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路地裏の便利屋は、世界を『10ミリ』調律する  作者: ルツ


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7/10

路地裏の休日は、10ミリの雨宿り

王都アルカディアの空は、時に気まぐれだ。

 朝から雲一つない快晴だと思っていたのに、昼過ぎには重たい鉛色の雲が立ち込め、夕方にはバケツをひっくり返したような豪雨が石畳を叩く。今日はまさにそんな日だった。

 『カンタの便利屋』の店先で、俺はいつものように椅子に沈み込み、半分夢の中を彷徨っていた。路地裏の静寂を切り裂くような激しい雨音。看板を叩く水滴が、まるで誰かが指先でリズムを刻んでいるように聞こえる。

 店の中では、ミロが真剣な面持ちでカウンターを拭いている。彼女の毛先は少し湿り気を帯びていて、獣人特有の耳が、雨の音に反応して時折ぴくりと動くのが愛らしい。エマは今日は屋敷の仕事が忙しいのか姿が見えないが、代わりに、最近「弟子入り」を志願して毎日のように押しかけてくる天才令嬢・リゼットが、不機嫌そうに俺の向かいで本を読んでいた。

「カンタ、本当にこの本は古代の魔導技術が書かれているの? 私が読んでも解読できない箇所ばかりよ」

「そりゃお前、魔法の知識だけで読もうとするからだ。これは『構造』の本なんだよ。文字の並びだけじゃなくて、ページの紙の厚みやインクの浸透率まで見てみろ」

 俺はリゼットから本を取り上げ、ページをパラパラと捲った。指先を10ミリだけ動かし、紙の繊維の隙間に隠された「真の回路図」を顕現させる。

 リゼットは目を丸くしてそれを見つめ、またしても俺を師匠と呼びたそうな視線を送ってくる。だが、俺はあくびを噛み殺し、窓の外の雨を見つめた。

「今日はもう店じまいだな。誰も来そうにない」

 そんな時だった。店の扉が勢いよく開き、駆け込んできたのはずぶ濡れになったマリアさんだった。彼女はパンの籠を抱え、ひどく狼狽えている。

「カンタさん! 大変なの、店の屋根が……!」

 聞けば、激しい雨のせいで屋根の老朽化した箇所が崩れ、パンに雨水がかかりそうになっているという。この路地裏の建物はどこも古く、雨漏りは日常茶飯事だ。だが、マリアさんの店はパン屋だ。水は大敵だ。

「よし、行こう」

 俺は立ち上がり、コートを羽織る。ミロが「俺も行きます!」と駆け寄り、リゼットも「私の魔法で……!」と杖を構えた。

 だが、リゼットの魔法はここでは大げさすぎる。俺は軽く手を振って制した。

「リゼット、お前の魔法は火力が強すぎる。屋根を飛ばす気か? 俺がやる」

 マリアさんのパン屋に駆け込むと、確かに屋根の端から無慈悲な勢いで雨水が滴り落ちていた。パンの陳列棚のすぐそばだ。

 俺は屋根の、もっとも雨漏りが酷い箇所を見上げた。

 周囲1メートル。視界良好。

 俺は雨の中で指先を動かした。屋根瓦の一つを10ミリだけ動かす。ただそれだけだ。

 瓦の角度がわずかに変わり、そこから滴り落ちていた雨水のルートが「外側」へと誘導される。さらに、瓦の隙間に詰まっていた小さな木の枝を10ミリ押し出し、水の通り道を完全に確保した。

 カチリ。

 屋根から垂れていた水滴が、嘘のようにピタリと止まる。

「……あら? 止まった?」

 マリアさんが驚きで目を丸くする。雨はまだ激しく降っている。だが、雨漏りは完全に止まっていた。屋根を修理したわけじゃない。雨水の「流れ」を、10ミリの差で矯正しただけだ。

「カンタさん、あなたって人は……一体何なのよ」

 リゼットが呆れたような、それでいて感服したような溜め息をつく。

 俺は冷たい雨に濡れた肩をすくめた。

「便利屋だよ。困りごとなら何でもね」

 その日の夕食は、マリアさんが焼いてくれた焼きたてのパンをご馳走になることになった。

 店に戻ると、雨は小降りになっていた。路地裏に立ち込める、雨上がりの土と草の匂い。

 リゼットはまだ本を熱心に読んでいるし、ミロはパンのあまりの美味さに目を細めてニッコリと笑っている。その笑顔を見るだけで、今日という一日の疲れが消えていくような気がする。

 エマが少し遅れて駆け込んできた。

「ごめんなさい! 雨で足止めを食らっちゃって!」

 彼女が手土産に持ってきたのは、王都の菓子店で人気のあったかいドーナツだった。

 狭い路地裏の店の中に、四人が集まる。

 貴族の令嬢、獣人の少女、使用人の少女、そして俺。本来なら交わるはずのない人間たちが、この狭い便利屋でパンと菓子を囲んでいる。

「カンタさん、このドーナツ、温かいうちに食べてくださいね」

 エマが笑う。リゼットが古代技術書を読み上げ、ミロが笑い声を上げる。

 俺は静かに椅子に座り、窓の外を眺める。

 雨上がりの空には、薄っすらと虹がかかっていた。

 この光景もまた、俺の10ミリの力で守られた、ささやかな奇跡かもしれない。

 俺はドーナツを一口かじり、ふうと息を吐いた。

「……悪くないな、こういうのも」

 呟きは雨音にかき消されたが、店の中の温かな空気は、消えることなく満ちていた。

 俺のギフトは「10ミリ動かす力」。万物を操る神業かもしれないなんて、そんなことはもうどうでもいい。ただ、目の前の大切な人たちが笑っている。その笑顔の距離が、ほんの少しでも近い場所にあるように、俺は指先一つで世界を整えていればいい。

 明日にはまた、新しい依頼が来るかもしれない。

 貴族の陰謀か、それとも誰かの悩み事か。

 どんなことがあっても、俺はここでパンを食い、昼寝をし、困っている誰かのために手を貸すだろう。

 王都アルカディア、下町の路地裏。

 そこにある便利屋探偵カンタの日常は、今日もどこまでも平和で、どこまでも優しい。

 そうして時間は、穏やかに、しかし確実に過ぎていく。

 明日の朝、カーテンを開けたとき、どんな世界が待っていようとも、俺はいつも通り、10ミリの隙間から世界を調整してやるさ。

 夜が深まり、リゼットたちが帰った後の店は、再び静けさを取り戻した。

 俺は椅子に深く腰を下ろしたまま、目を閉じる。

 窓の隙間から入り込む夜風が、少しだけ冷たかった。俺は指先を動かし、窓の鍵を10ミリだけずらして隙間を塞いだ。

 これでいい。

 明日の朝、また新しい光が、この路地裏に差し込む。

 便利屋探偵カンタの、最強で最高のスローライフは、まだまだ終わらない。

 俺は深く眠りに落ちた。

 その夢の中で、俺はたった10ミリだけ世界を動かし、王都中のすべてのパンが、もっと美味しくなるように魔法をかけていた。

 それはきっと、俺が見た夢の中で一番、平和で、一番最強の魔法だった。

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