10ミリの正義、スラム街の結末
スラム街の空気は重かった。貴族街のような洗練された香りとは無縁の、泥と汗と、そしてかすかな「死」の臭いが混じり合う場所。エマは恐怖に震えながら、俺の後ろをぴったりとついてくる。
俺は聞き込みを開始した。路地裏でたむろしている浮浪者に、銀貨を一枚弾いて見せる。
「おい、この辺りで貴族の紋章が入った袋を抱えたやつを見なかったか?」
浮浪者は貪欲な目で銀貨をひったくると、鼻をすするような嫌な笑みを浮かべた。
「ああ、見たぜ。小汚い獣人のガキが、何か大事そうに抱えて走り抜けていったのを見たな。あいつなら、奥の廃屋に隠れているはずだ」
俺はエマに視線を向けた。彼女は力なく頷く。
奥の廃屋。そこはかつて倉庫として使われていた建物だが、今ではスラムの住人のたまり場となっている。俺たちは足音を殺してその建物に近づいた。
木製の扉の隙間から中を覗くと、片耳が欠けた痩せこけた獣人の少年が、震えながら袋を抱えて蹲っていた。
俺はすぐさまエマを制し、少年の動きを観察する。少年は袋を開け、中身を確認しようとしていた。
「待て、今だ」
俺は少年に近づく。距離は残り1メートル。私のギフトの発動圏内だ。
少年が袋の結び目を解こうとしたその瞬間、俺は指先をわずかに動かした。
木箱の裏側を「10ミリ」だけ手前にズラす。木箱の移動に合わせて、袋が魔法のように地面に転がり出た。
「なんだ……!?」
何が起きたのか理解できず、少年は呆然として立ち尽くす。
俺はすかさず少年を確保した。だが、暴れる様子はない。それどころか、彼はその場に崩れ落ち、大粒の涙を流し始めた。
「盗んでごめんなさい! でも、お母さんが、お母さんがこのままだと……!」
彼の言葉に、エマは言葉を失った。俺は少年の肩に手を置く。
俺は廃屋のさらに奥、暗がりで苦しそうに咳き込んでいる女性の姿を見つけた。あれが母親か。彼が盗みを働いた理由は、単なる私欲ではなかったのだ。
俺はため息をついた。本当に、面倒な仕事を引き受けてしまった。だが、ここでの解決策はただ一つだ。
俺は袋を手に取り、その中に入っている月光草を取り出した。そして、枕元にあった水が入ったコップに意識を集中した。
ギフト【10ミリ動かす力】。物体を動かす力だが、微細な操作を極めれば、葉の表面に滲む成分だけを抽出することも可能だ。俺は葉の表面の薬効成分だけを剥がし、コップの中の水へと移動させた。
月光草は原型を留めたまま、成分だけが綺麗に水へと溶け出した。
「これを飲ませな。お袋さんも楽になる」
少年は震える手でコップを受け取った。母親に飲ませると、嘘のように咳き込みが止まり、女性の顔色が良くなっていく。
俺は、成分を抜かれた月光草を袋に戻し、エマに手渡した。
「探したよ。道端の草むらに落ちていた」
エマは歓喜のあまり、俺の手を何度も握りしめた。
結局、この街で何が起きたのか、貴族の使用人は知る由もない。俺は報酬の銅貨を受け取り、夕闇へと消えていった。
家に帰り、冷めたシチューを温め直す。
平和な日常。それが俺のすべてだ。
俺は大きく伸びをして、平和な夜に身を委ねた。
王都の路地裏には、今日も静かな夜が訪れる。その1メートル以内で起こることは、誰にも知られることのない、ささやかな奇跡なのだ。




