EP 9
暴走の果て、人間としての帰還
深い、底なしの泥沼の中を沈んでいく感覚。
龍魔呂の意識は、漆黒の虚無(DEATH4)に完全に呑み込まれようとしていた。
耳にこびりついて離れない子供たちの悲鳴。血だまりの中で冷たくなっていく弟・ユウの小さな手。
――全部、消さなきゃ。俺が壊して、このうるさい世界を静かにしなきゃ。
彼が完全に「システム」になりかけたその時。
――カァァァァァァァンッ!!!
脳髄を直接殴りつけるような、強烈な『気』の衝撃が泥沼に風穴を開けた。
坂上真一が機体越しに打ち込んだ、鬼神流の浸透勁。
物理的な痛みではない。それは、広島の先輩が命懸けで叩き込んできた「喝」だった。
『――お前は一人じゃない。広島の男が、そう簡単に悪夢に負けてんじゃねえぞォッ!!』
真一の怒号が、暗闇の中で木霊する。
ピタリと、黒ガオガオンの巨体が動きを止めた。振り上げられていた呪獣剣が、空中で静止している。
『チッ……! 何をしている龍魔呂! そのうるさい親父ごと、ガキどもを踏み潰せ! 悲鳴を上げる虫ケラは全部消すんだろう!?』
モニターの向こうで、ワイズが焦燥に駆られて喚き散らした。
だが、龍魔呂の動きは止まったままだ。漆黒と黄金のオーラが、機体の表面で激しく火花を散らして拮抗している。
その時、新宿の空を切り裂いて、一機の黒塗りのステルスヘリが舞い降りてきた。
機体には『桜田財閥』の紋章。
ヘリの側面ドアが開き、身を乗り出したのは、強風に純白のワンピースをはためかせた桜田リベラだった。
「――龍魔呂さぁぁぁぁぁんッ!!!」
彼女は備え付けの軍用拡声器をひったくり、ワイズが流していた悲鳴のノイズを完全に上書きするほどのボリュームで、新宿中にその声を響かせた。
「目を覚ましなさい! あなたは死神(DEATH4)なんかじゃない! 銀座で一番不器用で、一番美味しいオムライスを作る小料理屋のマスターでしょう!?」
リベラの声は、令嬢の優雅さを投げ捨てた、必死の絶叫だった。
「私が法と権力で、あなたの『日常』を全て守ると言ったはずですわ! 過去の悪夢なんかに、私が用意した最高のシノギを壊させるわけにはいきませんのよ!」
コクピットの中で、龍魔呂の虚ろな瞳が微かに揺らいだ。
真一の拳がこじ開けた隙間に、リベラの強烈な光が差し込んでくる。
そして、彼の心に繋がっている五つのコア――聖獣たちもまた、最後の力を振り絞って吠えた。
『そうだぜ、人間! 俺様たちはテメェの殺意に惚れたんじゃねえ! その奥にある、底抜けの「優しさ」に惚れて、力を貸してやってるんだ!』
『帰ってこい、龍魔呂! ワシらの居場所はお前と一緒じゃ!』
ガオンの咆哮。四神の呼びかけ。
龍魔呂の精神世界で、泥沼の底から無数の光の糸が伸び、彼を引き上げようとしていた。
――あぁ。
龍魔呂は、その温かい光の中で、ふと気づいた。
いつの間にか、彼の目の前に立っていた弟のユウが、泣き止んでいることに。
幻影のユウは、泥だらけの顔でニッコリと笑い、龍魔呂に背を向けて光の中へと駆けていく。
――もう、大丈夫だね。兄ちゃん。
その声が聞こえた瞬間、龍魔呂の魂を縛っていた重い鎖が、音を立てて砕け散った。
「…………あぁ」
コクピットの中で、龍魔呂が静かに息を吐いた。
瞳の奥を埋め尽くしていた漆黒の虚無が完全に晴れ、静謐で、どこまでも深く澄み切った光が宿る。
ズォォォォォォォォッ!!!
黒ガオガオンを覆っていた赤黒い瘴気が、一瞬にして爆散した。
新宿の空を焦がすほどの神々しい黄金の光。胸のガオンの瞳に真紅の火が灯り、呪獣剣は、清浄なる光を放つ『聖獣剣ゴッドブレード』へと戻る。
暴走聖獣機神は、完全に『英雄』の姿を取り戻した。
『あ……アハハ、嘘だろ……。システムが、完全に元に……ッ』
ワイズが、顔の左半分の仮面をガリガリと引っ掻きながら、絶望に目を見開いた。
黄金の巨神が、足元に立つ真一を見下ろす。
「……アンタの拳、相変わらず重たいな。頭が割れるかと思ったぞ」
外部スピーカーから響いた龍魔呂の声は、いつもの憂いを帯びた、静かで落ち着いたマスターの声だった。
「フン。効いたなら何よりだ。木刀の素振り、百万回やり直せ」
真一は血まみれの口元を拭い、フッと笑ってハイライトに火を点けた。
「龍魔呂さん……!」
信長が涙ぐみ、上空のヘリからはリベラが安堵のあまり膝から崩れ落ちていた。
「ガオン。四神。……心配かけたな」
『へへっ。ったく、手のかかるテイマーだぜ!』
龍魔呂は操縦桿を握り直し、モニターの向こうで震える道化を見据えた。
怒りはない。ただ、圧倒的な『静寂』。
「……ワイズ。お前の悪趣味なゲーム(遊戯)は、これで終わりだ」
『ひっ……!』
「子供を泣かせた罪……その泥だらけの命で償え」
ガオガオンがゴッドブレードを天高く掲げる。
新宿の街を覆っていた全ての絶望と恐怖を浄化するように、黄金の剣が眩い閃光を放ち始めた。
「鬼神流・極意――『天輪・一刀処刑』」
振り下ろされた剣から、巨大な光の輪が放たれる。
それは物理的な破壊をもたらすものではなく、邪悪なエネルギーだけを選択して浄化する『破邪の光』だった。
光の輪は新宿から東京全域へと瞬く間に広がり、街に張り巡らされていた死蜘蛛の糸、システムに侵入していた死寄生蟲を、一切の被害を出すことなくチリへと変えた。
『ア、ァァァァァァッ!! 私の、私の蟲たちがァァァァッ!!』
画面の向こうで、ワイズの通信がノイズと共に途絶える。
東京のインフラに光が戻り、自衛隊の兵器のハッキングが解除され、街が正常な鼓動を取り戻した。
夕焼けの新宿。
黄金の巨神は、そっとゴッドブレードを下ろした。
最悪の遊戯は、完全に破綻した。死神は人間たちの絆によって救われ、真の英雄としての力で、街を救ったのだ。




