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路地裏の便利屋は、世界を『10ミリ』調律する  作者: ルツ


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3/5

その後の平穏と、騒がしい日常

月光草の騒動から数週間が経過した。王都アルカディアの下町は相変わらず騒がしい。市場の威勢の良い呼び込み、石畳を叩く馬車の蹄の音、隣人の長屋から漏れ聞こえる揉め事の怒鳴り声。一年中、どこかで誰かが何かに声を荒らげているような、混沌とした場所だ。

 だが、そんな路地裏の突き当たりに店を構える『カンタの便利屋』だけは、妙な静けさを保っていた。俺――カンタは、店先の椅子に深く腰掛け、ぼんやりと空を眺めていた。看板には『困りごとなら何でも。報酬は適正価格で』と書いてあるが、最近は看板の文字通り、適正価格で平和を売っているような気分だ。

 俺のギフトは【物体を10mm動かす】という地味なものだ。周囲1メートル以内、視認範囲内という制約付きのこの能力は、誰からも「ゴミギフト」と蔑まれてきた。だが、あの日、月光草の薬効成分をコップに抽出してみせたことで、俺の中でのこの能力の価値は変わった。それはただ動かす力ではない。世界の構造をミリ単位で微調整する、職人のための精密工具なのだ。

 そんなことを考えていた午前中、路地裏の入り口からパタパタと軽快な足音が聞こえてきた。

「カンタさん! 今日も良い天気ですね!」

 聞き覚えのある声。俺は目を開けずとも、誰だか分かった。あの日、月光草を紛失して泣きじゃくっていた貴族家の使用人、エマだ。彼女はすっかりこの便利屋の常連と化していた。貴族の屋敷で働く彼女にとって、この路地裏は、階級やしがらみから解放される唯一の聖域らしい。

「お嬢さん、貴族の屋敷は忙しいんじゃなかったのか? ここにいていいのかよ。またご主人様に睨まれても知らんぞ」

「ふふ、大丈夫です。今日は買い出しの途中で、少しだけ休憩をもらっているんです。それに、ここに来ると何だかホッとするんですよ。カンタさんと話していると、屋敷の堅苦しい空気から解放される気がして」

 エマは慣れた手つきで椅子を引くと、持参した茶器と茶葉をテーブルに広げた。最初は驚いたものだが、今ではこれが日常の一部になっている。彼女は屋敷でのドタバタ劇や、気難しい貴族の奥方の愚痴、はたまた最新の王都の社交界の噂話などを楽しそうに語る。俺はそれを適当に相槌を打ちながら聞き流し、昼寝の続きを画策する。正直、このお喋りに付き合うのは面倒だ。だが、彼女が淹れてくれる茶の味は、下町の安物とは比べ物にならないほど芳醇で、喉を通るたびに心まで解けるような気がする。

「……で、今日は何しに来たんだ。世間話だけじゃないだろ?」

「うふふ、バレました? 実は最近、屋敷の奥様が愛用している宝石箱の調子が悪いらしくて……。カンタさんなら、魔法を使わずに直せるかなって」

「俺は便利屋だ。魔法使いじゃない。……持ってきな。10mm動かすだけで直るようなら、見てやるよ」

 エマは嬉しそうに鞄から小さな宝石箱を取り出した。俺は虫眼鏡を取り出し、その内部構造を凝視する。鍵の噛み合わせがわずかにズレているだけだ。俺は指先を動かし、中の歯車を10mmだけ強制的に調整する。カチリ、と心地よい音がして、宝石箱は完璧に開閉するようになった。

「すごい! さすがカンタさん!」

「大したことじゃない。じゃあ、茶も飲んだし帰れよ。仕事に戻らなきゃだろ」

 彼女が去った後、今度は路地裏の隅から、ひょこひょこと小さな影がやってきた。片耳が欠けた、痩せこけた獣人の少年、ミロだ。彼は月光草の件で俺に助けられた後、「恩返しをしたい」と押しかけてきた。断っても毎日やってくるので、結局根負けして便利屋の助手として雇うことにしたのだ。

「カンタ兄貴! 今日も依頼はゼロです!」

 ミロは掃除用具を手に、誇らしげに報告する。あんなに痩せていた体つきも、最近は少しだけ肉がついてきた。この少年の視力と足の速さは、探偵業務においては強力な武器になる。スラムの路地裏を駆け回る機動力と、誰よりも早く異変に気づく観察眼。俺のギフトと彼の機動力を合わせれば、解決できないトラブルはない……という自覚が、少しだけ芽生えていた。

「おい、掃除するならそこじゃなくて、店の看板の埃を払ってくれ。あと、俺の昼飯のパンも頼む。いつもの店でいいから」

「了解です! 兄貴の稼ぎで一番美味いパンを買ってきますよ!」

 ミロは元気に路地の向こうへと走っていった。

 エマの世間話に、ミロの無邪気な報告。俺が望んでいたスローライフとは、少しだけ賑やかになりすぎたかもしれない。けれど、冷めたシチューを一人で食べていた頃に比べれば、今の生活も悪くはない。王都の下町で生きることは、常に何かに追われているようでいて、その実、人と人との繋がりが濃厚な場所でもある。

 俺は椅子に深く身を預け、空を見上げた。視界の端、1メートル以内には、看板を一生懸命拭いているミロの姿がある。俺のギフトは「10ミリ動かす力」。世界を大きく変えることはできないが、身の回りのささやかな幸せを整えるには、十分すぎるほどの力だ。

 便利屋兼探偵。そんな肩書きも、今の俺には馴染んできている。かつては「ゴミ」と笑われたギフトが、今では街の小さな綻びを直す道具になっている。運命なんてものは、それこそ10ミリの角度でいくらでも変わるものなのかもしれない。

 ……さて、明日はどんな依頼が舞い込んでくることやら。貴族の宝石箱の修理か、それともまた誰かがスラムで拾い物でもするのか。まあ、どんな難問でも、10ミリの誤差で解決してやるさ。俺は満足げに目を閉じ、再びまどろみの中へと落ちていった。王都の片隅、路地裏の便利屋には、今日も変わらず平和な時間が流れている。

 平和。それは誰かが与えてくれるものではなく、自分で手繰り寄せるものだ。俺の手元には、今日のエマが置いていった茶の香りが、まだかすかに漂っている。獣人のミロが買ってくるパンの匂いも、もうすぐ漂ってくるだろう。この路地裏で、俺はこれからも、ちっぽけな奇跡を積み重ねていく。

 それが俺にとっての、最高の「最強」なのだから。俺は心の中で小さく笑った。どんな派手な魔法使いも、どんな権力者も知らない、この小さな、しかし確かな幸福。俺はそれを、指先一つで守り続ける。10ミリの奇跡を信じて。明日もまた、この路地裏で、俺は便利屋として生きていくのだ。

 それが、カンタの……俺の選んだスローライフの姿なのだから。夢の中で、そんなことを思った気がした。王都の風が路地裏を通り抜け、看板を小さく揺らした。それはまるで、明日へのささやかな挨拶のように思えた。俺は微睡みの中で、再び指先を10ミリだけ動かした。椅子が少しだけ安定した位置に収まり、俺の安眠は守られた。さて、明日が来たら、また日常が始まる。それでいい。それがいい。王都の下町での便利屋探偵、カンタの物語は、まだ始まったばかりだ。

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