路地裏の新しい家族と、ほんの少しの恋心
王都アルカディアの風に、ほんのりと花の香りが混じり始める季節。
『カンタの便利屋』の経営は、あの学園での一件以来、妙に順調だった。リゼットから紹介された貴族たちからの「ちょっとした調整依頼」が舞い込むようになり、店には少しばかりの蓄えができていた。
その日、俺は店先で、ミロの母さんから届いた手紙を読んでいた。
あの月光草の奇跡で完治した彼女は、今ではすっかり元気になり、近所の小さなアパートでミロと暮らしている。ミロは俺が払った給金で、そのアパートを借りたらしい。
「兄貴、読みましたか?」
「ああ。ずいぶん元気になったみたいだな」
ミロは俺の隣に座り、少し照れくさそうに笑った。その顔は、出会った頃の痩せこけた獣人の面影はなく、健やかな血色をしている。
「……あの、兄貴。実は母さんが、今日ここに挨拶に来たいって」
「挨拶? 別にわざわざいいのに」
「そう言わずに! ほら、もうすぐ着く頃ですよ」
ほどなくして、ミロの母さんがやってきた。温和で芯の強そうな女性だ。
母さんは俺を見ると、深々と頭を下げた。
「カンタ様、この度はミロを雇ってくださり、ありがとうございます。……あの子、カンタ様のことを毎日話すんです。『兄貴は世界で一番すごいんだ』って」
「はは、買い被りですよ。ミロはいい助手です」
俺が謙遜すると、母さんは意味深な笑みを浮かべ、ミロをちらりと見た。
ミロは「母さん!」と真っ赤になって制止しようとするが、母さんは構わず本題を切り出した。
「あの、実はご相談がございまして。私も体調が良くなりましたので、働ける場所を探しております。もしよろしければ……私とミロで、こちらの住み込みの家政婦として働かせてもらえないでしょうか?」
俺は目を瞬かせた。家政婦? 便利屋の裏には一部屋空いているが、それを住み込みで……?
迷っていると、母さんが耳打ちするように付け加えた。
「ミロは、カンタ様のそばにいるのが一番幸せそうなんです。……私の勘違いでなければ、あの子、カンタ様のことが……ねえ?」
ミロの耳がぴくりと跳ね、顔から湯気が出そうなほど赤くなる。
「……住み込みか。まぁ、店が華やかになるのは悪くないな。いいよ、頼む」
「本当ですか!? やったぁ!」
ミロが弾けんばかりの笑顔で跳ねた。俺はその姿を見て、悪くない気分だった。
そんな賑やかな午後、いつものようにエマがやってきた。
彼女は新しい家政婦の二人がいることに驚いたが、すぐに「良かったですね、カンタさん!」と優しく微笑んだ。
「エマ、お前も座れよ。マリアさんが焼いたパンがある」
四人で小さなテーブルを囲む。エマは俺の隣の席に座り、いつもより少し距離が近い。
彼女は、貴族の屋敷での失敗談や、最近気になっている街の流行を俺に教えてくれる。その時のエマの瞳は、まるで宝石を覗き込むように真剣だ。
「カンタさんって、いつも不思議な力でみんなを助けてくれますよね。……私、カンタさんのそういうところ、大好きですよ」
エマがさらりと言った言葉に、今度はミロが固まる番だった。
俺は苦笑いしながら、空中に浮いた埃を10ミリだけ動かして窓の外へ追いやる。
「みんなを助けているんじゃないさ。ただ、居心地のいい場所にしたいだけだ」
「ふふ、そういうところも、素敵です」
エマは俺の腕に軽く触れ、満足そうに茶を啜る。
隣ではミロが必死にパンを齧り、母さんがそれを微笑ましく見守っている。
この路地裏には、魔法のような大事件なんて起きない。けれど、誰かを想い、誰かと笑い、温かい食事を分かち合う。
俺の手は、今も世界を10ミリ動かせる。
だが、今の俺は、この路地裏で交わされる会話の調子を、少しだけ心地よく整えることしかしていない。
「……兄貴、今日はお代わりしてもいいですか?」
「ああ、好きなだけ食え、ミロ」
日が落ち始め、王都の街並みがオレンジ色に染まっていく。
俺の1メートルの範囲内には、今、何よりも大切な日常がある。
この距離を、この温もりを、一生守り続けていけたらいい。
そう思っていると、エマが俺の肩にそっと頭を預けてきた。
俺は何も言わず、指先をわずかに動かして、窓の隙間から入ってくる夕暮れの冷気を遮断した。エマが風邪を引かないように。
便利屋探偵カンタの日常は、今日もまた、ほんのり甘く、それでいて確かに温かい。
明日はどんな平和な一日が待っているのだろう。そんなことを考えていると、エマの寝息が聞こえてきた。
俺は静かに笑い、そのまま夕闇に溶けていった。




