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第26話 オデッセイ

※本編では映画の結末を含むネタバレがあります。


映画紹介


公開年:2015年

監督:リドリー・スコット

主演:マット・デイモン


有人火星探査の最中、宇宙飛行士マーク・ワトニーは事故によって仲間から取り残される。地球との通信手段もなく、限られた食料しか残されていない。植物学者でもある彼は、科学知識と工夫を武器に、遥か彼方の故郷を目指して生存を始める。

皿の上には、皮つきのジャガイモを割ってバターをのせ、焼いたソーセージとザワークラウトを添えてある。


ゼウスは溶けたバターをジャガイモへ塗り広げた。


「今日は北方の民の宴か?」


「映画にジャガイモが出るから。料理まで合わせるとこれが楽だった」


俺は瓶ビールを二本、テーブルへ置いた。


「今日の映画は『オデッセイ』」


ゼウスの手が止まった。


「ついにオデュッセウスの話か」


「違う。火星に一人で取り残された宇宙飛行士の話」


「オデュッセウスは?」


「出ない」


「イタケは?」


「出ない」


「では、なぜオデッセイなのだ」


「邦題だから。原題は『ザ・マーシャン』。そのままなら『火星の人』だな」


ゼウスはビールの栓を指で弾き飛ばした。


「詩人が勝手に名を変えたのか」


「別に宇宙へ行く名作があって、そっちの原題が『2001:ア・スペース・オデッセイ』。日本では『2001年宇宙の旅』なんだよ。だから少し紛らわしい」


「その宇宙の旅にはオデュッセウスが出るのか?」


「出ない」


ゼウスはしばらく俺を見た。


「宇宙へ行くと、皆オデュッセウスを忘れるのか」


「映画会社に聞け」


俺は再生ボタンを押した。


    *


火星探査計画アレス3に参加した六人の宇宙飛行士を、猛烈な砂嵐が襲った。


「我が息子の名を冠した遠征か」


「火星だからだろ。ローマだとマルス」


「旅の安全を願うなら、アレースだと人選を誤っているぞ」


「開始早々に縁起悪いこと言うな」


飛ばされたアンテナが一人の体を直撃する。マーク・ワトニーの生命反応は消え、仲間が探しに戻ろうとする間にも、帰還船は風で傾き始めた。


船長は残る五人を生かすため、離陸を命じた。


ゼウスはジョッキを置いた。


「死んだと判断し、残る者を連れ帰ったか」


「探し続けたら全員帰れなくなるからな」


「船を預かる者の決断だ」


嵐が過ぎると、赤い砂の上でワトニーが目を覚ました。


腹へ刺さった金属片を自分で抜き、傷を閉じ、よろめきながら居住施設へ戻る。通信装置は壊れ、次の探査隊が来るのは四年後だった。


ワトニーはカメラへ向かい、自分はここでは死なないと宣言した。


ゼウスが笑った。


「よい。まず運命へ異議を申し立てた」


「受理する相手はいないけどな」


「構わぬ。英雄は最初に自分へ聞かせる」


ワトニーは食料を数え、残された物資を調べた。植物学者である彼が目をつけたのは、感謝祭の食事用に保存されていたジャガイモだった。


ゼウスは自分の皿を見た。


「これか」


「これ」


「小さいな」


「怪物と戦う武器じゃねえぞ」


居住施設の一角へ火星の土を運び、隊員たちが残した排泄物を肥料として混ぜ、切ったジャガイモを植えていく。


ゼウスはフォークを止めた。


「人間よ。この芋はどこの土で育った?」


「地球。スーパーで買った」


「証しはあるか」


「値札なら捨てたよ。食え」


ゼウスはジャガイモを一口食べ、ビールで流し込んだ。


「土も雨もない土地で畑を作るとは、デメテルも驚くぞ」


「まず水がないけどな」


ワトニーは残された燃料から水素を取り出し、居住施設の中で燃やして水を作り始めた。


「なぜ火から水が生まれる」


「水素を燃やすと酸素と結びついて水になる。詳しい式は知らん」


「見た話なのに知らぬのか」


「映画見るのに化学の試験はいらねえんだよ」


計算を誤ったワトニーの目の前で炎が弾けた。


ゼウスが声を上げて笑った。


「本人もすべては知らぬではないか」


「お前と一緒にするな。あっちは次で直す」


「私の雷霆なら、火を起こすのに計算はいらぬ」


「水ができる前に家が消えるだろ」


水が土へ染み込み、やがて緑の芽が並んだ。


ゼウスはすっかり画面へ身を乗り出していた。


「最初の試練を越えたな」


「食料はまだ全然足りないけどな」


「ならば次だ」


妙に楽しそうだった。


「怪物も敵兵も出てないのに、楽しそうだな」


「飢えと寒さと時が、この男を囲んでいる。敵の数なら十分だ」


「全部、殴れない相手だぞ」


「だから知恵で戦っているのだろう」


収穫したジャガイモを、ワトニーは一人で食べ始めた。皿に肉も野菜もなく、同じ芋だけが毎日続く。


ゼウスは自分のソーセージを持ち上げた。


「これほど働いた者に、肉がないのは不憫だな」


「火星だからな。お前は恵まれてるんだから黙って食え」


ゼウスはソーセージとジャガイモを一緒に口へ運んだ。


    *


地球では、衛星写真の変化からNASAがワトニーの生存に気づいた。


一方のワトニーは、何年も前に火星へ送られた無人探査機を掘り出す。回転するカメラを使って地球と短い言葉を交わし、やがて文字で通信できるように改造した。


「古い伝令を墓から掘り出し、再び走らせたか」


「機械を死者扱いするな」


「役目を失い、砂に埋もれていた。似たようなものだ」


地球との会話を取り戻したワトニーは、ジャガイモを育て、車を改造し、救援を待った。


NASAは帰還中の仲間たちにも、ワトニーが生きていると伝えた。


五人は喜んだが、船長だけは椅子へ座ったまま顔を伏せた。自分が彼を火星へ残したと口にする。


「船長を責めぬのか?」


「あの時は五人を帰すために決めたんだろ」


「そうだ。決断は誤りではない。だが、置いてきた一人が生きていた重さは消えぬ」


画面の仲間たちは、ワトニーへ順番に言葉を送った。


「この者たちは、もう帰還したつもりではおれぬな」


だが居住施設の空気を保つ入口が破裂した。


建物の一部が吹き飛び、火星の冷たい空気が畑を凍らせる。並んでいた葉はすべて枯れた。


ゼウスから笑みが消えた。


ワトニーは凍った茎を抜き、残ったジャガイモを数え直した。


「あれほど働いても、嵐は畑を一息で奪う」


「火星だからな」


「それでも芋は残った。ならば、まだ終わっておらぬ」


地球から食料を送る計画も、急いだ打ち上げの途中で爆発した。


別の国が大型ロケットを提供し、NASAは次の手を考える。天体の動きを計算する一人の男が、地球へ帰る途中の宇宙船ヘルメスを反転させ、火星へ戻す航路を見つけた。


「ヘルメスか。旅人を導くには、よい名だ」


「アレースへの当てつけに聞こえるぞ」


計画を知った船長と四人の仲間は、全員一致で地球への帰還を延期した。一年以上を余計に宇宙で過ごし、ワトニーを迎えに戻る。


ゼウスは五人の顔を順に見た。


「置き去りにした一人を迎えるため、五人が再び海へ出るか」


「宇宙だけどな」


「同じだ。帰るべき家と、飲み込む闇がある」


「宇宙で急に海の詩人になるな」


「この男には、これほど試練が続いている。火星の神は助けぬのか?」


「火星に神なんかいないだろ」


「青いのがいるではないか」


「青いの?ドクター・マンハッタンか? あれは別の話だ」


「役に立たぬ神だな」


「他の作品のキャラへの流れ弾はやめろ」


    *


ワトニーは火星を横断するため、車へ予備の電池と居住設備を積み込んだ。


一人で赤い大地を走り続け、次の探査隊用に置かれていた小型の帰還船へたどり着く。


だがヘルメスへ届く高さまで飛ぶには、船を徹底的に軽くしなければならない。座席も窓も外し、船体の一部を布で覆う。


ゼウスは眉を上げた。


「あれで天へ上がるのか」


「上がる予定」


「この男は船を直しているのか、壊しているのか?」


「軽くしてる」


「最後の試練が一番乱暴だな」


「科学の映画なんだけどな」


帰還船が火星を離れた。


しかし速度も高さも足りず、待ち受けるヘルメスとの距離が開いていく。


仲間たちは船内で爆発を起こし、噴き出す空気で巨大な船を減速させた。船長が命綱をつけて宇宙へ飛び出すが、それでも手が届かない。


ワトニーは自分の手袋へ穴を開け、噴き出す空気を使って船長の方へ飛んだ。


「最後は自分が風になるか!」


ゼウスは両手を握り、画面から目を離さなかった。


船長の指がワトニーの腕をつかむ。


二人を命綱が引き止め、仲間たちが船内へ引き上げた。


ワトニーは一人ずつ抱き合い、ようやく同じ船で地球へ帰る。


ゼウスは大きく息を吐いた。


「よく帰った」


俺もビールを一口飲んだ。


    *


地球へ戻ったワトニーは、新しい宇宙飛行士たちの前に立っていた。


問題が起きたら一つ解き、次の問題を解く。それを繰り返せば、生きて帰れる日が来る。自分が火星で続けた方法を、今度は教える側として話している。


エンドロールが流れると、ゼウスは空になった皿の中央へフォークを置いた。


「分かったぞ」


「何が?」


「怪物も女神も出ぬが、知恵を使い次々と試練を越え、長くさまよい、仲間の船で家へ帰った。これはノストスだ。オデュッセウスも認めるであろう」


「いや、俺は納得してない」


「なぜだ?」


「『火星の人』の方が分かりやすいし、そもそも原題をまるごと変える必要あるか? 『オデッセイ』だと『2001年宇宙の旅』まで頭に浮かぶし」


「だが、私は納得した」


「見終わらないと題名に納得できない時点でどうなんだよ」


「詩人は客を席へ呼び、最後に題を分からせればよい」


「お前、邦題をつけた側に回るのかよ」


ゼウスはビールの瓶を傾けた。もう一滴も出なかった。


「それより、芋と麦酒を追加せよ」


「全部食っただろ」


「帰還まで足りぬ」


「ここは火星じゃねえよ」


挿絵(By みてみん)


神話メモ


◾️『オデュッセイア』


古代ギリシャの詩人ホメロスに帰される叙事詩。トロイア戦争を終えた英雄オデュッセウスが、故郷イタケへ帰るまでの十年間を描く。キュクロプス、セイレーン、魔女キルケなど数々の試練を越える旅は、後世の冒険物語や帰還譚に大きな影響を与えた。


◾️ノストス


古代ギリシャ語で「帰還」を意味する語。とくにトロイア戦争から故郷へ戻る英雄たちの物語を指し、複数形の「ノストイ」は失われた叙事詩群の題名にも使われた。オデュッセウスの帰還は、その中でも最も詳しく伝わる物語である。


◾️アレス


戦争の激しい側面を司る神。ゼウスとヘラの子とされ、勇猛さを持つ一方、無秩序な殺戮や戦場の混乱を体現する。ローマ神話の軍神マルスと同一視され、英語で火星を意味するMarsという名称はマルスに由来する。


◾️ヘルメス


神々の使者であり、旅人、商人、牧畜、境界などを司る神。翼のある履物を身につけ、神々と人間の世界を素早く往来するとされる。道案内や境界の通過に関わり、英雄の旅を助ける役割を担うことも多い。


◾️デメテル


穀物と農耕、大地の実りを司る女神。娘ペルセポネが冥府へ連れ去られた際、悲しみによって地上の作物を枯らしたとされる。古代ギリシャでは農業と共同体の存続に深く関わる神として崇拝され、エレウシスの秘儀の中心にも置かれた。

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