第24話 ジョーズ
※本編では映画の結末を含むネタバレがあります。
映画紹介
公開年:1975年
監督:スティーヴン・スピルバーグ
主演:ロイ・シャイダー
夏を迎えた海辺の町アミティで、海水浴客が何者かに襲われる。警察署長ブロディは浜の閉鎖を求めるが、観光で成り立つ町の思惑がそれを阻む。被害が重なる中、海洋学者フーパーと漁師クイントを加えた三人は、巨大な人食いザメを追って沖へ向かう。
「人間よ。これは魚の煮物か?」
「アクアパッツァ。白身魚をトマトやアサリと一緒に煮た料理」
ゼウスは深皿を覗き込み、スプーンでスープをすくった。
「アクアパッツァとは、どういう意味だ?」
「狂った水とか、暴れる水って意味らしい。イタリア料理だ」
「物騒な名前だな。お、酒もあるな」
「イタリアの白ワイン。安かったけど、わりと評判がいい」
俺がグラスへ注ぐと、ゼウスは淡い色を透かして見た。
「料理も酒もイタリアか」
「たまたま。千円ちょっとで買えた」
「南の沿岸には、我らの民が築いた町も多かった。葡萄酒を造る者もいたぞ」
「二千年以上前の植民市で、今のイタリアまで自分の手柄のように話すな」
「神殿があるなら私の手柄のようなものだ。これは水で薄めないのか?」
「なんでワインを薄めんだよ。ひょっとして白ワイン知らないのか?」
「白い葡萄酒なら知ってる。黒いものより一段落ちる酒だ」
「何その偏見。いいから飲んでみろよ」
一口飲み、もう一度グラスを見た。
「……うまいな。私が知る白とは違う」
「お前飲食に関しては手のひらクルックルだよな」
「うまいものに意地を張って何になる。よく冷えているのもよいな」
「色で酒の位を決めてた神が言うな」
ゼウスは魚をつつきながら聞いてきた。
「それで、今日の話は?」
「『ジョーズ』」
「ジョーズとは何だ?」
「顎だったかな。サメが出てくる」
ゼウスの手が止まった。
「なるほど。狂った水か。この話にぴったりの名だな」
「料理の名前だからな」
「ポセイドンの領分ではないか」
「お前の弟の?あれ?兄だっけ」
「弟だ」
「あ、はい」
「二度と間違えるな。海とそこに棲むものは、あれの支配下にある。海神が罰として放った怪物かもしれん」
「今回は神罰は関係ない」
「なら面倒がなくてよいな」
ゼウスは満足そうにグラスを上げた。
「ここに映画見にくる前に兄弟で一度よく話し合った方が良くない?」
俺は再生ボタンを押した。
*
夜の海へ入った若い女が、暗い水の中から引き回される。
ゼウスはスプーンを皿へ戻した。
「姿を見せぬのか」
「見てろ」
女の体が水面から消え、翌朝、浜で遺体の一部が見つかる。警察署長のブロディはサメの襲撃を疑い、遊泳禁止の看板を作らせた。
「この男が町の守り手か」
「警察署長だ」
「法の番人か。すぐに浜を閉じたな。正しい」
だが市長と町の有力者たちが現れた。独立記念日の観光客を失えば町が立ち行かない。医師まで説明を変え、死因は船の事故かもしれないと言い出す。
ゼウスは市長を指した。
「これは王か?」
「選挙で選ばれた市長。町の代表」
「なぜ町を守る者の手を縛る」
「ビーチを閉めると客が来ない。客が来ないと金が落ちない」
「怪物へ町の者を差し出し、代わりに銀を得るのか」
「言い方。本人は事故だと思いたがってる」
「思うだけで怪物が消えるなら、神託も槍も要らぬ」
浜は開かれた。
人で埋まった砂浜を、ブロディだけが落ち着かず見回している。波打ち際では子供たちが遊び、犬が投げられた棒を追って海へ入った。
ゼウスが画面へ顔を近づけた。
「守り手だけが海を見ている」
「他の人はサメがいると思ってないからな」
「王が信じさせなかったのだ」
水面に赤いものが広がった。犬は戻らない。直後、少年を乗せた浮き具がひっくり返り、浜へ逃げる人々の間で母親が息子の名を呼び続けた。
ゼウスはグラスを置いた。
「一人目で閉じれば、この子は死ななかった」
俺は返事をせず、画面を見た。
*
少年の母親が懸賞金を出すと、町の会議には住民と漁師が押し寄せた。
黒板を爪で引っかく音が響く。
ゼウスが眉を寄せた。
「不快な音を立てずに素直に名乗れば良いではないか」
「まあカマシだよ。漁師のクイントだ。サメを殺すと言ってる」
クイントは一万ドルで請け負うと宣言し、人々を見渡して部屋を出た。
「よい戦士だ」
「かなり粗野だし。報酬も釣り上げたぞ」
「怪物退治には報酬が要る。王女、牛、土地、黄金。英雄をただで働かせる王は、後で必ず揉める」
「経験者は語るか」
「私は報酬を与える側だ」
「ほんとか?払わずに揉めたりしてない?」
ゼウスは白ワインを飲んだ。
「詩人は争いのある話ばかり残すものだ」
「お前都合悪いと詩人のせいにするよな」
懸賞金を目当てに、銃や銛を持った素人まで港へ集まった。やがて一団が大きなイタチザメを捕らえ、町は怪物を退治したと沸き立つ。
海洋学者のフーパーだけが、傷と歯の大きさが合わないと主張した。
「若い賢者は、あれではないと言っているぞ」
「学者な。市長は終わったことにしたいんだよ」
「この町は願望で怪物を殺せると思ってる愚か者を王に選んだのか」
「町を責めるな。公約にサメなんて項目はない」
捕まえたサメの腹を調べても、人を食った跡は出なかった。さらに沖で壊れた船が見つかり、フーパーは巨大な歯を目にする。だが海中で人の死体に驚き、その歯を落としてしまった。
証拠を失った二人の訴えを、市長は退けた。独立記念日の浜を開く決定は変わらない。
ゼウスはしばらく市長を見た。
「この男を先に泳がせよ」
「行政の手続きに生贄を混ぜるな」
「安全だと言う者が、自ら安全を示す。言葉より早い」
「市長の海水浴で安全基準を決めるな」
独立記念日。観光客は浜へ来たが、サメの話を聞いた誰もが水際で止まっている。市長は顔見知りの家族へ近づき、海へ入るよう頼んだ。
ゼウスが俺を見た。
「本人は入らぬのか」
「入らないな」
「では、やはり生贄ではないか」
「だいぶ否定しづらくなってきた」
頼まれた家族をきっかけに、人々は次々と海へ入った。やがて背びれが現れ、浜は一斉に崩れたが、それは少年たちの悪戯だった。
人々が胸を撫で下ろした直後、本物のサメは少し離れた入り江へ入った。小舟が砕かれ、男が食われる。そこにはブロディの息子もいた。
病院で、市長はようやくクイントを雇う書類へ署名した。
「遅い。二人死に、守り手の子まで襲われてから決断した。王ならば、死者の名をすべて背負え」
「そこに関しては反論の余地が無い。王じゃなくて市長だけど」
「責任から逃れる時だけ身分を小さくするのか」
「責任からは逃れてるけど、最初から身分は市長だよ」
*
クイントの漁船オルカに、ブロディとフーパーが乗り込んだ。
「兵も従者も連れずに行くのか」
「三人だけ。でかい船もない」
ゼウスは船を見て、残っていたワインを飲み干した。
「勇敢と無謀は、帰ってきた者だけが分けられる」
「便利な判定だな」
「英雄の判定とはそういうものだ」
クイントは古い経験と勘でサメを追い、フーパーは新しい機械を持ち込む。海が怖いブロディは、船尾から血の混じった餌を撒かされた。
「なぜ海を恐れる男を連れてきた」
「町の警察署長だから。自分の仕事を他の二人に投げなかった」
「ならば乗る理由は十分か。むしろ立派だ」
ブロディが餌を撒きながらぼやいていると、そのすぐ後ろで巨大な頭が水面を割った。
ゼウスが立ち上がった。
「大きいぞ!」
「見れば分かる!」
ブロディは後ずさりしたまま船室へ入り、もっと大きな船が必要だとクイントへ告げた。
「正しい。戻って大船と兵を集めよ」
「戻らない」
「なぜだ」
「映画見ろ」
クイントは銛を撃ち込み、浮き樽をつけてサメを追った。だが巨大な樽はあっさり水中へ引き込まれた。
ゼウスはソファへ座り直した。
「怪物を侮ってはいない。だが、自分と船を信じすぎている」
「さっきはよい戦士って言ってたぞ」
「戦士としてはよい。船長としてよいかは、別だ」
「評価項目が増えたな」
*
夜、三人は船室で酒を飲み、互いの傷を見せ合った。
クイントは自分の腕に残る刺青の跡を見せ、戦争中に乗っていた軍艦の話を始めた。
船は沈み、大勢の兵士が救助を待って海に浮かんだ。サメが一人ずつ襲い、助けられた者は一部だけだった。
ゼウスはアクアパッツァへ伸ばしかけた手を止めた。
クイントの話が終わるまで、何も言わなかった。
「一度帰った海へ、自分から戻ったか」
三人が歌い始めると、船体へサメが激突した。
「宴の最中に襲うとは、無礼な怪物だ」
「そこは怒るんだな」
「食事と酒の席には掟がある」
「サメに掟を要求するな」
翌日、サメへ二つ目の樽が打ち込まれた。傷んだ船で追跡を続けるクイントに、ブロディは陸へ戻るよう訴える。
ブロディが無線で沿岸警備隊を呼ぼうとすると、クイントは棍棒で無線機を叩き壊した。
ゼウスの目が細くなった。
「今、伝令を殺したぞ」
「機械だ」
「同じことだ。援軍を呼ぶ道を自ら断った」
「自分の手で仕留めたいんだろ」
「名誉を求めるのは分かるが、船には他の二人がいる。己の歌のために、仲間の帰還まで賭けるな」
「戦士評価は?」
「高い」
「船長評価は?」
「最低だ」
エンジンは無理な追跡で壊れ、船尾から海水が入り始めた。
フーパーは檻に入って海へ潜り、毒を打ち込もうとする。サメは檻ごと彼へ襲いかかり、ひしゃげた鉄の隙間からフーパーは逃げた。
「ポセイドンなら海中で槍を外すことはない」
「神を基準にするな」
「私なら海へ入らず雷霆で焼く」
「お前は船ごとやるだろ」
ゼウスは答えなかった。
沈み始めたオルカへサメが乗り上げた。傾いた甲板を滑ったクイントが、開いた口へ落ちていく。
ゼウスは膝へ両手を置いたまま動かなかった。
サメがクイントを海へ引きずり込む。残されたブロディは、フーパーの空気タンクをサメの口へ押し込んだ。沈む船の高い場所へ登り、クイントの銃を構える。
水面から迫る巨大な口へ、ブロディが何度も発砲する。
弾丸がタンクを捉えた。
爆発でサメの頭が吹き飛び、ゼウスが拳を上げた。
「頭を吹き飛ばしたぞ!見事だ!」
俺も息を吐いた。
海中へ逃れていたフーパーが浮かび、ブロディと合流する。二人は樽につかまり、遠い浜へ向かって泳ぎ始めた。
「海を恐れていた男が、最後は海を渡って帰るか」
「船がなくなったからな」
「余計なことを言うな。よい帰還だ」
「はいはい」
*
エンドロールが流れると、ゼウスは冷めたアクアパッツァの魚を口へ運んだ。
「冷えても悪くない」
「映画の途中で手を止めるからだ」
「しかしサメを捨ててしまったのはもったいないな。あの大きさなら食い出があったろうに」
「サメを食うのかよ」
「食うぞ。腹の身を油と塩、香草で焼く。美食家が産地まで食いに行くような上等な魚だった」
「現代だと、サメ料理なんてフカヒレくらいしか知られてないぞ」
「鰭だけか。身の方がうまいのに」
「古代人がサメを食ってたなんて知らなかったよ」
「焼くか煮るかは違うが、油と塩と香草で魚を食う。これに近い料理だ」
ゼウスは皿の魚を見た。
「次は鮫で作れ」
「嫌だよ。そもそもスーパーに置いてない」
「怪物を倒した後、その肉を宴で食う。英雄への正しい報酬だ」
ゼウスは空になったワインの瓶を持ち上げた。
「もう一本出せ」
「怪物を倒したのはお前じゃないからサメもなければワインももうない」
「私は見届けた」
「映画見ただけだろ」
神々の王は、納得のいかない顔で皿に残ったスープをパンですくった。
神話メモ
◾️ポセイドンとゼウスの兄弟順
ポセイドンは海、地震、馬を司る神。ゼウスとの兄弟順は古典間で一致しない。ヘシオドス『神統記』ではポセイドンが先に生まれ、ゼウスは末子とされる。一方、ホメロス『イリアス』ではゼウスが年長者として語られる。クロノス打倒後、ポセイドン、ゼウス、ハデスはくじで世界を分け、ポセイドンは海を得た。
三叉の矛を武器とし、怒りによって嵐や地震を起こす一方、船乗りや都市から航海の安全を祈願された。
◾️ケートス
ギリシャ神話に登場する巨大な海の怪物の総称。神の怒りによって沿岸の国へ送られ、人間や家畜を襲う存在として語られる。アンドロメダを生贄として求めた怪物や、トロイア王ラオメドンの国を荒らした怪物が知られ、英雄による討伐譚と結び付いた。
◾️マグナ・グラエキア
紀元前8世紀頃以降、ギリシャ人は南イタリアやシチリア各地に植民市を築いた。この地域は後に「大ギリシャ」を意味するマグナ・グラエキアと呼ばれた。都市国家の制度、神々への祭祀、文字、陶器、オリーブや葡萄の栽培など、ギリシャ文化が広く伝えられた。
◾️英雄と報酬
ギリシャ神話の英雄は、怪物退治や遠征の見返りとして、財宝、土地、家畜、王女との婚姻などを約束されることが多い。報酬の不払いは単なる金銭問題ではなく、誓約と名誉を損なう行為とされた。約束を破った王が英雄や神の報復を受ける物語も多く残る。
◾️古代ギリシャの葡萄酒
古代ギリシャでは赤に近い黒葡萄酒だけでなく、白葡萄酒も知られていた。味や色、産地によって多様に区別され、宴ではクラテールと呼ばれる器で水と混ぜて飲むのが一般的だった。葡萄酒は日常の飲料であると同時に、神々への献酒や祭礼にも用いられた。
◾️アルケストラトス
紀元前4世紀頃にシチリアで活動したギリシャ人の詩人。地中海各地の優れた食材と調理法を詠んだ作品の断片が残る。トロネ産のサメ類の腹身を、塩やクミン、オリーブ油を用いて焼く食べ方を勧めるなど、魚の産地、部位、旬を細かく評価した。




