか」
俺は冷蔵庫から取り出して白ワインの瓶を見せた。
「これもトルコ産の酒だ」
ゼウスが瓶を受け取り、書かれた文字を眺めた。
「酒の土地も合わせたか」
「時代は全然違うけどな」
「それでも、よく整えた食卓だ。感心したぞ」
珍しく、素直に褒められた。
俺はゼウスから瓶を取り、栓を抜いた。
「牛が無いのは惜しいが、魚も悪くない。香草と葡萄酒があれば、十分に楽しめる」
「牛がないだけで減点する癖、やめろよ」
ゼウスはパンをちぎり、魚の汁につけた。
「本当は、発酵させてない平たいパンにしたかったんだが、近所じゃ手に入らなかった」
ゼウスは一口食べた。
「違うが、こちらの方が柔らかくて美味いぞ」
「時代考証より食感を取るか」
「古い方が美味いとは限らぬ」
グラスにワインを注いだ。
ゼウスは一口飲み、満足そうに頷いた。
俺はその顔を見てから、リモコンを取った。
「ここまで整えて何を見せるつもりだ」
「今日の映画は『トロイ』」
ゼウスの顔が明るくなった。
「トロイア戦争か!それで食事まで整えたのか」
「せっかくだからな」
「よくやった、人間」
「先に言っとくけどお前が知ってるトロイ戦争とは、だいぶ違う話になってるからな」
「前にも言ったであろう。土地と詩人が変われば神も姿を変える。それが神話だ。むしろ今の人間が我々をどのように変えるのかを見るのは興味深い」
「そ、そうか。柔軟な姿勢で助かる」
俺は再生ボタンを押した。
*
ギリシャの王アガメムノンは、武力によって周辺の国々を従えていた。
彼に屈することを拒んだ王は、巨体の戦士ボアグリアスを出す。アガメムノンは、こちらの代表としてアキレウスを呼んだ。
「テッサリアにこんな巨漢の戦士いたか?何故アガメムノンがテッサリアを攻める。そもそもアキレウスもテッサリアの出だぞ」
「そうなのか。この映画だとアガメムノンはエーゲ海を支配するって野望で動いてるんだよ」
「アガメムノンは総大将として凡庸なところはあったが、そこまで強欲な王ではなかったぞ。むしろよく泣き言を漏らしておった」
「そっから違うのか。わかりやすい悪役に変えられてんだな」
だが、アキレウスは姿を見せない。
少年が走って呼びに行く。
アキレウスは眠っていた。
「王を待たせて寝ておるぞ」
「アガメムノンが嫌いなんだよ」
「嫌いでも、戦場で王を待たせるのは感心せぬ」
アキレウスは、呼びに来た少年とともに戦場へ向かった。
少年は、相手が今まで見た中で最も大きな男だと話す。自分なら戦いたくない。
アキレウスは、だからお前の名は誰も覚えないと返した。
ゼウスが笑った。
「よい答えだ」
「相手が使い走りの子供じゃなければな」
アキレウスは一人で敵軍の前に立った。
巨漢のボアグリアスが剣を構え、正面から突進する。
アキレウスは走り、盾を踏み台にして跳び上がった。
剣先が、ボアグリアスの肩から首に突き刺さる。
一撃だった。
ゼウスがテーブルを叩いた。
「見事だ!」
ワインがグラスの中で揺れた。
「こぼすなよ」
「今の跳躍を見たか。相手の大きさを、そのまま死角に使った」
「ブラッド・ピット、身体作ったよな」
「これが、この話のアキレウスか。よい男だ」
「顔か?」
「身体だ。槍を投げる肩も、走る脚もよく鍛えられておる」
「まずそこを見るんだな」
「そして顔も良い」
「最後の評価いるか?」
「英雄には威容も必要だ」
アキレウスは、アガメムノンへ勝利を捧げなかった。
自分が戦ったのは王のためではないと言い残し、一人で去っていく。
「総大将への態度は悪いな」
「さっきまで褒めてたのに」
「戦士としての評価と、臣下としての評価は別だ」
*
スパルタでは、トロイアの王子ヘクトルとパリスが、メネラオス王との和平を結んでいた。
兄ヘクトルが宴席で言葉を交わす一方、弟パリスはメネラオスの妻ヘレネと密かに会っている。
トロイアに戻る船の中で、パリスはヘレネを兄に見せた。
ヘクトルの顔から血の気が引いた。
ゼウスがパリスを見た。
「始めたな」
「何を?」
「アフロディーテから約束された女を連れ去った」
「約束?」
「三柱の女神のうち、誰が最も美しいかを、この男が選んだのだ。アフロディーテは褒美として、世界で最も美しい女を与えると約束した。ヘラはアジアの支配を、アテナは戦での勝利を提示した。それでも女を選んだ」
「誰が美しいかって選考基準はどこに行ったんだよ。賄賂合戦じゃねーか」
ヘクトルは、今すぐ船を戻してヘレネを返すべきだと主張した。
パリスは、戻れば自分もヘレネも殺されると訴える。
ヘクトルは弟を見捨てられず、トロイアへ進むことを選んだ。
「兄に背負わせるところまで変わらぬな」
「お前、パリスに厳しいな」
「これから一つの都市が、こやつの選択で焼けるのだぞ」
「神に約束された女なんだろ?」
「それでも人妻を選んだのは、こやつだ」
「そこは本人の責任なのか」
「神は道を示す。歩く足まで奪ったわけではない」
*
妻を奪われたメネラオスは、兄アガメムノンに助けを求めた。
アガメムノンは弟の名誉より、トロイアを征服する機会を喜んでいる。
エーゲ海の向こうにあるトロイアを落とせば、交易路を支配できる。
アガメムノンはギリシャの諸王を集めた。
だが、トロイアを落とすにはアキレウスが必要だった。
イタケの王オデュッセウスが、アキレウスを説得する。
「オデュッセウスか」
「知ってるのか?」
「我が娘アテナのお気に入りだ。よく覚えておる。知恵の回る男だ。口もよく回る」
「それ褒めてんの?」
アキレウスは出陣を迷い、母に会った。
海辺にいた母テティスは、息子の二つの未来を語る。
故郷に残れば、妻を得て、子や孫に囲まれて長く生きる。やがて、その名は忘れられる。
トロイアへ行けば、帰ることはできない。だが、彼の名は何千年も残る。
ゼウスが頷いた。
「テティスではないか」
「アキレウスの母親だ。知ってんだな」
「知ってるもなにも私の孫の妻だ。海の神の一人だ」
「ご親戚でしたか」
「やはり神々も出るのだな」
俺はパンをちぎった。
「まあ、見ろよ」
「しかし、ずいぶん人の暮らしに馴染んでおるな」
「息子と話す時くらい、人の姿になるんじゃないか?」
「それもそうか」
アキレウスは、トロイアへ行くことを選んだ。
ゼウスは満足そうにワインを飲んだ。
*
千隻もの船が海を渡った。
トロイアの浜に着くと、アキレウスとミュルミドン兵は本隊を待たずに上陸した。
少数で浜を制圧し、そのままアポロンの神殿まで攻め込む。
アキレウスは剣を振り、神像の首を斬り落とした。
石の頭が地面に落ちる。
ゼウスが身を乗り出した。
「なんと不敬な!」
「神像の首、落としたな」
「見れば分かる。これでアポロンが出てくるのだな」
「どうだろうな」
「己の神殿を荒らされ、像の首まで落とされたのだ。来ぬ理由がない。もともとアキレウスはアポロンの神殿を汚し対立はしておったが。ここまで大胆で愚かではなかったぞ」
アキレウスたちは、神殿を占領した。
女神官ブリセイスも捕虜になる。
アポロンは現れない。
ゼウスが魚を一口食べた。
「しかしアポロンは遅いな」
「忙しいんじゃないか」
「何をしておるのだ!」
「竪琴でも弾いてるんじゃないか」
「今は弾いている場合ではないぞ」
「本人に言えよ」
「出てきたら言う」
アガメムノンは浜に到着すると、自分より先に勝利を挙げたアキレウスを責めた。
さらにブリセイスを取り上げる。
アキレウスは怒り、以後の戦いには加わらないと宣言した。
「戦士が得た女を、王が横から奪ったか」
「そこは知ってる話に近いのか?」
「うむ。こんなに早くはなかったが。大事なのは女だけではない。皆の前で、働きに対する名誉を奪ったのだ」
「まあ、その辺は映画の尺もあるからな」
「しかし王として愚かだ。最強の戦士を侮辱し、敵ではなく自軍へ怒りを向けさせた。戦利品の分配は、王の務めだぞ」
「牛だけじゃなく、そこにも厳しいんだな」
「牛の分配も重要な務めだ」
「そこはほんとブレないなお前」
*
ギリシャ軍とトロイア軍が、城壁の前で向かい合った。
パリスは、戦争の決着をメネラオスとの一騎打ちでつけると申し出る。
「遅い」
ゼウスが即座に言った。
「本人なりに責任を取ろうとしてるんだろ」
「船が千隻も着く前にやれ。本当にこの男は救いようがない」
「それはそう」
決闘が始まった。
パリスは弓を置き、剣を持ってメネラオスに挑む。
だが力も技量も及ばない。
脚を傷つけられ、剣も盾も失った。
地面を這い、兄ヘクトルの足元に逃げ込む。
ゼウスが身体を前に傾けた。
「ここだ」
「何が?」
「アフロディーテが霧で隠し、パリスを城へ運ぶ」
メネラオスが剣を手に近づく。
ヘクトルがメネラオスを刺し殺した。
ゼウスが動きを止めた。
「なぜヘクトルが、アフロディーテの役目をしておる?しかもメネラオスが死んだ?」
「弟だからだろ」
「これは決闘だぞ。ヘクトルほどの戦士がそんな恥知らずな事をするものか。弟の命が助かっても名が死ぬぞ」
「古代ギリシャの英雄って考えるとそうなるよな」
「おい、おかしいぞ。女神は来ないのか?」
これ以上は誤魔化せない。俺は腹を括った。
「来ない」
「では、あとで神々だけまとめて出すのか?」
「出さない」
「ふむ、前にこの作りの話を見たな。争いの始まりを、後で過去として見せるのであろう?」
「回想か?ない」
「では最後に、実は神々がすべて動かしていたと明かすのか?」
「それもない」
ゼウスが画面から俺に顔を向けた。
「では、我々はいつ出てくるのだ?」
俺はグラスを置いた。
「いいか。落ち着いて聞け。この映画には、神は出てこない」
ゼウスはしばらく動かなかった。
「おい人間。お前は何を言っている?」
「信仰はされてる。神殿も神像もある。でも、登場人物としては出ない」
「テティスがいたではないか」
「この映画じゃ、神としては扱われてない」
「では、なぜ息子が死に、名が永遠に残ると知っておる?」
「勘のいい母親なんじゃないか」
「数千年後まで当てる母親の勘があるか!」
ゼウスの目が細くなった。
「話を一度止めよ。お前は、見たことがあるのだな」
俺は一時停止ボタンを押してゼウスに向き合った。
「ある」
「なぜ知らぬふりをした?」
「先に言ったら、見なかっただろ」
「トロイア戦争に神々が出ぬと知れば、それ以前の問題だ」
「だから言わなかったんだよ」
「貴様、神を騙したのか」
「お前と見たかったんだよ」
ゼウスの口が止まった。
俺は残っていたワインを自分のグラスに注いだ。
「お前が来るようになった時、すぐ候補には入れた。トロイア戦争を知ってる本人の横で、俺も見直したかったからな」
「ならば、なぜ今日まで待った?」
「来たばかりのお前に、最初から神々を全部消した映画を見せたら、怒りそうだし……映画そのものを嫌うかと思った」
「今なら怒らぬと思ったのか?」
「映画が、元の話をそのまま映すものじゃないってことくらいは分かるだろ」
ゼウスは俺を見た。
「分かっておる」
「なら――」
「分かったうえで、納得しておらぬ」
ゼウスはテーブルに並んだ料理を見た。
「それで、トロイアの食事と酒を用意したのか」
「まあな。少しは機嫌よく見られるかと思って」
「牛もあれば、さらに和らいだ」
「美味そうに食ってただろ。で、どうする。見るのやめるか?」
ゼウスは、もう一度画面を見た。
「お前は本当に小賢しい事をする。ここまで見せておいて、途中で止められるものか。神々の仕事を、誰に配ったのか確かめる」
「人員配置として見るのか。でも、よかった。じゃあ続き見ようぜ」
俺は再生ボタンを押した。
画面では、ヘクトルが決闘を破ったことで、両軍が再び戦い始めていた。
ゼウスはワインを飲みながら尋ねた。
「しかし、神々がいないなら、こやつらは何のために争っておるのだ?」
「見ただろ。パリスがヘレネを連れてきた」
「あの愚かな小物一人が、これほどの船を集められるものか!」
「アガメムノンは、前からトロイアを欲しがってた。パリスが攻める口実を持ってきたんだよ」
ゼウスがパリスを見た。
「黄金の林檎も、アフロディーテの約束もないのだな?」
「ない」
「では、自分の判断で、周りの国を侵略して回る王の弟の妻を連れ去ったのか?」
「そうなる」
「ヘレネも、自分の判断でついてきた?」
「ああ」
「プリアモスは二人を追い返さず、都市ごと守ると決めた?」
「そう」
「アガメムノンは、領土のために都市を滅ぼすまで戦う?」
「この映画ではな」
ゼウスは腕を組んだ。
「神々が負うはずだった愚かさまでも、人間に押しつけたのか」
「人間だけでも戦争はするだろ」
「知っておる。私が驚いているのは戦争ではない。これをトロイア戦争と呼んでいることだ」
*
戦いは続いた。
トロイア軍の攻撃を受け、ギリシャ軍は追い詰められる。
アキレウスは戦場に出ない。
代わりに、彼の鎧を着たパトロクロスがミュルミドン兵を率いた。
ヘクトルは、鎧の中身をアキレウスだと思って戦う。
兜が外れ、相手が若いパトロクロスだと分かった時には、剣が腹に刺さっていた。
ゼウスが眉を寄せた。
「アポロンは?」
「出ないって言っただろ」
「最初にアポロンが背後から打ち、エウポルボスが傷を負わせ、最後にヘクトルが討つのだぞ」
「この映画じゃ、ヘクトル一人で全部やったな」
「神一柱と戦士一人の働きまで、ヘクトルに背負わせたのか」
パトロクロスの遺体が戻る。
アキレウスは声を上げて泣いた。
自分が戦いを拒んだため、若者が代わりに死んだ。
怒りの矛先は、ヘクトルに向かう。
アキレウスは一人でトロイアの城壁まで行き、ヘクトルを呼び出した。
「新しい武具は?」
「何の?」
「テティスがヘパイストスに鍛えさせた、アキレウスの武具だ」
「映画では、ずっと同じ鎧だな」
「ヘパイストスまで出ぬのか」
「神は出ないって、何回言わせるんだよ」
「たしかに聞いたが、目の前でアキレウスから神々を一柱ずつ剥がしていってるのだぞ」
城門が開いた。
ヘクトルが一人で出てくる。
二人の英雄は、槍と盾を構えて向かい合った。
戦いが始まる。
アキレウスは槍を突き、ヘクトルは盾で受け流す。
ヘクトルが剣を振る。
アキレウスは身を沈め、刃を避けた。
ゼウスの身体が、二人の動きに合わせて左右に揺れた。
「今の踏み込みを見たか!」
「楽しんでるじゃねえか」
「戦いが見事であることと、話に納得できぬことは別だ」
「今まで色々見せた甲斐はあったか」
ゼウスは答えず、画面を見続けた。
アキレウスの槍が、ヘクトルの胸を貫いた。
ヘクトルが倒れる。
ゼウスは息を吐いた。
「強い」
「アキレウスだからな」
「うむ、そうなのだが……」
「何だよ」
ゼウスはグラスを持ち上げた。
「いや、よい」
アキレウスはヘクトルの遺体を戦車につなぎ、トロイアの城壁から引きずっていった。
夜、老王プリアモスが一人でギリシャ軍の陣地に入る。
アキレウスの前にひざまずき、息子を殺した手に口づけした。
「ヘルメスの案内もなしか」
「一人で来たみたいだな」
「この映画、人間を一人で歩かせすぎではないか?」
「はじめてのおつかい見た外国人かよ。王様なんだから、自分の庭みたいなもんだろうし、頑張ったんだろ」
プリアモスは、ヘクトルの遺体を返してほしいと頼んだ。
自分も父親だと語り、息子を弔う時間を求める。
アキレウスの怒りが消えていく。
彼は遺体を返し、葬儀のために休戦すると約束した。
ゼウスは黙って見ていた。
「ここは、前に見た時から好きなんだよ」
「ああ」
「神が出なくても、悪くないだろ」
「息子を失った父と、友を失った男が話すために、神は要らぬ」
「珍しく素直に認めたな」
「だが、老人を敵陣まで案内する者は必要だ」
「結局、ヘルメスは必要か」
「それに、ヘクトルだが……いや、なんでもない。忘れよ」
「なんだよさっきから」
「忘れよ。私は今見ているヘクトルの名誉を守る」
「すげー気になるんだけど」
*
トロイアの浜から、ギリシャ軍が消えた。
残されていたのは、巨大な木馬だった。
オデュッセウスは兵を木馬の中に隠し、船団を近くの入り江に待機させている。
トロイアの人々は、木馬を戦勝の証しとして城内に運び込んだ。
「オデュッセウスは私が知るオデュッセウスに似ておる」
「そこは満足なのか?」
「敵が自ら城壁の中へ運ぶ物に兵を隠す。よい策だ」
「神の助けは?」
「この男は、助けがなくとも悪知恵が働く。神を騙してこの話を見せたお前のようにな」
「ずいぶんな評価だな」
夜になると、木馬の中からギリシャ兵が出た。
城門が開かれる。
戻ってきたギリシャ軍がトロイアになだれ込み、火を放った。
都市は一夜で崩れていく。
アガメムノンは王宮に入り、プリアモスを殺した。
さらにブリセイスを捕らえようとする。
ブリセイスは隠し持っていた短剣で、アガメムノンの首を刺した。
ゼウスが目を見開いた。
「アガメムノンが死んだぞ」
「この映画ではな」
「帰国してから妻に殺されるのではないのか?」
「元の話だとそんな事になんの?奥さんは待ちぼうけだな」
「クリュタイムネストラの役目まで、この女に渡したのか。神を抜くから人間の仕事が増えるのだ」
炎の中を、アキレウスが走っていた。
戦いのためではない。
ブリセイスを捜している。
二人がようやく出会った時、パリスが弓を構えた。
ゼウスが画面を見つめる。
「……アポロンはいないのだったな」
「ようやく理解したか」
「理解したのではない。一番の問題を確認したのだ」
「何が?」
「アポロンがいない。では、パリスはどうやってアキレウスを射る?」
「弓が上手いからだろ」
「先ほど剣を捨て、兄の足元に逃げた男だぞ!」
「剣は駄目でも、弓は得意なんだよ」
「アキレウスの名はそんな軽い物ではない。得意だからで討てるようなら、誰もアキレウスを恐れぬ!アキレウスを殺せる格がこの男にはない」
俺も画面を見た。
「まあ最初に見た時は、俺も何とも思わなかったんだけどな」
「ほう」
「パリスがアキレス腱を射たって話しか知らなかった。弓だけはものすごく上手いんだろって」
「今は?」
「お前が来てから多少は調べたし、いろんな話も聞かされたからな。どうやってパリスがアキレウスに当てれるんだと、俺も思い始めている」
パリスが弓を引き絞る。
矢が放たれた。
アキレウスの踵に刺さる。
ゼウスが立ち上がった。
「おい!当たったぞ!」
「当たったな」
「なぜだ!?」
「俺も分からねーよ」
パリスは、続けて矢を放った。
胸に一本。
さらにもう一本が刺さる。
「一矢では倒せず、何本も射るのか」
「人間だけで殺すには本数が要るんだろ」
「神を抜いた穴を、矢の数で埋めるな!」
アキレウスは、胸に刺さった矢を一本ずつ抜いた。
踵の矢だけが残る。
力を失い、地面に倒れた。
「なぜ身体の矢を抜いた?」
「あとで遺体を見た奴が、踵の矢で死んだと思うんだろ。そこからアキレス腱の伝説ができたって解釈じゃないか」
「死後に伝承が生まれた理由は説明するのに、矢が当たった理由は説明せぬのか?」
「なんでパリスの矢がアキレウスを捉えられたかは偶然で済ませているに近いな」
「アポロンを出せ!」
「だから出ないって!」
「これではアキレウスが不注意と不運で死んだ男になってしまうではないか」
「そんな言い方したらブラピファンが怒るぞ。ちゃんと最強の男としては描かれてただろ。ブリセイスを探してて焦ってたんだよ。それで、パリスのラッキーショットを喰らってだな」
「女を探して焦ってた所を不運にも踵を射抜かれた最強の男か。説明が酷くなっておるぞ」
「反論できねえ」
アキレウスは、ブリセイスを逃がした。
パリスとブリセイスが去るのを見届け、一人で息を引き取る。
ゼウスは、座り直して画面を見た。
*
トロイアは滅びた。
オデュッセウスは、アキレウスの遺体を火葬した。
最も偉大な戦士と同じ時代を生きたことを、人々が自分の名誉にするだろうと語る。
炎がアキレウスの身体を包む。
エンドロールが始まった。
ゼウスは、空になったグラスを置いた。
「強い男ではあった。身体もよかった」
「最後まで、そこは認めるんだな」
「ヘクトルとの戦いも見事であった。プリアモスへ遺体を返したこともよい」
「じゃあ、気に入ったのか?」
ゼウスは少し考えた。
「だが、アキレウスを見たという気がせぬ」
「強くて、王に逆らって、ヘクトルを倒して、パリスに射られたぞ」
「すべて、アキレウスがしたことだ。だが、アキレウスをアキレウスにしていたものがない」
「神か」
「一柱ではない。神々だ。ヘパイストスの武具。そしてあの男が戦うか否かで変わる、戦全体の行方だ。この物語では、戦場で一番強い男でしかない」
「アキレウスを半神として撮れないから、ブラッド・ピットを撮ったんだな。スター性と体が、視覚的にかなり補ってはいると思う」
俺は、黒くなった画面を見た。
「前に見た時は、それで十分だと思ってたよ。パリスがアキレウスを射た。それだけを見られた。今は、矢の後ろにいるはずのアポロンが、どこにもいないのが見える」
「知ったことを後悔しておるのか?」
「楽しめてた映画を、面倒にした奴が偉そうに聞くな。前と同じ見方ができなくなっただけだ」
ゼウスは、残っていたパンをちぎった。
「それが知るということだ」
「得意そうに言うな」
俺はワインの瓶を持ち上げた。
一滴も残っていなかった。
「しかし、何故神を出さずにトロイア戦争を描こうと思ったのだ」
「古代の戦争を描きたかったんだろ。現代人には、神が直接戦場に降りてくると、話を飲み込みにくいと思ったのかもしれない」
「神が介入しなかった戦もあるぞ。その戦を描けばよい」
「でも、アキレウスも木馬も出ないだろ」
「名のある英雄と戦だけを残し、原因から神々を抜いたのか」
「映画としては、その方が分かりやすいと思ったんじゃないか」
「分かりやすいか? 神に判断を狂わされてもおらぬ者たちが、妻一人と領土のために都市を焼き、民を奴隷にするのだぞ」
「人間だけでも、そのくらいはやるだろ」
ゼウスが口を閉じた。
「……やるな」
「納得するなよ」
「だが、トロイア戦争でやる理由にはならぬ」
「そこは最後まで譲らないな」
「次は、神々が出るトロイア戦争を見せよ」
「実写で、それなりの規模となると難しいな。俺は知らん」
「なぜだ?」
「神が出ると、現代人には飲み込みづらいと判断されるのか予算が取りにくいのかもな」
「お前は飲み込んだではないか」
「毎日、実物を見せられてるからな」
ゼウスは頷いた。
「では、他の者にも私が説明してやろう」
「映画会社に乗り込む気か?」
「雷霆を落とせば済む」
「やめろ。映画一本のために会社を焼こうとするな。逆に映画作る人がいなくなるだろ」
「しかし」
「あ、でも今度オデュッセウスの映画が公開されるぞ」
「また神を抜く気か?」
「見てないからわからん。でも、予告でサイクロプスは出てきたから期待はできるかも」
「ポリュペーモスか。よし、それを見に行くぞ」
「映画館でお利口にできなさそうだから却下。配信にくるまで待て」
「無礼者!私を子供扱いするな!連れていけ!」
「期待して良いものかは俺が確認してくるから」
「先に一人だけ見る気か!卑怯者め!」
ゼウスはその後30分ごね続けた。
神々の王は映画館に連れて行かない事をトロイア戦争に神が出ないとわかった時よりも、怒っていた。
神話メモ
◾️パリスの審判
争いの女神エリスが神々の宴に投げ入れた黄金の林檎を巡り、ヘラ、アテナ、アフロディーテが美を競った。審判を任されたトロイア王子パリスに対し、ヘラは支配権、アテナは戦での勝利、アフロディーテは世界で最も美しい女性を与えると約束した。パリスはアフロディーテを選び、スパルタ王妃ヘレネを得たことが、トロイア戦争の発端となる。
◾️トロイア戦争と神々
トロイア戦争では、神々もギリシャ側とトロイア側に分かれて介入した。ヘラとアテナはギリシャ軍を、アフロディーテとアポロンは主にトロイア軍を助けた。ゼウスは戦況を見守りながら、時に神々の介入を禁じ、時に運命に従って戦いが進むことを認めた。
◾️ヘクトルとアキレウスの決闘
ヘクトルは、自らの判断で軍を城外に残し、多くの兵を失わせた恥から、城門の外でアキレウスを待った。しかし実際に姿を見ると恐怖に駆られ、アポロンに逃走を助けられながら城壁を三周する。やがてアテナが弟デーイポボスに化け、共に戦うと申し出たため、ヘクトルは足を止めた。槍を投げたあと、助けを求めても弟の姿はなく、そこで神に騙されたと悟る。死が避けられないと知ったヘクトルは、名誉を残すため最後まで戦うことを選んだ。
◾️アキレウスの運命と死
アキレウスには、故郷へ帰れば長く生きる代わりに名を失い、トロイアに残れば若く死ぬ代わりに永遠の名声を得るという二つの運命があった。『イリアス』は彼の死を描かないが、ヘクトルはアポロンとパリスによって殺されると予告する。アポロンが矢を導く話や、踵だけが弱点だったという話は後世の伝承である。
◾️ヘパイストスが鍛えた武具
パトロクロスの死後、アキレウスの母テティスは、鍛冶の神ヘパイストスに新しい武具を作るよう頼んだ。完成した盾には、天体や都市、農耕、祭り、争いなど、人間世界を形作る多様な光景が刻まれていた。
◾️プリアモスとヘクトルの遺体
ヘクトルの父プリアモスは、神ヘルメスに導かれてギリシャ軍の陣地に入り、アキレウスに息子の遺体を返すよう求めた。アキレウスは自らの父を思い出して涙を流し、ヘクトルの遺体を返還する。『イリアス』は、ヘクトルの葬儀によって物語を閉じる。




