第13話 ロッキー
映画紹介
公開年:1976年
監督:ジョン・G・アヴィルドセン
主演:シルヴェスター・スタローン
フィラデルフィアで暮らす無名のボクサー、ロッキー・バルボア。
小さな会場でわずかな報酬のために戦い、借金の取り立てをしながら日々を過ごしていた彼のもとへ、世界ヘビー級王者アポロ・クリードとのタイトルマッチという、思いもよらない機会が舞い込む。
自分がロクデナシではないと証明するため、人生で初めて与えられた大舞台へ向かって走り始める。
今日はカルビ丼を買ってきた。
冷蔵庫にはプリンも冷やしてある。
チャイムは鳴らない。
気がつくと、部屋にゼウスが立っていた。
「来てたのか」
「今来た」
それだけ言って、当然のようにソファへ座る。
「今日は肉か」
「牛肉は好きだろ」
丼を二つ運ぶ。
ゼウスは一口食べ、ゆっくりとうなずいた。
「悪くない」
「今日はボクシング映画」
「ピュグメーか」
「ピュグメー?」
「拳闘だ」
「ああ、それ。ルールはかなり違うと思うぞ」
「拳で殴り合うのであろう」
「まあ」
「ならば同じだ」
「雑だな」
「最後に立っていた者が勝つ」
「今のボクシングは判定もある」
ゼウスの眉が寄った。
「拳を数えるのか」
「当てた数とか、試合の支配とか、いろいろ見る」
「拳闘に書記を入れるな」
「競技だから必要なんだよ」
食べ終えたころには、映画を流す準備も終わっていた。
照明を落とす。
タイトルが現れる。
画面に男が映る。
ゼウスが目を細めた。
「あの戦士ではないか」
「ランボーじゃないぞ」
「同じ顔だ」
「同じ俳優。今日は別人を演じてる」
「人間は一つの顔で、いくつもの人生を生きるのか」
「俳優だからな」
「ヘルメスのようだ」
「変装の神だっけ」
「盗みもする」
「俳優に余計な属性を足すな」
*
薄暗い会場。
客は少ない。
ロッキーは小さなリングで、名も知られていない相手と殴り合っている。
華やかさはない。
歓声より野次の方が大きい。
ゼウスが腕を組む。
「英雄の登場には見えぬな」
「英雄じゃないからな。まだ」
ロッキーは鮮やかに勝つわけではない。
殴られ、反則を受け、怒りに任せて相手を倒す。
試合後に渡された報酬もわずかだった。
「勝ったのに、あれだけか」
「小さな試合だから」
「神殿の祭なら、少なくとも牛一頭は出る」
「お前の報酬基準、全部牛だな」
ロッキーは一人で家へ帰る。
狭い部屋。
二匹の亀。
壁の写真。
英雄らしいものは何もない。
「神の血もなさそうだ」
「神の血が入った人間なんていないからな。お前がやらかさない限り」
「お前は本当に無礼だな」
「否定しないんだな」
ゼウスは画面から目を動かさなかった。
*
ロッキーは借金の取り立てをして日銭を稼いでいる。
金を返せない男へ暴力を振るうよう命じられるが、最後までやり切ることができない。
「取り立て人にも向いておらぬ」
「ボクサーとしても売れてない」
「何に向いているのだ」
「今のところ、亀の世話かな」
ゼウスは少し考えた。
「亀を守る英雄か。規模が小さい」
「神話に亀を守る英雄なんている?」
「ヘルメスは亀を殺して竪琴を作った」
「守ってねえじゃん」
*
ペットショップ。
ロッキーは店員のエイドリアンへ話しかける。
エイドリアンは俯き、ほとんど目を合わせない。
声も小さい。
ロッキーも気の利いたことは言えない。
二人の会話は途切れてばかりいる。
ゼウスが言った。
「冴えぬ女だな」
「お前、遠慮ないな」
「男も冴えぬ」
「それがいんだよ」
「冴えぬ男が、冴えぬ女へ冴えぬ話をしている」
「最悪の紹介だな」
「だが、男は楽しそうだ」
ロッキーは小さな冗談を言う。
エイドリアンは、わずかに笑う。
ゼウスが眉を上げた。
「今、笑ったな」
「笑った」
「この男には、それが大事なのかもしれぬな」
*
世界ヘビー級王者、アポロ・クリード。
華やかな服。
自信に満ちた笑み。
大勢の前で堂々と話し、試合そのものを巨大な祭へ変えていく。
ゼウスが名前に反応した。
「アポロ?」
「アポロ・クリード」
「アポロンの名を借りたか」
ゼウスは王者をじっと見る。
「尊大で、華やかで、自分が皆に見られていると疑っておらぬ」
「アポロンもあんな感じ?」
「あれより面倒だ」
「もっと?」
「歌う。弓を射る。予言をする。疫病を起こす。そして、どれも自分が最も優れていると思っている」
「盛りすぎだろ」
「事実だ」
画面のアポロは、興行の計画を進めている。
アメリカ建国二百年を祝う、巨大な催し。
試合だけではない。
音楽も衣装も宣伝も、すべて自分を中心に組み立てる。
ゼウスが満足そうにうなずいた。
「王は、自らが王であると民へ示さねばならぬ」
「ゼウスはああいう入場したいのか」
「鷲に乗る」
「会場に入らないだろ」
「天井を開ければよい」
「興行主が泣くぞ」
*
予定されていた挑戦者が負傷し、試合へ出られなくなる。
代わりの有力選手も都合がつかない。
アポロは資料を眺め、地元の無名選手へ機会を与えるという案を思いつく。
フィラデルフィアの男。
誰も知らないボクサー。
その中から、ロッキーの名前を見つける。
異名は「イタリアの種馬」。
ゼウスが身を乗り出した。
「よい名ではないか」
「食いつくと思った」
「馬は王の乗り物だ」
「種馬だぞ」
「なおよい」
「何がだよ」
「良い馬の証だ。力強く、子孫を多く残す」
「お前が言うと最低なんだよ」
ゼウスは気にせず続けた。
「ポセイドンも気に入るであろう」
「なんでポセイドン」
「馬を生み出した神だ」
「関係ない異名を神話へつなげるな」
「神々の名は、どこにでも残っている」
「種馬にまで神話を見つけるな」
アポロは、異名だけを気に入り、ロッキーを挑戦者に選ぶ。
「王の気まぐれだな」
「宣伝のためだけどな」
「気まぐれであろうと、王が指を差せば運命が動く」
「格好よく言ってるけど、名前が面白かっただけだぞ」
「神託も時には、その程度の理由で下りる」
「嫌すぎるだろ」
*
ロッキーへ世界王者との試合の話が舞い込む。
当然、冗談だと思う。
自分が王者と戦えるはずがない。
だが、契約は本物だった。
「選ばれたな」
ゼウスが言う。
「実力で選ばれたわけじゃないけどな」
「神託を受ける者も、皆が優れているとは限らぬ」
「何で選ばれるの?」
「神の目に留まった」
「今回は変な名前が目に留まった」
「同じだ」
「だいぶ違う」
ロッキーは震える手で契約書へ署名する。
ゼウスはその手元を見る。
「モイライの糸を、自分で掴んだ」
「また運命の糸か」
「署名とはそういうものであろう」
「急に契約書が神話的になったな」
*
ジム。
ロッキーのロッカーは、知らないうちに別の選手へ渡されている。
怒るロッキーに対し、ジムの主ミッキーは、これまで才能を無駄にしてきたのは自分だと言い返す。
ゼウスは老人を見た。
「この老人は、以前から見ていたのだな」
「見てたけど、見放してた」
「若者が自ら腐るのを眺めていたか」
「言い方は悪いけど、そうだな」
「ケイロンなら棒で追い回している」
「誰?」
「英雄を育てた賢者だ。アキレウスも、アスクレピオスも、ヘラクレスも教えた」
「教え子が濃すぎるな」
「馬の下半身で逃げ道を塞ぐ」
「ミッキーには無理だよ」
「ゆえに遅れた」
後日、ミッキーはロッキーの部屋を訪ねる。
世界王者との試合へ向け、自分が指導すると申し出る。
ロッキーは怒りをぶつける。
なぜ今まで助けなかった。
なぜ機会が来た途端に現れた。
ミッキーは言い返せない。
ゼウスが小さく息を吐いた。
「遅すぎたな」
「そうだな」
「ケイロンなら幼い頃から鍛えた」
「だからミッキーはケイロンじゃないんだよ」
「人間の老賢者は、いつも間に合う寸前に来る」
「物語だからな」
「もっと早く来れば、物語が短くなる」
「分かってるじゃん」
*
ミッキーは部屋を出る。
階段を下り、帰っていく。
ロッキーは一人で怒り続ける。
だが、やがて扉を開け、老人を追う。
二人は通りで向き合う。
声は聞こえない。
やがて二人の手が重なる。
ゼウスがうなずいた。
「間に合った」
「ギリギリな」
「英雄には、鍛える者が必要だ」
*
早朝。
目覚まし時計が鳴る。
ロッキーは冷蔵庫を開ける。
グラスへ生卵を何個も割り入れ、そのまま一息に飲み干す。
ゼウスの動きが止まった。
「何をしている」
「生卵を飲んだ」
「見れば分かる」
「トレーニングらしいぞ」
「焼け」
「時間がないんだろ」
「焼く時間も待てぬ者が、戦えるのか」
「そこは別だ」
ゼウスは画面を見たまま顔をしかめる。
「レダには見せられんな」
「レダってお前の愛人だっけ」
「卵から子が生まれた」
「それ、お前が白鳥になって近づいた結果だろ」
「今は卵の話をしている」
「逃げるな」
ロッキーは口元を拭き、外へ走り出す。
「神話なら、あれだけの卵から英雄と美女が十二人は生まれる」
「生卵に神話的損失を見いだすな」
*
トレーニングが始まる。
ロードワーク。
縄跳び。
腹筋。
サンドバッグ。
ロッキーは息が続かない。
階段を上り切ることもできない。
ゼウスは腕を組んだ。
「走れぬな」
「今から鍛えるんだよ」
「ヘルメスなら、もう町を一周している」
「神と比べるな」
「アタランテでも終わっている」
「誰だそれは。とにかく神話と比べるな」
「では、亀と比べるか」
「さすがに勝つだろ」
「亀は最後まで歩くぞ」
「妙にロッキーと相性がいいな」
*
食肉工場。
吊り下げられた牛肉を、ロッキーが拳で殴る。
ゼウスが目を見開いた。
「やめろ!」
「何だよ」
「供物を殴るな!」
「供物じゃない。商品だ」
「牛を吊り下げ、拳を打ち込み、血を散らしている。新しい祭儀か」
「違う」
「アレースへ捧げるのか」
「違う。トレーニングだよ」
「捧げるなら私にするべきだ」
「何でだよ」
「牛だからだ」
「殴られた肉が欲しいのか」
ゼウスは少し考えた。
「焼けば食える」
「結局食うのかよ」
*
ロッキーとエイドリアンは、閉館したスケート場で二人きりになる。
エイドリアンは壁際をゆっくり滑る。
ロッキーは氷の外を歩きながら話しかける。
会話は相変わらず不器用だった。
ゼウスが言った。
「やはり冴えぬ女だな」
「まだ言うか」
「男も冴えぬ」
「それもまだ言うのか」
「だが、冴えぬ者同士なら、互いを恥じずに済む」
「急にちょっと良いこと言うな」
「私は神々の王だぞ」
「今まで牛肉を供物扱いしてたけどな」
二人は少しずつ言葉を交わす。
エイドリアンはロッキーの話を聞く。
ロッキーも、彼女が話し終えるまで待つ。
「この男は、女を口説くのが下手だな」
「お前よりましだろ」
「私は姿を変える」
「それを卑怯って言うんだよ」
「結果は出る」
「最低だな」
*
ロッキーの部屋。
エイドリアンは緊張し、帰ろうとする。
ロッキーは無理に引き留めず、彼女との距離を少しずつ縮める。
エイドリアンも、初めて自分からロッキーへ向き合う。
「アフロディテを呼べば話が早い」
「呼ぶな」
「エロースなら一射だ」
「絶対呼ぶな」
「人間は不便だな」
「その不便な過程を見るのが映画なんだよ」
*
ポーリーが現れる。
酒。
怒声。
苛立ち。
妹への乱暴な言葉。
ロッキーは彼をなだめる。
ゼウスが眉をひそめた。
「この男は嫌いだ」
「珍しく意見が合ったな」
「ディオニュソスも酒を飲むが、もう少し楽しそうに荒れる」
「楽しく荒れても迷惑だよ」
「この男は酒を飲み、自分の不幸を他人へ投げている」
「そこは普通に真面目な感想なんだな」
「実に見苦しい。山羊に変えてしまうか」
「急に神の解決法を出すな」
「一晩山羊になれば、少しは静かになる」
「戻したあと、もっと荒れるだろ」
ロッキーはポーリーを見捨てない。
エイドリアンも、兄から完全には離れられない。
ゼウスは納得していない顔をする。
「なぜ付き合う」
「友達で、家族だから」
「神々なら、とっくに崖から落としている」
「お前らの家族関係を基準にするな」
*
トレーニングは続く。
ロッキーは少しずつ走れるようになる。
息が続く。
拳が速くなる。
足が前へ出る。
早朝の道で、店の者が声をかける。
子供たちが後ろを走る。
通りに立つ人々がロッキーを見つけ、手を振る。
初めは誰も気に留めなかった男を、街全体が知り始めている。
ゼウスが身体を起こした。
「民がついたな」
「うん」
「王者に選ばれたからではない」
ロッキーは街を走る。
人々の声が重なる。
「毎朝走り、鍛錬する姿を見せ続けたからだ」
「フィラデルフィアの代表になったんだよ」
「都市が英雄を選んだか」
「アポロが挑戦者に選んで、街が自分たちの英雄として認めた」
ゼウスは満足そうにうなずいた。
「これでロッキーは一人ではない」
「さっきまで亀と比べてたのに」
「亀もフィラデルフィアの一員だ」
「そこに入れるな」
ロッキーの後ろを、子供たちが追いかける。
「古い英雄も同じだ」
ゼウスが言う。
「名を呼ぶ民がいて、初めて英雄になる」
「本人が強いだけじゃ駄目?」
「誰にも語られぬ英雄は、腕の立つ変人だ」
「神話の英雄も人気商売なんだな」
「当然だ。詩人が歌わねば消える」
*
ロッキーは再び、美術館前の長い階段へ向かう。
以前は途中で力尽きた。
今度は止まらない。
一段。
また一段。
頂上へ駆け上がる。
両手を上げる。
眼下にはフィラデルフィアの街が広がっている。
ゼウスも小さく拳を上げた。
「何してんの」
「民へ応えている」
「誰もお前を応援してないぞ」
「神々の王が英雄を承認した」
「勝手に加わるな」
*
試合前夜。
誰もいない会場。
巨大なアポロの肖像。
明るいリング。
ロッキーは一人で会場を訪れる。
華やかな舞台の大きさを前にして、自分が王者へ勝てないことを認める。
家へ戻ったロッキーは、エイドリアンへ本音を話す。
勝つことではない。
最後まで立ち続けたい。
誰も成し遂げていないことをやり遂げ、自分が役立たずではないと証明したい。
エイドリアンは黙って聞いている。
否定しない。
無理に励まさない。
ただ、ロッキーの言葉を受け止める。
ゼウスが目を細めた。
「訂正する。この女は、冴えぬ女ではないな」
「急に評価を変えたな」
「男の恐れを消そうとしない」
「うん」
「恐れたまま戦場へ送り出す」
「それがいいのか」
「良き女だ。恐れを奪えば、男は無謀になる」
ゼウスはエイドリアンを見ていた。
「この女は、男を英雄に変える女だ」
「アフロディテみたいな?」
「違う」
「違うのか」
「アフロディテは男を狂わせる」
「お前、結構ひどいこと言うな」
「この女は、男を自分の足で立たせる」
「じゃあ、どの女神に近い?」
ゼウスは考えた。
「該当せぬ」
「ギリシャ神話、そういう女性少ないの?」
「英雄を戦場へ送り出す女は多い」
「うん」
「帰ってくる場所になる女は少ない」
「ちょっと神話側に問題があるな」
「それは否定せぬ」
*
試合の日。
会場は熱狂している。
アポロは、歴史上の英雄と国家の象徴を一度にまとったような派手な衣装で現れる。
踊り、観客を煽り、自分がこの場の中心だと示す。
ゼウスが身を乗り出した。
「よい!」
「気に入ったな」
「王者が自ら祭神と司祭と見世物を兼ねている」
「それ、褒めてる?」
「ディオニュソスの祭でも、ここまではせぬ」
「じゃあ、やりすぎじゃん」
「王者には、この程度がよい」
「お前もやりたいだけだろ」
「鷲は用意できる」
「天井は開けないからな」
一方のロッキーは、派手な演出もなくリングへ入る。
街の男。
無名の挑戦者。
だが今は、フィラデルフィアの人々が彼の名を呼んでいる。
ゼウスが言った。
「王者は国を背負っている」
「ロッキーは?」
「自分が走った街を背負っている」
「どっちが強い?」
「背負ったものは、拳の強さにはならぬ」
少し間を置く。
「倒れた時、立つ理由になる」
*
ゴングが鳴る。
アポロは余裕を見せ、ロッキーを軽く扱う。
その隙を突き、ロッキーの拳が王者を捉える。
アポロが倒れる。
第一ラウンド。
会場の空気が変わった。
ゼウスが立ち上がる。
「王を倒した!」
「まだ一回倒しただけだ」
「王者が地へ膝をついたぞ!」
「興奮しすぎだ」
「アポロンが倒れた!」
「アポロだ。神じゃない」
「同じ名だ!」
「名前についてはさっき説明しただろ」
アポロはすぐに立ち上がる。
表情から余裕が消えている。
ゼウスも座り直した。
「祭は終わったな」
「ここからが試合だ」
*
試合は長く続く。
アポロの技術は、ロッキーを大きく上回っている。
速さも、正確さも、経験も違う。
それでもロッキーは倒れない。
何度も拳を受け、顔が腫れ、視界が塞がっていく。
リングの上には、最初の華やかさなど残っていない。
ゼウスも、もう冗談を言わなかった。
*
終盤。
ロッキーの片目は腫れ上がり、ほとんど見えなくなっている。
コーナーへ戻った彼は、試合を続けるため、瞼を切って視界を開くよう求める。
ゼウスの顔が引きつった。
「何をする気だ」
「瞼を切る」
「治すのではないのか」
「見えるようにする」
「切って?」
「切って」
処置が始まる。
ゼウスが自分の目元を押さえた。
「人間は正気か」
「ロッキーが頼んだ」
「アレースでも一度考えるぞ」
「本当に?」
「いや、あいつは頼むな」
「じゃあ同類じゃん」
「だがアレースは泣き叫ぶ」
「ロッキーも叫んでるよ」
切られた瞼から血が流れる。
それでも視界は戻る。
ロッキーは再び立ち上がる。
ゼウスは呆れたように首を振った。
「目を切ってまで前へ出る者を、誰が止められる」
「ミッキー?」
「切った男だぞ」
*
第十五ラウンド。
二人とも限界を越えている。
アポロは王者として立ち続ける。
ロッキーは、最後まで倒れないという自分との約束を守ろうとする。
最後のゴングが鳴る。
試合は判定へ持ち込まれる。
勝者はアポロ。
だが、ロッキーは結果を聞いていない。
人の波の中で、ただエイドリアンを探している。
映画の中の言葉は歓声に消える。
ロッキーは彼女の名を呼び続ける。
エイドリアンも人をかき分け、リングへ向かう。
ゼウスが静かに言った。
「勝者の名を聞かぬのか」
「最初から勝つことが目的じゃなかったからな」
「ならば、何を得た」
「最後まで立った」
「それだけか」
「エイドリアンも来た」
二人はようやく出会う。
傷だらけの男と、眼鏡を外した女。
周囲では判定結果が読み上げられている。
二人は聞いていない。
ゼウスはしばらく黙っていた。
「王座を得ず、女の名だけを求めたか」
「不満?」
「いや」
ゼウスはゆっくりとうなずいた。
「だから、この男は王にならず英雄になった」
「お前、王より英雄の方が好きなんじゃないか」
「王は私一人で足りる」
「はいはい」
*
エンドロールが流れる。
部屋に明かりは戻らない。
しばらく沈黙が続いた。
ゼウスが先に口を開く。
「私は最初、見誤った」
「弱い男だと思った?」
「冴えぬ男だと思った」
「それは合ってる」
「最後まで冴えなかったな」
「そこも否定できない」
「話し方も、服も冴えぬ。顔も腫れた」
「顔は試合のせいだよ」
「だが、英雄であった」
「どういう基準だ」
ゼウスは黒い画面を見る。
「ヘクトールに似ている」
「トロイアの英雄だっけ」
「アキレウスに勝てぬと知りながら、城門の外へ出た男だ」
「ロッキーは死んでないけどな」
「そこはロッキーの方が賢い」
「ヘクトールに勝ったみたいに言うな」
「瞼を切る男を賢いと呼んでよいかは迷うが」
「そこは同意する」
*
照明をつける。
ゼウスは立ち上がらない。
テーブルの上のプリンを見る。
「これは何だ」
「プリン。卵で作った菓子みたいなもの」
ゼウスの手が止まる。
「また卵か」
「こっちは加熱してある」
「ならばよい」
スプーンで一口すくう。
少しだけ驚いた顔をする。
「悪くない」
「生卵よりいいだろ」
「比べるな。あれは食事ではない」
「ロッキーに言えよ」
ゼウスはもう一口食べる。
「試合の前に、こちらを六つ食えばよかったのではないか」
「試合前にか?吐くぞ」
「生よりはよい」
「そういう問題じゃない」
食べ終えると、ゼウスはゆっくり立ち上がる。
「よいもてなしであった」
「それはどうも」
ゼウスは玄関へ向かう。
「次に拳闘を見る時は、牛肉を用意しろ」
「殴る用?」
ゼウスが振り返った。
「食う用に決まっておろう」
「一応確認しただけだよ。一応カルビ丼は買ってきただろ」
「供物を殴るな」
「だから供物じゃないって」
ゼウスは納得していない顔のまま消えた。
神話メモ
ピュグメー
古代ギリシャの拳闘。
古代オリンピックでは紀元前688年から正式競技として行われたとされる。選手は拳や手首へ革紐を巻いて戦った。
現代のボクシングのような体重別の階級やラウンド制はなく、一方が戦闘を続けられなくなるか、敗北を認めるまで試合が続けられた。
アポロン
ゼウスとレトの子で、アルテミスの双子の兄弟。
弓術、音楽、詩、予言、医術、疫病など、多くの領域を司る神。美しく気高い青年神として表され、秩序や調和とも結びつけられる。
デルポイの神託所は、アポロンを祀る最も重要な聖地の一つだった。
ポセイドンと馬
ポセイドンは海と地震を司る神であると同時に、馬とも深く結びついている。
神話では最初の馬を作った神とされることがあり、競馬や馬術の守護神としても崇拝された。馬を表すヒッピオスという異名でも呼ばれた。
ケイロン
半人半馬のケンタウロス族の賢者。
多くのケンタウロスが粗暴な存在として描かれる一方、ケイロンは医術、音楽、狩猟、武術などに通じた優れた教師とされた。
アキレウス、アスクレピオス、イアソンなど、数多くの英雄を育てたと伝えられる。
レダ
スパルタ王テュンダレオスの妻。
白鳥の姿となったゼウスと交わり、その後に卵を産んだとされる。卵からヘレネ、クリュタイムネストラ、カストル、ポリュデウケスが生まれたとする伝承があるが、誰がゼウスの子で、誰がテュンダレオスの子かは物語によって異なる。
ヘクトール
トロイア王プリアモスと王妃ヘカベの子で、トロイア側を代表する英雄。
トロイア戦争では総大将として軍を率い、家族と都市を守るために戦った。
ギリシャ側最大の英雄アキレウスとの力の差を知りながら、最後には城壁の外で彼と対決し、命を落とした。
英雄と都市
古代ギリシャでは、英雄は死後に特定の都市や地域を守護する存在として祀られることがあった。
英雄の墓や聖域を中心に祭礼や競技が行われ、その土地の人々が英雄の物語を共有した。ヘラクレスやテセウスのように、特定の都市や民族を代表する存在となった英雄も多い。




