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第二章 死神の孤独と、男たちの乾杯

閉店後の銀座、男二人の本音

 午前二時。ネオンが眠りについた銀座の裏通り。

 地下にあるBAR『KISHIN』の入り口に掛けられた「CLOSED」の札を横目に、重厚な木製の扉が静かに開かれた。

「……悪いな。看板が出てるのは見えたんだが、どうしても一杯やりたくてね」

 静寂に包まれた店内に、大柄な男の影が落ちる。

 私服のトレンチコートを羽織った坂上真一だった。自衛隊の制服を脱いでも隠しきれない、分厚い胸板と歴戦の猛者の気配。

 カウンターの奥では、龍魔呂がただ一人、無言でグラスを磨いていた。

「……表の札の字が読めないなら、あんたの目は節穴だ。自衛隊の将補ともあろう男が」

 冷たく言い放つ龍魔呂だったが、グラスを磨く手を止めると、カウンターに一枚のコースターを置いた。

「だが、客を追い返すのは俺の流儀じゃない」

 龍魔呂が差し出したのは、氷を入れないストレートのアイラ・ウイスキー。ピート香の強い、泥臭くも深い琥珀色の液体だ。そしてその小鉢の横に、無造作に数個の『コーヒーキャンディ』が添えられていた。

 真一は目を丸くし、やがて「ふっ」と低く笑い声を漏らした。

「……よく見てやがる。若林のセンセイが惚れ込むわけだ。ありがたく頂こう」

 真一は丸椅子に深く腰を掛け、コーヒーキャンディを口に放り込んでから、ウイスキーをゆっくりと喉に流し込んだ。強烈なアルコールと甘みが、男の胃の腑で混ざり合う。

 龍魔呂は自分用にマルボロ・赤を取り出し、火を点けた。紫煙がジャズの流れる空間にゆっくりと溶けていく。

「ウチの馬鹿息子が世話になった。陸自の誇りだなんだと喚いてはいるが、お前がいなけりゃ、あの森で子供たちごとスクラップにされてただろうよ」

「……たまたま、俺の寄付先だっただけだ。それ以上でも以下でもない」

「そうかい。だが、俺は軍人としての立場を抜きにして、一人の『広島の先輩』として、今日はお前に聞きに来たんだ」

 真一の眼光が、ふっと鋭さを増した。

 グラスを見つめていた視線が、龍魔呂の深い憂いを帯びた瞳を真っ直ぐに射抜く。

「……地下格闘場で観客を皆殺しにした、無敗の奴隷戦士。裏社会で『死』を配って歩いた、伝説の処刑人『DEATH4』。……若林のセンセイが必死に揉み消したあの血生臭いガキが、まさかこんな小綺麗な店で、美味いカレーと酒を出してるとはな」

 龍魔呂の表情は動かない。

 ただ、指先に挟まれたマルボロの煙が、ほんの僅かに揺らいだ。

「その名前は、もう死んだ。俺は今、料理を作り、酒を出し、平穏な日常を生きてる。それだけだ」

「ああ、そうだろうな。お前が心からこの『日常』を愛してるのは、あのカレーの味を見りゃわかる。……だがな、龍魔呂。俺も長く血の匂いを嗅いできた人間だ。だからわかるんだよ」

 真一は身を乗り出し、カウンター越しに龍魔呂へ顔を近づけた。

「お前があの孤児院の森で振るった暴力は、『正義』でも『護国』でもなかった。……あれは、純粋な『恐怖』と『怒り』だ。お前は何かを極端に恐れている」

 ピキッ。

 龍魔呂の手の中で、ポケットから取り出そうとしていた角砂糖が崩れる小さな音が響いた。

「……俺の息子は言っていた。お前が森に現れた時、お前の目から感情が消えていたと。お前は、あの子供たちが『悲鳴』を上げるのを、異常なまでに恐れていたんじゃないか?」

 沈黙が降りた。

 BGMのジャズの音すら消え失せたかのような、圧倒的な重圧。

 龍魔呂の瞳の奥で、決して触れられてはならない『漆黒の虚無』が蠢くのを、真一は確かに見た。かつて目の前で息絶えた弟・ユウの断末魔。その呪縛は、今も龍魔呂の魂を縛り付けている。

「……あんたには関係ない」

 龍魔呂の声は、極寒の底から這い上がってきたように冷たかった。

「俺の日常を脅かし、俺の周りの人間を泣かせる奴は、俺が全部『処刑』する。それだけだ。もし次に俺の地雷を踏む奴がいれば、神だろうが悪魔だろうが、塵一つ残さず消し飛ばす」

「……その『地雷』を、敵に利用されたらどうする?」

 真一の容赦のない言葉が、龍魔呂の胸に突き刺さった。

「悪意ってのはな、弱点そこを的確に突いてくる。もしお前が、子供の悲鳴を聞いて正気を失い、ただ目の前の命を刈り取るだけの『システム(殺人鬼)』に成り下がった時……誰が、あの50メートルの化けガオガオンを止めるんだ?」

「俺は……」

 言い返そうとした龍魔呂だったが、言葉が続かなかった。

 自分が限界を迎えた時、暴走した自分を止める術など、誰も持っていないことを彼自身が一番よく知っていたからだ。

 真一は残りのウイスキーを飲み干すと、コートの襟を立てて立ち上がった。

「……お前は強すぎる。だが、強すぎるがゆえに、脆い爆弾だ。自分一人で全てを抱え込んで、悪夢を殺そうとするな。いつかお前自身が、悪夢そのものになっちまうぞ」

 扉に向かって歩き出した真一は、立ち止まらずに背中越しに言った。

「もしお前が壊れて、その力で『日常』を壊す側に回った時は……俺がお前を止めてやる。この命と、俺の艦隊すべてを捨てて、力尽くでお前を『人間』に引き戻してやる。……お前は一人じゃない。それを忘れるな、龍魔呂」

 カラン、とベルの音が響き、真一の姿が夜の銀座へと消えていく。

 残された龍魔呂は、静寂の中、崩れた角砂糖の粉を指先で見つめていた。

 ――お前は一人じゃない。

 その言葉の熱さに火傷しそうになりながら、龍魔呂は一人、ひどく不器用に目を伏せた。

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