第33話 プラダを着た悪魔
※本編では映画の結末を含むネタバレがあります。
映画紹介
公開年:2006年
監督:デヴィッド・フランケル
主演:メリル・ストリープ、アン・ハサウェイ
ジャーナリストを目指すアンドレアは、世界的なファッション誌の編集長ミランダの助手として働き始める。服装にも流行にも無関心だった彼女は、過酷な要求が飛び交う華やかな業界で、仕事と私生活の両方を大きく変えていく。
皿の中央には、スーパーで買った牛肉を焼いてある。
肉だけでは寂しかったので、フライドポテトとインゲン、人参を周りへ並べた。皿に占める面積なら、付け合わせの方が広い。
ゼウスは肉を一切れ食べ、残りの大きさを確認した。
「少ないぞ」
「日本のスーパーで買った一枚だからな」
「皿の半分以上が芋と草ではないか」
「全部食い物だよ」
俺は安い赤ワインをグラスへ注いだ。
「今日の映画は『プラダを着た悪魔』」
「プラダとは何だ?」
「服や鞄を作ってる有名なブランド」
「ぶらんど」
「名の通った服飾の家みたいなもんだ」
ゼウスは俺の部屋着を見た。
「お前には縁がなさそうだな」
「帰れ」
俺は再生ボタンを押した。
*
大学を卒業したばかりのアンディは、ファッション誌『ランウェイ』の編集部へ面接に来た。
周囲の女たちは髪から靴まで隙なく整えている。アンディだけが地味なセーターとスカートで立っていた。
ゼウスが彼女の顔を見た。
「大きく美しい目だ。牝牛の目を持つヘラにも劣らぬ」
「お前、この部屋に奥さんを連れてきたことを忘れるなよ」
「まさか、ヘラの信徒になったのか?」
「違う。人として普通の反応だ」
俺は一度、玄関の方を見た。
「あと……怖いんだ」
「……人として普通の反応だな」
「違うんだ。想像してたのとは全然違ったんだ。でも、それはそれで同じくらいか、それ以上に怖かったんだ。怖いんだよ俺は」
ゼウスが手を上げた。
「おい、人間。この話はやめよう」
「うん、やめよう」
二人とも画面へ向き直った。
編集長のミランダが出社すると、編集部全体が動いた。
社員たちは靴を履き替え、机を片づけ、運び込まれた衣装を抱えて走る。助手のエミリーは電話を切り替えながら、到着までの秒数を数えていた。
ミランダは白い髪を揺らし、周囲を見ずに歩く。上着と鞄を机へ投げ、いくつもの指示を途切れずに並べた。
ゼウスがワイングラスを置いた。
「女王か」
「雑誌の編集長」
「皆が顔を見る前に道を空け、望む物を先に用意している。王宮と変わらぬ」
ミランダの前へ通されたアンディは、ファッション誌を読まず、この仕事にも詳しくないと正直に話した。だが、自分は頭がよく、物覚えも早いと言い切った。
面接が終わり、アンディは不採用を覚悟して部屋を出る。
ミランダは彼女を雇った。
「なぜだ?」
「学歴と経歴は悪くない。それに、これまでの助手とは違って見えたんだろ」
「衣の知識がない者を、衣の館へ置くのか」
「知識なら後から覚えられると思ったんじゃないか」
「自分の人を見る目を試したのだな」
アンディの仕事が始まった。
ミランダの上着を受け取り、昼食を用意し、電話をつなぎ、予定を管理する。名前も聞いたことのない服飾家や写真家への連絡が次々と飛んでくる。
電話の相手を間違え、名前を覚えられず、ミランダの命令を聞き返すたびに、エミリーの顔から色が消えた。
「この娘は、本当に何も知らぬのだな」
「だから採った理由を聞いたんだよ」
「だが逃げぬ」
「まだ初日だぞ」
「逃げる者は、最初の一刻で顔に出る」
「新人を追い詰め慣れてる奴の台詞だな」
*
衣装を選ぶ会議で、二本の青いベルトが並べられた。
アンディには、どちらも同じ物に見えた。思わず小さく笑うと、ミランダが目を向けた。
ミランダはアンディの着ている青いセーターを示した。
ただの青ではなくセルリアンであり、その色は数年前に服飾家が発表した衣装から始まった。別の服飾家が使い、雑誌が取り上げ、店へ広がり、やがて安売りの衣服にまで下りてきた。
アンディが自分で選んだと思っていたセーターも、ファッション業界が積み上げた選択の末にある。
ゼウスがミランダを見直した。
「この女は、衣を選んでいるのではない。何が貴ばれ、それを誰が身につけるか、その流れを決めているのか」
「今ので急に評価上がったな」
「あの娘は自分と無関係な仕事だと思っていた。だが、この女の決定は、すでに娘の衣へ届いていた」
「王が貨幣の重さを決めるようなものか」
「そうだ。富と職人と商人を動かし、最後には民の暮らしへ届く。王でなくとも、王に近い」
俺は自分のシャツをつまんだ。
「これも誰かが決めた流行の末なのかね」
「それは単に安かったのであろう」
「知ってるよ」
アンディは仕事の愚痴を、衣装担当のナイジェルへこぼした。努力しているのに、ミランダが認めてくれない。
ナイジェルは、彼女が努力しているのではなく泣き言を並べているだけだと切った。多くの者が憧れる場所にいながら、その仕事を軽蔑している服装のまま働いている。
「よく言った」
「お前、厳しい側についたな」
「知識がないことは罪ではない。だが、仕える場所を侮ったまま認められようとするのは傲慢だ」
「服くらいで大げさじゃないか?」
「アテナは織物と技芸を司る。神へ捧げる衣を織るため、アテナイの女たちは長く働いた。衣を軽んじる理由はない」
「意外と理解があるな。ファッション業界の話を見せるのどうかなと迷ったけど」
「アテナの領分を侮るわけがなかろう」
「ただ親バカなだけな気もしてきた」
ナイジェルはアンディを衣装部屋へ連れていった。
服を選び、靴を履かせ、髪を整える。
次の日、アンディが編集部へ入ると、周囲の者たちが顔を上げた。ミランダも一度だけ彼女を見た。
「戦装束を得たか」
「服を替えただけだ」
「戦う場所に適した衣をまとうのは同じだ」
「防御力は上がってないけどな」
「女王の視線は防いだぞ」
*
ミランダが休暇先から帰れなくなった。
嵐で飛行機がすべて欠航している。それでもミランダは、娘たちの発表会を見るために飛行機を用意しろとアンディへ命じた。
アンディは航空会社や知人へ電話をかけ続けたが、飛ばせる機体はなかった。
「風を止めれば済む」
「お前の職場の話じゃない」
「私なら雷雲を退けられる」
「航空会社へ電話する仕事で最高神を要求するな」
結局、ミランダは帰れなかった。
翌日、彼女はアンディの力不足だけを責めた。
ゼウスの眉が寄った。
「できぬ仕事を命じ、失敗だけを罰するのは王ではない」
「さっきまで高く評価してたのに」
「役目を果たせぬ命令で、家臣を使い潰してどうする」
「お前の息子、十二回くらい使い潰されかけてるぞ」
「ヘラクレスは成し遂げた」
「基準にするな」
ミランダの要求はさらに続いた。
まだ発売されていない小説の新作を手に入れ、娘たちへ届けろという。
「世に出ていない詩を持ってこいと?」
「そういうこと」
「詩人を捕らえればよい」
「出版社ごと敵に回すな」
同時に、アンディはミランダの昼食も用意しなければならなかった。指定された店へ走り、大きな骨付きステーキを運ぶ。
ゼウスの目が皿へ移った。
「待て」
「映画見ろ」
「あちらの肉の方が大きいぞ」
「ニューヨークの店と日本のスーパーを比べるな」
「骨までついている」
「骨は食えねえだろ」
「神殿へ捧げる肉にも骨はある」
「ここを祭壇にするな」
アンディが編集部へ戻ると、ミランダはすでに昼食を必要としていなかった。
アンディは手をつけられていないステーキを、皿ごと流しへ置いた。
ゼウスが身を乗り出した。
「食わぬのか?」
「予定が変わった」
「ならば、なぜ運ばせた」
「知らん」
「立派な肉を捨てるほどの予定とは何だ」
「今日一番怒ってるな」
一方、アンディは知人の力を借り、未刊の原稿を手に入れていた。娘たちが列車で読むための二冊と、ミランダが確認するための一冊まで用意してある。
ミランダは初めて言葉を失った。
ゼウスが口元を上げた。
「この娘へ難業を課し、成し遂げるたび次を命じる。エウリュステウスとヘラクレスのようだな」
「十二の試練を命じた王か」
「そうだ。だが、この女王の方が優秀だ。己の領域を治める力があり、求める物も明確だ」
「比較対象が悪すぎないか」
「人間味もある。少なくとも、個人的な敵意から難業を増やしてはおらぬ」
「褒め方が全部ひどい」
「達成した仕事を、あとから無効とも言わぬ」
「その王、どんだけ最低なんだよ」
「ヘラクレスが助けを借りた仕事と、報酬を求めた仕事を認めなかった。それで難業が二つ増えた」
「最低だな」
「女王は肉と本を同時に求めたが、数は増やしておらぬ」
「肉は捨てたけどな」
ゼウスの顔から笑みが消えた。
「やはりエウリュステウスより悪いかもしれぬ」
「評価基準が肉に支配されてるぞ」
*
アンディは仕事を覚え、ミランダの命令を先回りするようになった。
慈善パーティーでは、風邪をひいたエミリーを助けるために同席する。招待客の名前を忘れたエミリーより先にアンディが答え、ミランダの窮地を救った。
「よく育った」
ゼウスは満足そうに頷いた。
「お前が育てたみたいに言うな」
「難業を越える姿を見るのは楽しいものだ」
「その辺ほんと神様だよな」
パリで行われる大きな催しへ行くため、エミリーは減量を続けていた。
何も食べず、倒れそうになったらチーズを一欠片だけ口へ入れる。目標の体重まで、あと一度病気になれば届くと笑っている。
ゼウスが首を傾げた。
「ダイエット? ディアイタのことか。これでは生き方ではなく、死に方ではないか」
「元はギリシャ語なのか?」
「食事だけではない。身体を整えるための暮らし方を指す」
「日本じゃ、痩せるために食事を減らす意味で使うことが多いな。ずいぶん意味が狭くなったんだな」
「そもそも、なぜ自ら痩せる」
「細い方が服をきれいに着られるとか、それが美しいって価値観とか。理由はいろいろだ」
「この女は、倒れるまで食べず、病まで望んでおるぞ」
「初めて見るダイエットが最上級にやばいやつだったな」
ゼウスは画面と俺の皿を見比べた。
「まさか、お前もここまで合わせたのか?」
「ちげーよ。付け合わせあるだろ」
「だが、肉は映画より小さい」
「まだ言ってんのか」
ミランダは、パリへエミリーではなくアンディを連れていくと決めた。
断れば自分の将来に関わる。アンディはパリ行きを受け入れ、エミリーへ自分の口から伝えることになった。
電話を受けたエミリーは道路へ飛び出し、車にはねられた。
病院のベッドで、エミリーはアンディを責めた。自分が望み、食事まで削って手に入れようとした場所を奪われた。
「働いた者が、より大きな役目を得た。それだけではないのか?」
「エミリーには前から約束してた」
「ならば、二人を争わせた主人の責任だ。片方を選ぶなら、もう片方にも働きに応じたものを与えねばならぬ」
「アンディは断れたと思うか?」
「断れば地位を失う。受ければ友を踏む。選んだのは娘だが、その道を用意したのは女王だ」
「お前、王の話になると急に細かいな」
「私は神々の王だからな」
「その割に、褒美を考えろって奥さんに宿題出されてたけど」
ゼウスはワインを飲んだ。
「今、考えている」
「忘れてなかったのかよ」
*
パリで、アンディはミランダの別の顔を見た。
夫との離婚が報道されようとしていた。ミランダは化粧を落とした顔で、娘たちがまた父親を失うと話した。
だが翌朝には、何事もなかったように仕事へ戻っている。
「家が崩れても、王座では顔を変えぬか」
「弱ったところを見せたら、この世界じゃ食われるんだろ」
「強い女だ。だが、家の痛みまで王座へ持ち込み、誰にも預けられぬのは不幸だな」
やがて、ミランダが編集長の座を追われるという話がアンディの耳へ入った。
アンディは彼女へ知らせようと走った。
だがミランダは、すでにすべてを知っていた。
後任になるはずだった人物を、別の会社の重要な地位へ送り込む。その地位は、長年ミランダへ仕えてきたナイジェルへ約束されていたものだった。
ナイジェルの昇進を奪うことで、ミランダは自分の王座を守った。
ゼウスは黙って画面を見ていた。
「敵が動く前に道を塞いだ。判断は速い」
「じゃあ、正しいのか?」
「王座を失えば、この女が築いたものも、従う者も、すべて敵の手へ渡る。それを防いだことは分かる」
「ナイジェルは?」
「忠臣へ約束した褒美を奪った。王座は守ったが、大きな負債を残した」
ミランダは、ナイジェルもきっと理解すると言った。
「有能であることと、よい王であることは同じではない」
「理解するのと許すのも別だな」
車の中で、ミランダはアンディへ告げた。
あなたは自分によく似ている。アンディが否定すると、ミランダはエミリーのことを挙げた。パリへ来るため、アンディも他人を踏み越えた。
アンディは、自分には選択肢がなかったと答えた。
「この娘は、自分だけは違うと思っていたのか」
「仕方なかったんだろ」
「仕方がないと考えて選んだのは、あの女王も同じだ」
俺は何も返さなかった。
車を降りたミランダを、記者たちが囲んだ。
アンディは立ち止まり、手の中の電話を見た。ミランダからの呼び出しが続いている。
アンディは電話を噴水へ投げ入れた。
そのまま背を向けて歩き出す。
ゼウスが腕を組んだ。
「難業を越えるため、王の考え方まで身につけた。だが、それを嫌って王宮を去ったか」
「最初にやりたかった仕事へ戻るんだろ」
「力を得ても、仕えた王と同じ者にはならずに帰った。ヘラクレスより帰り方がうまいかもしれぬ」
「この映画見てヘラクレスの話として受け取るのは流石だよ」
後日、アンディは新聞社の面接を受けた。
採用担当者は、ミランダへ問い合わせたと話す。ミランダは、アンディは自分を最も失望させた助手だと答えた。そのうえで、彼女を雇わなければ愚かだとも書き添えていた。
「最後に褒美を与えたか」
「辞めた相手にだけどな」
「認めるのが遅いかもしれんが働きには報いた」
道を歩くアンディは、車へ乗り込むミランダを見つけた。
アンディが手を振ると、ミランダは無視して車へ入った。
だが走り去る車の中で、一人だけ小さく笑った。
エンドロールが始まった。
*
ゼウスは空になった皿を持ち上げた。
「次にこの物語を見る時は、あの店と同じ大きさの肉を用意せよ」
「その分、付け合わせなしな」
「なぜ減らす」
「皿には限界がある」
「大きな皿を買えばよい」
「ミランダより要求が雑なんだよ」
「お前への褒美を、大皿にするか」
「いらねえよ」
「大きな牛肉を焼ける鉄板もつけてやるぞ」
「それ、お前が食いたいだけだろ」
ゼウスは少し考えた。
「難しいものだな。女王は欲しい物を迷わず命じていたぞ」
「だから嫌な上司なんだよ」
ゼウスは残っていたフライドポテトを一本つまんだ。
「ならば、お前が喜ぶ物を自分で言え」
「余計なことをせず、普通に玄関から来い」
「それは褒美ではない」
「俺にとっては褒美だよ」
ゼウスは答えず、最後のポテトを食べた。
要求を無視するところまで、女王から学んだらしい。
神話メモ
◾️牝牛の目を持つヘラ
古代ギリシャの叙事詩では、ヘラに「牝牛の目を持つ」という意味の形容語が用いられる。大きく美しい目をたたえる表現とされ、牝牛は女神の威厳や豊かさとも結びついた。動物にたとえる言葉は、古代の美や力を示す定型表現として使われている。
◾️アテナ・エルガネ
アテナ・エルガネは、手仕事や技芸を守護する女神としてのアテナの呼称である。「エルガネ」には働く者、職人という意味があり、とくに織物や機織りとの関係が深い。アテナは戦争や都市の守護だけでなく、人間が知恵と技術によって作り出す品々も司った。
◾️パナテナイア祭のペプロス
古代アテナイで行われたパナテナイア祭では、守護女神アテナへペプロスと呼ばれる衣が奉納された。衣には神々と巨人族の戦いが織り込まれ、制作には選ばれた女性たちが携わった。衣服は日用品であるだけでなく、都市の信仰や共同体の誇りを示す捧げ物でもあった。
◾️ダイエットの語源
英語の「ダイエット」は、古代ギリシャ語の「ディアイタ」に由来する。ディアイタは食事だけでなく、「生き方」や「生活の整え方」を意味し、医師から指示される養生法にも用いられた。ラテン語やフランス語を経て英語に入り、食習慣や食事療法を表す言葉となった。現代の日本語では、主に体重を減らす行為という狭い意味で使われている
◾️ヘラクレスの十二の功業
ヘラクレスがミュケナイ王エウリュステウスの命令で成し遂げた一連の難業。ネメアの獅子退治、レルネのヒュドラ退治、ケリュネイアの鹿の捕獲、冥府の番犬ケルベロスの連行などが含まれる。強さだけでなく、知恵や忍耐、他者の助力を必要とする試練も多い。
◾️エウリュステウス
ミュケナイおよびティリンスの王とされ、ヘラクレスへ難業を命じた人物。ヘラクレスを恐れ、青銅の大甕へ隠れた姿でも知られる。最初に命じた功業は十だったが、ヒュドラ退治とアウゲイアスの家畜小屋の清掃を認めなかったため、二つの難業が追加された。
◾️古代ギリシャの恩賞
古代ギリシャでは、戦士や競技者、功績を立てた者へ与えられる品や名誉が、その働きを公に認める役割を持った。叙事詩では戦利品の分配が英雄の序列と結びつき、正当な取り分を奪う行為は重大な侮辱となる。指導者には功績に応じて名誉を配分する責任が求められた。




