第28話 生きる
※本編では映画の結末を含むネタバレがあります。
映画紹介
公開年:1952年
監督:黒澤明
主演:志村喬
三十年間、無欠勤で市役所に勤めてきた市民課長・渡邊勘治。書類へ判を押すだけの日々を送っていた彼は、ある日、自分の命が残り少ないことを知る。家族にも打ち明けられず、遊びにも生き甲斐を見いだせない中、渡邊は限られた時間で自分に何ができるのかを探し始める。
「今日は吉野家の牛すき丼だ」
ゼウスは丼を覗き込み、箸で牛肉を持ち上げた。
「ヨシノヤの牛か。よし」
「判断が早いな」
ゼウスは肉を口へ入れた。
「甘いぞ」
「野菜と一緒に甘辛く煮てある」
「米にも合う」
「満足そうで何よりだ」
肉の横に載った卵を箸で割る。柔らかい黄身が米へ流れた。
「お前のは半熟にしておいたぞ。生卵を出したら、食う前に会議が始まりそうだからな」
「安全な供物か確かめるのは当然だ」
「吉野家を供物の検査場にするな」
テーブルの端には、食後に出すケーキの箱も置いてある。
「今日の映画は『生きる』」
ゼウスが箸を止めた。
「生きて何をする?」
「見れば分かる」
俺は再生ボタンを押した。
*
画面に胃のレントゲン写真が映った。
語り手は、そこに癌があると告げた。本人はまだ知らない。市役所の市民課長、渡邊勘治は、死んでいるも同然の男だとまで言い切る。
ゼウスが丼から顔を上げた。
「生きておるではないか」
「肉体の話じゃない」
渡邊は山積みの書類に囲まれ、黙って判を押していた。住民が頭を下げても、部下が書類を運んでも、伏せた目も口元もほとんど動かない。
近所の主婦たちが、汚水のたまった空き地を何とかしてほしいと役所へ来る。子供が遊べる公園にしてほしいという陳情だった。
だが、主婦たちは土木、保健、衛生、予防、公園と窓口を回され、最後には出発した場所へ戻された。
「迷宮か」
「怪物はいないけどな」
「これを造った者が怪物だ」
「役所ごと神話にするな」
書類は市民課へ置かれ、ほかの書類の下に埋まった。
渡邊は三十年間、仕事を休まず、仕事をしないことで自分の地位を守ってきた。
「何もせぬ者が、なぜまとめ役なのだ」
「何もしなかったからだと映画が言ってる」
「難しい国だな」
「安心しろ。どこの国でも役所はこんなイメージだ」
「どこに安心すればよいのだ」
*
病院の待合室で、渡邊は見知らぬ患者から胃癌の症状を細かく聞かされた。
医師が胃潰瘍だと言い、好きな物を食べてもよいと言えば、もう助からない。患者は笑いながらそう教えた。
診察室で、医師は渡邊へ胃潰瘍だと告げた。好きな物を食べてもよいとも言った。
「先ほどの男の言ったとおりではないか。預言者か」
「ちげーよ。ただのおしゃべりで無神経な患者だ」
「しかし医者が死ぬ者に、自分の死を隠すのか」
「本人に伝えない時代だったんだよ。今は違う」
渡邊は医師の口元を見つめたまま動かなかった。
「アキレウスが死の予告を受けた時には不滅の名誉もついてきたが」
「選択肢として提示されたのは、好きな物を食べていいだけだな」
家へ戻った渡邊は、息子の光男へ病気を打ち明けようとした。
だが光男は、父親が貯めた金をどう使うつもりか、そればかり気にしていた。渡邊は何も言えず、部屋へ戻った。
ゼウスは丼の底から米をすくった。
「この男には家がある。だが、帰る場所はないのだな」
「家族に病気の話もできないからな」
「同じ屋根の下で、よくここまで遠くなれるものだ」
*
渡邊は貯金を下ろし、夜の街へ出た。
居酒屋で出会った小説家は、金の使い方も遊び方も知らない渡邊を、歓楽街へ案内した。
酒、ダンス、パチンコ、騒がしい音楽。二人は店から店へ移った。
「この詩人は、冥府への案内人か」
「夜遊びを教えてるだけだ。まあそんな感じに見えるよな」
「あれほど店を回って、まともな宴が一つもないぞ」
「お前の宴の基準、牛を焼くところから始まるだろ」
「当然だ」
夜が更け、渡邊は賑やかな店で『ゴンドラの唄』を歌った。
命短し、恋せよ乙女。
かすれた声が続くうち、笑っていた客たちが黙っていく。
ゼウスも箸を置いた。
歌い終えた渡邊は、店を出てから血を吐いた。
「宴では救えぬか」
「酒とダンスとパチンコでは無理だろうな。小説家に連れ回されてるだけだし」
ゼウスは返事をせず、歩き出した渡邊を見ていた。
翌朝、渡邊は元部下の小田切とよに呼び止められた。
役所を辞めたいとよは、辞表へ判をもらうために課長を捜していた。
*
辞表へ判を押したあとも、渡邊はとよを引き留めた。
二人は喫茶店へ入り、遊園地へ行き、映画を見た。
とよはケーキを食べた。自分の分を平らげると、渡邊の皿まで引き寄せた。お汁粉をおかわりし、映画を見ている間も口を動かし、最後は鍋へ箸を伸ばし続けた。
ゼウスの目が輝いた。
「よく食い、よく笑う。健やかな娘だ」
「お前とは相性よさそうだな」
渡邊の隣で、とよは笑い、喋り、次の皿へ手を伸ばす。俯いたまま動かない渡邊と並ぶと、一人だけ朝の光を浴びているように見えた。
「エオスのような娘だな」
「誰だよ」
「夜明けの女神だ。この男の隣では、朝そのものに見える」
「女神はケーキ二皿食ってるけどな」
「夜明けは腹が減る」
「随分と食いしん坊な女神だ」
画面の鍋では、とよが次の肉を取っていた。
「これは何だ」
「すき焼き。牛肉と野菜を鍋で煮て食う。今日出したのとほぼ同じだ」
ゼウスは空になった自分の丼を見た。
「私の牛には鍋がなかったぞ」
「牛すき丼だからな」
「この娘が食べているものを出せ」
「さっき、とよくらいうまそうに食ってたじゃないか」
「あれを見た後では物足りぬ」
「すき焼きは特別な日だけだ」
「神々の王が来ているのだぞ?特別だろう」
「毎日来なけりゃ特別になれたかもな」
とよは市民課の職員につけたあだ名を次々に話した。
課長の渡邊は、何と呼ばれていたのか。
何度も尋ねられ、とよは笑いながら答えた。
ミイラ。
渡邊も笑った。腹を押さえ、声を上げて笑った。固まっていた頬が持ち上がり、目尻に皺が寄った。
「死者と言われて笑っておる」
「ここで初めて自分の姿を他人の言葉で見せられて、それを笑える。自己認識の成立だな」
「病で死ぬと知っただけだった男が初めて、それ以前から生きていなかったことを知ったか」
それからも渡邊は、とよを食事へ誘った。
だが、とよは次第に怯え始めた。老人がなぜ自分を追い回すのか分からない。
「夜明けの女にら怯えられているぞ」
「そりゃ彼女の立場なら怖いだろ」
「女の追い方が下手だな」
「お前は黙ってろ。映画が汚れる」
最後の喫茶店で、渡邊は自分が胃癌だと告げた。
自分も、とよのように一日だけでも生きてみたい。どうすれば、それほど生き生きしていられるのか。
とよは答えに困り、新しい工場で作っている玩具のウサギを取り出した。これを作ると、日本中の子供たちと遊んでいる気がする。とよはそう言った。
渡邊は玩具を手に取った。
「三十年の判より、一羽のウサギか」
「少なくとも、子供が喜ぶ物は残る」
渡邊の目が開いた。
玩具を握り、何度も頷く。さっきまでとよへ答えを求めていた顔から、迷いが消えていった。
「顔が変わったな。死者から生者になった」
「食いしん坊な女神と一羽のうさぎで蘇生したな」
渡邊は立ち上がった。
まだ自分にもできることがある。役所に戻れば、作れるものがある。
そのとき、店の階段を大きなケーキが運ばれてきた。上の席では、若い客たちが誕生日の歌を歌い始めた。
渡邊は玩具を抱え、階段を下りていった。
笑っている。
画面が切り替わる。
渡邊の遺影が置かれていた。
たった今、生まれ直したように見えた男が、写真の中で微笑んでいる。
「待て。……死んだのか?」
「作中だと五か月後だ」
「生まれ直した瞬間に死なせるとは随分と意地が悪い話だ。もう終わりか?」
「こっからだよ。見てろ」
ゼウスは遺影を見たまま、ゆっくり背もたれへ身体を預けた。
「青いやつが出る話の喜劇役者も、死んでから過去を語り始めたな」
「『ウォッチメン』か。周りの回想や証言で死んだ人物を描くって意味では同じかもな」
「では、この先は誰が語る」
「葬式に来た連中だよ。この話はお葬式映画とも言える」
「生きると言う題名ではなかったか?」
*
通夜には、市役所の同僚と上役、渡邊の家族が集まっていた。
渡邊が最後に完成させた公園について、助役は自分の功績であるかのように記者へ語っていた。
「死者の手柄を奪ったぞ」
「本人は反論できないからな」
「死者のクレオスを奪うとは、卑しい男だ」
「クレオスって名声だっけか?」
「死後に残る名だ。武具より価値がある」
役人たちは、渡邊一人の働きで公園ができたわけではないと言い合った。
そこへ、公園を求めていた主婦たちが弔問に来た。
女たちは渡邊の遺影を見るなり、その場へ崩れ、声を上げて泣いた。
部屋から言葉が消えた。
写真の中の渡邊は、変わらず微笑んでいる。
ゼウスは、頭を下げた役人たちを見た。
「あの女たちは、誰が公園を造ったか知っている」
「助役の会見より信用できるな」
「女たちの方が息子よりも父親を知っている」
「そこは普通にきついんだよな」
役人たちは酒を飲みながら、渡邊が復帰してからの五か月を語り始めた。
渡邊は埋もれていた陳情書を拾い、市民課の仕事として受け付けた。
縄張りが違うと追い返されても、頭を下げて次の課へ行った。許可が止まれば担当者の机の前へ座り、助役に退けられても翌日また現れた。
役人たちの話が移るたび、渡邊は頭を下げ、拒まれて口を結び、相手の顔を見上げ、また次の机へ向かった。映画の冒頭で判を押していたときより、死後の回想の中にいる方が、顔も身体もよく動いていた。
「門を破らず、頭を下げて開くまで立つか」
「この人にできる戦い方が、それだったんだろ。役所で停滞させる方法を知り尽くした人だから、逆に動かすためにどこで粘ればいいかも知っている」
「30年間の無駄を最後の5か月の武器にしたのか」
公園予定地を縄張りにする男たちから脅されても、渡邊は逃げなかった。
ゼウスが身を乗り出した。
「王でも戦士でもない。武具も持たぬ男がならず者相手に一切退かぬか」
「ヤクザの脅し文句が全く通用しないんだよな」
「死を受け入れた者を殺すと脅して何になる。見ろ。逆に気圧されておる」
「渡邊の死は胃癌が先に予約してるからな」
工事が始まった現場で、渡邊は泥に足を取られて転んだ。陳情に来た女たちが駆け寄り、彼を起こした。
泥にまみれた渡邊が笑った。
やがて、汚水のたまっていた空き地に遊具が立った。
「成ったな」
「ああ」
雪の降る夜、一人の警官が完成した公園で渡邊を見つけていた。
渡邊はブランコに座り、ゆっくり揺れていた。
命短し、恋せよ乙女。
夜の店で歌ったときと同じ歌だった。
今度は、誰も騒いでいない。雪の積もる公園で、渡邊の声だけが続いた。
ブランコを揺らす顔には、恐怖も焦りもなかった。
警官は、あまりにも幸せそうだったので声をかけられなかったと話した。
渡邊は、その夜に死んだ。
*
通夜の終わり、職員たちは立ち上がった。
渡邊を見習う。これからは市民のために働く。酒を飲み、涙を流し、全員がそう誓った。
「仲間も立ったか」
ゼウスが立ち上がった
「その誓い、このゼウス・ホルキオスが受け取ったぞ!」
「やめとけ」
「何故だ?男が仲間を立ち上がらせた。誓いを見守る神として受け取らねばならん」
「一回保留しろ。それ受け取ったらこの人たちの家族に災いが行くかもしれないから」
翌日、市民課へ新しい陳情が持ち込まれた。
職員たちは以前と同じように、別の課へ回そうとした。
ゼウスの眉間に皺が寄った。
「私はこの者達が昨夜立てた誓いを聞いたぞ」
「だから言ったろ」
若い職員が一人だけ立ち上がった。
だが周囲から睨まれ、何も言えずに座った。
「酒を飲み、死者の前で誓った。それを一日で破るか」
「雷は落とすなよ」
「ゼウス・ホルキオスの前で、よくも――」
「お前の前じゃなくてカメラの前だ。あと役所も焼くな」
画面には、完成した公園で遊ぶ子供たちが映った。
職員たちは元に戻った。それでも公園は残っている。
ゼウスが俺を見た。
「詩人は王や戦士を歌う。この男は見落とされるだろうな」
「小さな公共施設を作った役人だしな」
「だが、女たちは葬儀へ来た。夜回りの男は歌を覚えていた。子は、この男の造った場所で遊ぶ」
ゼウスは画面へ目を戻した。
「歌がなくとも、己を覚えている者を残した。これもクレオスであろう」
エンドロールが始まった。
俺はケーキの箱を開けた。
「デザートにするぞ」
ゼウスが箱の中を見た。
「誕生日の祝いか」
「ただのショートケーキだ」
「だが菓子があり、一人の男が生まれ直す話を見た。今日は特別な日ではないか」
「すき焼きが食いたいだけだろ」
ゼウスはフォークの先で白いクリームをすくった。
「これは牛の乳か?」
「前に食った生クリームを泡立てたものだ」
ゼウスはクリームを口へ運んだ。
「よく食べる者は、よく生きるからな」
「映画を免罪符にするな」
神々の王は、苺を一口で食べた。
「次の特別な日はいつだ」
「少なくとも明日ではない」
「ならば、明後日だな」
「暦を食欲で決めるな」
神話メモ
◾️モイライ
モイライは、人間の運命や寿命を司る三柱の女神である。クロートーが生命の糸を紡ぎ、ラケシスがその長さを割り当て、アトロポスが糸を断つとされる。神々もその決定を容易には覆せず、避けられない死や定めを表す存在として語られた。
◾️アスクレピオス
アスクレピオスは医術を司る神であり、アポロンの子とされる。死者を蘇らせるほどの医術を得たため、人間と神々の秩序を乱すことを恐れたゼウスの雷霆に撃たれた。蛇の巻き付いた杖はアスクレピオスの象徴であり、現在も医療を示す意匠として使われる。
◾️エオス
エオスは夜明けを司る女神であり、太陽神ヘリオスと月の女神セレネの姉妹とされる。毎朝、天の門を開いて夜を退け、太陽が進む道を用意する。ホメロスの叙事詩では「薔薇色の指を持つ」と形容され、新しい一日の到来を告げる存在として繰り返し登場する。
◾️クレオス
クレオスは、評判、名声、後世に伝わる名を意味する古代ギリシャの概念である。とりわけ英雄にとっては、詩人の歌や共同体の記憶に残ることが、死後も失われない価値とされた。戦場での武勲だけでなく、都市の建設や競技での勝利も名を残す行為となった。
◾️ゼウス・ホルキオス
ゼウス・ホルキオスは、誓いを見守る神としてのゼウスの呼称である。古代ギリシャでは、神々を証人として立てた誓いを破ることは重大な罪とされた。偽りの誓いや誓約違反は、本人だけでなく家や子孫へ災いを招く行為として恐れられた。




