第22話 マトリックス
※本編では映画の結末を含むネタバレがあります。
映画紹介
公開年:1999年
監督:ラナ・ウォシャウスキー、リリー・ウォシャウスキー
主演:キアヌ・リーブス
昼は会社員、夜はハッカーとして暮らすトーマス・アンダーソンは、世界のどこかに隠された「マトリックス」の正体を追っていた。謎の男モーフィアスとの出会いを境に、彼は日常の裏側へ踏み込み、現実そのものを揺さぶる真実と人類の未来を懸けた戦いに巻き込まれていく。
「喜べ。今日はステーキだぞ」
ゼウスはテーブルへ置かれた皿を見た。
「む、厚みがあるな」
「厚みだけじゃないぞ。味もいい」
「ほう。良い牛か」
「値引きセールやっててな。普段は買わない肉だから、味わって食えよ」
ゼウスは切り分けた肉を口へ入れた。
一切れが大きい。
「もっと味わって食え」
「柔らかいな」
「話を聞け。ちゃんとパンとサラダも食え。神に栄養って概念があるのか知らないがバランスは大事だ」
付け合わせにインスタントスープも置く。
「スープもあるぞ」
デザートには、市販のチョコチップクッキーを買ってある。袋はテーブルの端へ置いた。
「今日は『マトリックス』を見よう」
「マトリックス?」
「母体とか基盤とかいう意味だ。世界を動かす仕組みの名前だと思っておけ」
「世界の仕組みだと?大きく出たものだな」
「まあ見ろよ」
俺は再生ボタンを押した。
*
黒い服を着た女が警官に包囲された。
トリニティと名乗る女は瞬く間に警官を倒し、壁を走り、隣の建物へ跳んだ。
ゼウスの手が止まった。
「この女は神の血を引いているのか」
「お前の隠し子判定は要らん」
「私は何も言っておらぬ」
「言う前に止めた」
追ってきた黒服の男も同じ距離を跳んだ。
ゼウスが眉を上げた。
「男もか」
「子を増やすな」
「ならば、あれは何者だ」
「映画見ろ」
画面は会社員のトーマス・アンダーソンへ移った。
夜はネオという名で機械を使い、マトリックスの正体を探している。そこへモーフィアスという男から連絡が入った。
「モーフィアスだと?」
「知ってるのか」
「モルペウスならば、眠りの神ヒュプノスの子だ。人の姿を作り、夢へ現れる」
「なるほど。そういう事だったんだ」
「何を1人で納得しておる。全くわからんぞ」
*
黒服の男たちに捕まったネオは、モーフィアスの情報と引き換えに罪を見逃す取引を持ちかけられた。
ネオは取引を断り、電話をかける権利があると言い返した。
その口が動かなくなった。
唇の境目が消え、皮膚が一枚につながっていく。
「おい人間!口が塞がったぞ!」
「見れば分かる!」
黒服たちは暴れるネオを机へ押し倒した。
スミスの手の中で、金属の虫が脚を動かす。虫は長い尾を振り、ネオのへそから腹の中へ潜り込んだ。
「腹に鉄の虫を入れたぞ!」
「うるせえ実況するな!」
ネオは自宅のベッドで目を覚ました。
悪夢だったと思ったが、迎えに来たトリニティたちは車内で器具を腹へ押し当てた。血に濡れた機械の虫が吸い出され、路上へ捨てられる。
ゼウスが皿を少し遠ざけた。
「本当に入っていたのか」
「今さら疑うな」
機械の虫を取り除かれたネオは、ようやくモーフィアスと対面する。
モーフィアスは、ネオが見ている世界は偽物だと告げた。
「眠りの名を持つ男が、人を起こすのか」
「役割は逆だな」
「何をしたり顔しておる。先程までモルフェウスを知らなかったではないか」
「うるせえよ」
モーフィアスの両手には、一錠ずつ薬が載っていた。
青を飲めば元の生活へ戻り、信じたいものを信じて生きられる。
赤を飲めば、真実を知ることになる。
「赤を選べ」
「画面に話しかけても向こうは聞こえないからな」
「青はレーテーの水と同じだ。忘却を選ぶ者に英雄の歌はない」
ネオは赤い薬を取った。
「私の言うとおりに選んだぞ」
ゼウスは勝ち誇った顔で俺を見た。
「テレビでスポーツ観戦してるおっさんかお前は」
*
ネオは液体に満たされた容器の中で目を覚ました。
全身へ管がつながれている。
同じ容器が上にも下にも並び、中には一人ずつ人間が入っていた。
「人間を栽培しているのか」
画面に映った数は、畑と呼ぶにも多すぎた。
救出されたネオへ、モーフィアスが人類と機械の戦争を説明する。人間が作った機械は反乱を起こし、戦争に勝った。今では人間の身体から得られる熱や電気を利用している。
「人間は電池、ええっと、機械を動かすための資源にされてる」
「戦に敗れ、家畜にされたのだな」
「その解釈であってる」
「造り主であることは、勝利を保証せぬ」
ゼウスは肉のなくなった皿へフォークを置いた。
「自由を望むなら、勝つしかない」
「いきなり再戦から入るのか」
「敗者が勝者へ願い出て、鎖を外してもらえると思うのか?」
「でも機械側が圧倒的に強いんだよな」
「負けを恐れて家畜の生を取るか」
モーフィアスは、ネオが現実だと思っていた街も仕事も食事も、脳へ送られた信号にすぎないと教えた。
ゼウスが画面へ顔を寄せた。
「この世界はプラトンの洞窟より性質が悪いな」
「!?」
「どうした?」
「いや、急にインテリ感出してきたな。お前、プラトンにも詳しいのか」
「ヘラスの哲学者だ。しかも神々について好き勝手に語っていた。こちらも知っている」
「プラトンさん、よくご無事で」
「壁に映る影しか見たことのない囚人が、影を世界そのものだと思い込む話だ」
「こっちは影が囚人から電気を取ってる」
「ゆえに性質が悪いと言った」
ネオは、荒廃した地上と人間を培養する機械を見た。
目を背け、床へ吐いた。
*
船へ迎えられたネオは、脳へ直接戦闘技術を入れられた。
十時間後、目を開ける。
カンフーを覚えたと言うネオに、ゼウスが身を乗り出した。
「数時間で戦士が育つのか」
「軍隊作るのに便利だと思ってるだろ」
「実際便利だ。アレースなら大声で泣き叫んで喜ぶぞ」
「なんか想像はつく」
訓練用の世界で、ネオとモーフィアスが戦い始めた。
二人の身体が床から離れ、壁を蹴り、拳を交える。ネオが速くなるたび、ゼウスの口元が上がった。
続く跳躍訓練で、モーフィアスは高層ビルの屋上から向かいの建物へ飛び移った。
ネオも続いた。
落ちた。
「飛べぬではないか」
「普通の人間は飛べないんだよ」
「最初に見た男は飛んだぞ」
「そいつも普通の人間じゃない。人類平均に入れるな」
その後、サイファーがネオへ、青い薬を選べばよかったと漏らした。
次の場面では、そのサイファーが黒服のエージェントと向かい合っていた。
高級そうな店で、分厚いステーキを食べている。
サイファーは肉が存在しないと知っていた。それでも、脳が旨いと感じるなら構わないと言い、真実を忘れてマトリックスへ戻る条件として、仲間のモーフィアスを売った。
「赤を飲んだ後で、青を買い直すか」
「代金は仲間の命だ」
「しかも牛まで偽物だ」
「罪状を足す場所そこか?」
ゼウスは皿へ残った肉汁を見た。
「同じ船で戦った者を、眠りと偽物の牛に替えようとしてる。歌に残せぬ男だ」
「本人は有名な役者にしてくれって頼んでるぞ」
*
モーフィアスたちはネオをオラクルのもとへ連れていった。
オラクルは救世主の出現を予言した人物だ。
待合室では、子供たちが物を浮かせたり曲げたりしている。その中の少年が、一本のスプーンを滑らかに曲げた。
ゼウスはインスタントスープのカップに残っていた匙を持ち上げた。
「曲がらぬ」
「人の家のカトラリーを曲げようとするな。お前だと曲がりそうだし」
ネオが通された先に、神殿はなかった。
普通の台所で、一人の女がクッキーを焼いている。
「神託を得るのに月桂樹もないのか」
「クッキーならあるぞ」
「菓子と一緒にするな。……置くこと自体は否定しないが」
「お前が食べたいだけだろ」
オラクルはネオへ、花瓶を心配するなと告げた。ネオが振り向き、花瓶を割る。
「この老婆は本物だ」
「花瓶一個で認定するな」
「小さな出来事を読めぬ者に、大きな運命は読めぬ」
オラクルは壁に掛かった言葉を示した。
ラテン語で「汝自身を知れ」と書かれている。
「アポロンの神殿にも掲げられていた。掲げる場所で言葉の価値は変わらぬ」
「キッチンでもいいのかよ。クッキー見てから寛容になってないか」
ネオは自分が救世主ではないと口にした。
オラクルは、才能はあるが何かを待っている、次の生かもしれないと答えた。
さらに、モーフィアスはネオを救うために命を投げ出す。ネオは自分とモーフィアス、どちらを死なせるか選ぶことになると告げた。
オラクルは最後にクッキーを渡した。
俺も袋を開け、ゼウスへ一枚差し出した。
「デザートだ。せっかくだから同じ場面で食え」
ゼウスは受け取り、一口かじった。
「この神託所は、もてなしを知っている」
「それは俺のもてなしだぞ」
ゼウスが頷いた。
「よくできた神託所だ」
「さっきからクッキーしか評価してないだろ」
*
帰り道、同じ黒猫が二度通った。
マトリックスの中で何かが変更された合図だった。
建物の窓や出口が塞がれ、警官とエージェントが突入してくる。
モーフィアスはネオを逃がすため、エージェントへ向かった。
「指揮官が残ったか」
「ネオが救世主だと信じてるからな」
「どちらにせよ殿を務めるよい指揮官だ」
モーフィアスは捕らえられた。
船へ先に戻ったサイファーは仲間を襲い、マトリックスに残る者たちを一人ずつ殺していった。
ゼウスの指がテーブルを叩いた。
「偽の牛を食った男だ」
「認識が雑」
「不快だ。この男を冥府へ落とせ」
「冥府に不法投棄するな。ハデスが怒るぞ」
サイファーは、偽物の世界の方が現実よりも自由だと言った。
仲間を殺し、ネオの接続を切ろうとする。
その直前、負傷していたタンクがサイファーを撃った。
「よくやった」
「牛絡むとほんとめんどくさいな、お前」
モーフィアスは敵に捕らえられたままだった。
人類の生存地ザイオンを守るためには、接続を切ってモーフィアスを殺すしかない。
そのときネオは、オラクルが告げた選択を思い出した。
自分は救世主ではない。
それでも、モーフィアスを救いに戻ると決めた。
「よい決断だ」
「救世主じゃなくてもか?」
「選ばれし者ではないと思っているのに仲間を救う決断をした。なおよい」
トリニティも同行した。
二人は大量の銃を持ち込み、警備された建物へ正面から入った。
銃弾が壁を砕き、床を削る。
ゼウスが椅子から立ち上がった。
「何という量の武具だ!」
「喜ぶな」
「武具は多いほどよい!」
「映画見ろ!お前アレースのことあんま言えないぞ」
「素晴らしい身のこなしだ。まるでアキレウスを見ているようだ」
「まじ?最大級の評価じゃねえか」
屋上では、ネオがエージェントの銃弾を避けた。
身体を大きく反らし、弾丸が鼻先を通過する。それでも一発を受け、床へ倒れた。
そこへトリニティが銃口を突きつけた。
「近すぎて避けられぬな」
「倒しても、近い人間を乗っ取ってまた襲ってくるけどな」
「何と姑息な連中だ」
二人はヘリコプターでモーフィアスを救出した。
落下したモーフィアスへネオが手を伸ばし、空中でつかむ。
「よい!」
「うるせえ」
「仲間を救いに敵地に入り、空中で受け止め救出したのだぞ」
「隣で同じもの見てるから知ってるよ」
*
モーフィアスとトリニティは現実へ戻った。
しかし、ネオはエージェント・スミスに出口を塞がれた。
逃げずに振り返り構える。
「ようやく正面から戦うか」
「相手は倒しても別の人間の身体から出てくるぞ」
「ならば何度でも殴り倒せ」
ネオはスミスと互角に戦った。
地下鉄の線路へ落とされても立ち上がり、迫る列車の前から脱出する。
だが、エージェントには別の人間の身体を使って戻る力があった。
ネオは出口を目指して走った。
あと少しで電話へ届く。
その直前、待ち構えていたスミスに撃たれた。
ネオの身体が床へ倒れた。
現実の船でも心臓が止まる。
ゼウスは立ったまま、画面を見ていた。
トリニティは動かないネオへ語りかけた。
オラクルから、自分が救世主を愛することになると告げられていた。
自分はネオを愛している。だからネオは死なない。
トリニティが口づけ、ネオの目が開いた。
ゼウスがゆっくり椅子へ座った。
「……次の生か。やはり、こやつが選ばれし者だったのだな」
「死んで一分も経ってないけどな」
「神託に年月の定めはなかった」
「お前んとこの神託も結構アバウトなの多いもんな」
再び撃たれた銃弾を、ネオは片手で止めた。
空中に並んだ弾丸が床へ落ちる。
「選ばれし者の力はこれほどか。だが我が雷霆も止められるか」
「映画と張り合おうとするな」
ネオには、マトリックスを作る数字が見えていた。
スミスの攻撃を片手で防ぎ、その身体へ入り、内側から破壊する。
残ったエージェントたちは逃げた。
最後にネオは、マトリックスに支配されている人々へ真実を見せると告げた。
電話を切り、空へ飛び上がる。
ゼウスが俺を見る。
「飛ぶのではないか!さっきは、よくも私の言葉を否定したな」
「先に言ったら面白くないだろ」
「ならば、どちらとも取れるように言え」
「神託方式の映画解説なんて器用な真似はできねえよ」
エンドロールが始まった。
ゼウスは空の皿を持ち上げた。
「先ほどの牛が実在した証拠はあるか?」
「スーパーの値引きシールなら、ごみ箱に残ってる」
ゼウスは頷いた。
「神託より確かだな」
「オリュンポスの最高神がそれ言っちゃダメだろ」
俺はクッキーの袋を手元へ寄せ、一枚取り出した。
「もう一枚食うだろ」
「神託か?」
「違う。お前がさっきから袋を見てるからだ」
ゼウスはクッキーを受け取った。
「未来を知るには、よく見ることも必要なのだ」
「物欲しそうに見てただけだろ」
一枚を食べ終える前に、ゼウスの手がクッキーの袋に伸びた。
「三枚目の未来も見えているか?」
「このままだと三枚目どころか袋ごと消える」
「見事な予言だ」
ゼウスは袋を自分の前へ引き寄せた。
「何が見事だよ。予言を自分で成就させるな」
神々の王はクッキーを食べながら去った。
クッキーの袋も消えた。
神話メモ
◾️モルペウスとオネイロイ
古代ギリシャでは、夢はオネイロイと呼ばれる精霊として表された。モルペウスは眠りの神ヒュプノスの子とされ、人間の姿や声、身振りを再現して夢へ現れる。名は「形」を意味するギリシャ語に由来し、特にオウィディウスの『変身物語』で知られる。
◾️レーテーとムネーモシュネー
レーテーは忘却を意味し、冥府を流れる川や泉として語られる。死者のためのオルペウス教金板には、忘却の泉を避け、記憶の湖から水を飲むための指示が刻まれている。ムネーモシュネーは記憶を司る女神であり、ゼウスとの間に九柱のムーサをもうけた。
◾️デルポイの神託とピュティア
デルポイはアポロンの神託所として古代ギリシャ各地から参詣者を集めた。神託を伝える女性祭司はピュティアと呼ばれ、神殿奥部で三脚鼎に座ったとされる。神託には複数の解釈が可能な言葉も多く、その意味をどう受け取るかは問いを立てた者に委ねられた。
◾️汝自身を知れ
「汝自身を知れ」は、デルポイのアポロン神殿に掲げられていたとされる格言である。古代ギリシャの七賢人に結び付けられ、自分の能力や立場、限界を正しく認識することを求める言葉として、ソクラテスやプラトンをはじめ多くの思想家が論じた。
◾️プラトンの洞窟の比喩
プラトンは『国家』第七巻で、洞窟の壁に映る影だけを見て育った囚人を描いた。囚人は影を現実そのものと信じるが、鎖を解かれて洞窟の外へ出た者は、その背後に別の世界があることを知る。伝統的な神話ではなく、知識と認識を説明するための哲学的比喩である。




