第14話 天使にラブ・ソングを…
映画紹介
公開年:1992年
監督:エミール・アルドリーノ
主演:ウーピー・ゴールドバーグ
犯罪組織による殺人を目撃したクラブ歌手のデロリスは、警察の証人保護によって修道院へ匿われる。自由奔放な彼女にとって、規律と静けさに満ちた生活は窮屈そのもの。やがて聖歌隊の指導を任された彼女は、持ち前の歌唱力と発想で修道女たちの歌を変えていく。
「今日は『天使にラブ・ソングを…』」
ゼウスがテーブルの皿を見た。
「天使が歌うのか?」
「歌うのは修道女」
「天使ではないのか」
「原題は『シスター・アクト』。邦題だけだ」
「最初から名が違うではないか」
「映画ではよくある」
俺は惣菜のローストビーフと、前にも飲んだチリ産のワインを並べた。
ゼウスは肉を一枚食べ、ワインの香りを嗅いだ。
「これは覚えている。牛に合う果実酒だ」
「よく覚えてるな」
「ヨシノヤ二つ分だった」
「そこを覚えるなよ」
「それで、修道女とは何だ?」
「神に仕えて、修道院で共同生活をする女性」
「異国の神へ仕える女たちの家か」
「だいたいそう」
ゼウスはグラスを持った。
「どのような祭祀か見よう」
俺は映画を再生した。
*
派手な衣装を着たデロリスが、クラブの舞台で歌っている。
強い声で客席を引きつけ、身体を動かす。
ゼウスが頷いた。
「よく声が出ている。祭でも使えるぞ」
「すぐ雇おうとするな」
やがてデロリスは、愛人であるヴィンスが部下を殺す場面を目撃した。
その場から逃げ、警察へ駆け込む。
「男の罪を見たため、命を狙われたか」
「裁判の証人だからな」
「ならば男を雷で焼けば終わる」
「警察の仕事を奪うな」
「早いぞ」
「証人保護制度を説明して五秒後に司法を消滅させようとするな」
警察はデロリスを守るため、追っ手が捜しに来ない場所へ隠すことにした。
選ばれたのは、サンフランシスコにある修道院だった。
「神の家へ庇護を求めるか」
「本人は嫌がってるけどな」
「望んだかどうかは関係ない。神の家へ入った者を外から引きずり出せば、その神への侮辱となる」
「犯罪組織にも通じる?」
「通じぬなら、神罰で教える」
「結局雷じゃねえか」
*
デロリスは修道服を着せられ、シスター・メアリー・クラレンスという名を与えられた。
決まった時間の祈り。質素な食事。早寝早起き。自由な外出もできない。
ゼウスが少し笑った。
「ディオニュソスの祭から、ヘスティアの炉端へ放り込まれたようなものだ」
「急に分かりにくくするな」
「騒ぎの女を、静かな家へ入れた」
「最初からそう言えよ」
規則に耐えられなくなったデロリスは、二人の修道女を連れて夜の酒場へ抜け出した。
院長に見つかり、罰として聖歌隊へ入れられる。
ゼウスが眉を上げた。
「歌った罰が歌なのか」
「得意な仕事を押しつけられたな」
「罰を与える者が、相手を知らなすぎる」
*
聖歌隊の歌が始まった。
声が揃わない。音程も外れる。大きな声が隣の声を消している。
ゼウスがローストビーフを置いた。
「この歌はいらぬ」
「厳しいな」
「神へ届く前に、互いの声を見失っている」
「歌い終わるまでは待ってやれよ」
デロリスは聖歌隊の指導を任される。
一人ずつ声を聞き、高い声と低い声に分けた。
立つ位置を変え、周囲の声を聞かせる。
「強い者を前へ出さぬのか」
「合唱は一人だけ目立っても駄目なんだよ」
「戦の隊列とは違うな。強い兵を前へ置けば、後ろがついてくる」
「歌で敵を押し返すな」
「では、なぜ並ぶ?」
「声を重ねるため」
修道女たちは互いの声を聞き始めた。
ばらばらだった音が、一つの歌になる。
ゼウスがグラスを止める。
「……なるほど。弱い声を消さず、強い声だけにも任せぬのか」
「全員で歌うからな」
内気なシスター・メアリー・ロバートは、声を前へ出せずにいた。
デロリスに促され、もう一度息を吸う。
次の瞬間、細い身体から強い声が響いた。
ゼウスが目を見開く。
「この女に、これほどの声が隠れていたのか」
「本人も隠してたつもりはないだろ」
「では、出し方を知らなかったのだな」
*
日曜の礼拝。
聖歌隊は伝統的な聖歌を歌い始めた。
以前とは違う。声が揃い、教会の天井までまっすぐ届く。
ゼウスが頷く。
「今度はよい」
曲の途中で、デロリスが合図を出した。
伴奏が変わる。
修道女たちの身体が動き、静かな聖歌がゴスペル調の力強い歌へ変わった。
ゼウスが身を乗り出す。
「祭の途中で歌を変えたぞ」
「ここからが本番」
手拍子が加わる。
声が教会を満たし、外を歩いていた人々も足を止めた。
「最初からこちらを歌えばよい」
「前半があるから驚くんだよ」
「神への歌で、人間を驚かせるのか」
「人間も聞くからな」
歌い終わると、教会は歓声に包まれた。
院長だけは怒っている。
「長が怒るのは当然だ」
「院長側なのか?」
「許可なく祭祀を変えたのだぞ。歌が良ければ、秩序を破ってよいことにはならぬ」
「でも人は喜んでる」
「うむ。客が来たという結果も無視できぬ」
「どっちの味方なんだよ」
「両方を見て決めるのが王だ」
「便利な立場だな」
「神々の王だからな」
「お前トロイアでもそのムーブしただろ」
*
聖歌隊の評判は街へ広がった。
空いていた席が埋まり、修道院の外にも人が集まる。
修道女たちは荒れた周囲を掃除し、住民や子供たちを迎え入れた。
「神殿は神の家だ」
ゼウスが言った。
「だが祭には人が要る」
「寂しいのか」
「供物を運ぶ者が要る」
「結局そこか」
「歌でも祭でも食事でも、人は集まる。まず牛を振る舞え」
「修道院の予算が終わる」
「この皿もよいぞ」
「ローストビーフ一皿で何人呼ぶ気だ」
修道女たちは笑いながら歌っている。
以前は声を隠していた者も前へ出る。
大きな声を出す者は、隣の声を聞いている。
「オルフェウスという詩人がいた」
「誰?」
「歌で獣を従わせ、木々や岩まで動かした男だ」
「本当に岩が動いたのか」
「詩人がそう歌った」
「詩人に甘いな」
ゼウスは画面のデロリスを指した。
「この女も人を動かした。岩より難しいかもしれぬ」
「岩は文句を言わないからな」
教会は手拍子と歌声に包まれていた。
ゼウスが首を傾げる。
「これほど歌っても、神は姿を見せぬのか」
「見せない」
「慎み深い神だな」
「お前が出たがりなんだよ。呼んでなくても来るタイプだろ」
*
警察内部から、デロリスの居場所がヴィンスへ漏れた。
警察は彼女を修道院から移そうとする。
だが、ヴィンスの部下が先に現れ、デロリスとメアリー・ロバートを連れ去った。
途中で逃がされたメアリー・ロバートが、一人で修道院へ戻ってくる。
大きな声で仲間へ事情を伝えた。
ゼウスが頷く。
「歌だけではない。言葉まで前へ出るようになったな」
「最初はほとんど喋れなかったのにな」
「この女は声が出るだけではなく、その声が仲間に届く事を知ったのだな」
院長は、デロリスが修道女ではなく、殺人事件の証人だったことを皆へ明かした。
それでも修道女たちは、彼女を助けに向かう。
「武器も持たず、仲間を奪い返しに行くか」
「戦いには行ってないぞ」
「敵地へ踏み込むなら戦だ」
「修道女だぞ」
「だから何だ。仲間を残して逃げぬ者は戦士だ」
院長も先頭に立った。
ゼウスが少し笑う。
「長も出たな」
「デロリスとはずっと対立してたけどな」
「家の者が外から害される時、内輪の争いは後だ」
「お前の家族もそうなら平和なのにな」
「我が家は少し人数が多い」
「問題の数もな」
*
カジノへ連れ戻されたデロリスを、修道女たちが捜し回る。
ヴィンスの部下は、修道服を着たデロリスへ銃を向けた。
だが引き金を引けない。
「悪党にも、越えてはならぬ境が残っていたか」
ゼウスの声が低くなった。
「神へ仕える衣を血で汚せば、その神を敵に回す」
「デロリスは本物の修道女じゃないけどな」
「敵はそう信じている。ならば恐れも本物だ」
修道女たちが追いつく。
誰が本物のデロリスか分からないよう、全員が自分こそシスター・メアリー・クラレンスだと名乗った。
デロリスは仲間を逃がすため、自分が本物だと前へ出る。
ゼウスが画面を見つめる。
「庇護された者が、今度は庇った者を守るか」
「一緒にいるうちに仲間になったんだよ」
ヴィンスは部下から銃を奪い、自分でデロリスを撃とうとした。
ゼウスの指がわずかに上がる。
「こいつは境を越えた」
「落とすなよ。雷」
警察が駆け込み、銃弾より先にヴィンスを撃った。
犯罪組織の者たちは、その場で逮捕された。
ゼウスは指を下ろす。
「遅い」
「間に合ったんだからいいだろ」
「私なら、あの男が銃を上げる前だ」
「映画が早く終わりすぎる」
*
デロリスは修道院へ戻った。
最後の公演が始まる。
以前は空席ばかりだった教会が、今は人で埋まっている。
その中央には、白い衣をまとった老人が座っていた。
ゼウスが目を細める。
「あれは大祭司か」
「ローマ教皇」
「この者たちの長か」
「かなり上の人だ」
「歌で大祭司まで呼び寄せたのだな」
「聖歌隊の評判を聞いて来た」
デロリスが指揮を始める。
静かな歌声が重なり、やがて力強いリズムへ変わった。
メアリー・ロバートの声も前へ出る。
院長も笑っている。
教皇が手拍子を始め、教会全体が一つの合唱に包まれた。
ゼウスは歌が終わるまで何も言わなかった。
やがて拍手が響く。
「この女を、我が祭の合唱長にする」
「本人は修道女ですらないぞ」
「なおよい。役目を得てから神官になる者もいる」
「勝手に勧誘するな」
「聖歌隊も連れていく」
「本人の同意なし。勤務地は異教の祭。最低の人事だ」
「歌える。踊れる。敵地に入れる。私の神殿に相応しい」
「最後にさらっと物騒なの混ぜんな」
*
映画が終わった。
俺は照明をつけ、空になった皿を重ねた。
ゼウスは残ったワインを飲み干す。
「よい歌だった」
「好きか」
「非常に好ましかった」
「珍しく素直だな」
「歌と牛は素直に褒める」
「その二つを並べるな」
ゼウスは立ち上がり、皿を見た。
「次に見る時は、あの女たちの分も肉を用意しろ」
「何人いると思ってんだ」
「牛一頭で足りる」
「修道院をバーベキュー会場にする気か」
「歌だけ捧げさせ、肉を出さぬ方が失礼であろう」
「異国の宗教へ勝手にルールを足すな」
ゼウスは納得しないまま消えた。
神話メモ
◾️オルフェウス
並外れた歌声と竪琴の技を持つ詩人、音楽家。その演奏を聞けば野生の獣はおとなしくなり、木々や岩までも動いたと伝えられる。亡くなった妻エウリュディケを取り戻すため冥界へ下り、その歌によってハデスとペルセポネの心を動かしたことでも知られる。
◾️ディオニュソス
葡萄酒、陶酔、演劇、豊穣などを司る神。ゼウスと人間の女性セメレの子とされる。ディオニュソスの祭礼では酒、音楽、舞踊、仮面などが重要な役割を担った。古代ギリシャ演劇も、ディオニュソスへ捧げられた祭礼から発展したとされる。
◾️神々への歌
古代ギリシャでは、神々をたたえる歌が祭礼や供犠に伴って歌われた。パイアンは特にアポロンと結びつく讃歌、ディテュランボスはディオニュソスへ捧げられる合唱歌として知られる。歌は神を称賛すると同時に、神の物語を伝え、祭へ参加する共同体の結束を強める役割も持った。
◾️嘆願者と聖域
古代ギリシャでは、祭壇や聖域へ逃れ、神や共同体に保護を求める嘆願が行われた。嘆願者は祭壇に触れたり、特別な姿勢を取ったりして庇護を求めた。聖域から無理に引き離す行為や、保護を求める者を殺害する行為は、宗教的な穢れや神罰を招く重大な冒涜と見なされることがあった。
◾️神殿と祭礼
古代ギリシャの神殿は、主に神像や奉納品を納める神の住居であり、現在の教会のように多数の信者が建物内へ集まることを主目的とした施設ではなかった。供犠や祭礼は神殿前の祭壇や周囲の聖域で行われ、行列、音楽、舞踊、競技、共同の食事などを通じて人々が同じ神と物語を共有した。




