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ヴァンパイア・イン・マタニティ  作者: ごっこまん
10.χαίρω χαριτόω
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10-4

 吸血鬼の視線の先。剣を杖代わりにして寄りかかり、ミキ・ソーマはやっとのことで立っていた。


 膝が笑う。頭がふらつく。まだ目が霞む。空気が薄く感じる。大きく深い呼吸を意識しなければ、すぐに落ちてしまいそうだ。


 剣の他は、使命感と敵愾心が、ミキを支えていた。


 麻酔で気絶する直前、ミキは“ゼノン”に命じていた。傷口から異物を吸い出せ、と。小さな刺し傷に水滴が留まり、少しずつ麻酔の混ざった血を吸わせていたのだ。


 しかし、まだ残留する麻酔で身体が重いままだった。ミキが体感した限り、麻酔の常識が覆る効き目だ。“ゼノン”のフルオートで完全に抜くのは厳しかった。


 意識が遠退きかける度に、ミキは舌を噛んで正気を保つ。


 ミキは眼前の敵を睨んだ。


 ぼやけた血みどろの景色の中、悠然と舞う羽根の向こうで、吸血鬼が嗤っている。


「あらー、まだおねむちゃんでちかー?」


 むかっ腹が加わって、ミキを支える柱となった。氷漬けになっても余裕ぶる吸血鬼をバカにするつもりで、強引に笑って応えた。


「おかげさまでね。バッチリ目が覚めたわ。吸血鬼」


「胤族だ。ミキ・ソーマ」


 覚えの悪い子に諭すように、吸血鬼が言う。やはり名前で笑いを堪えて。


「自己紹介がまだだったな。オレはレッド。レッド・ヴァルケル。昨日からこの身体を借りてんだ。仲良くしようぜ」


 逆巻く水の切っ先が、エレクトラの姿でレッドと名乗る吸血鬼に向き、凍る。つららの槍に、レッドが囲まれる。


「こちらこそよろしく、って意味か?」


 至極気安いレッドに、ミキは護律官証を突き出し、ふらつく足でにじり寄る。


「ふざけてるの?」


 弱くも、底で煮える苛立ちが、ミキの声ににじむ。


 レッドが嗤う。


「大マジだよ。オレはテメエとつるみてえんだ、ミキ・ソーマ」


「見え透いた嘘を」レッドが嗤う限り、ミキも笑う。


「嘘じゃねえさ。仲間外れは可哀そうだろ?」


「意味がわからないわ」


「イリーナつったかあ? あんまり腹ペコでよ、あいつの血を少しばかり頂戴したが、殺してねえだろ。眷属にもしてねえ。何でだと思う? 譲歩さ。オレなりの親愛の証だぜ、ミキ・ソーマ。でなきゃ今頃みんな仲良く、()()だろ?」


 レッドは首をぐるりと巡らせて、周囲の惨状を示した。


 斬首死体。破裂死体。もはや原型を失った血煙がぬかるみに沈殿し、夜を紅く染めている。礼拝堂には輪切りの死体が増えていた。


 ミキはどれだけ気絶していたのかわからない。だが、この吸血鬼は、短い間に、花のように命を摘んでいた。


 普段のミキなら耳を貸さないような吸血鬼の戯言だった。だが、麻酔でふやけた意識下では、まるで自らの考えかのように、その言葉が浸透する。


 イリーナが見逃されただけではない。レッドがその気なら、禁域でミキを襲うチャンスは幾らでもあったはずだ。レッドにその気があったなら、ミキたちも餌食になっていたに違いない。


 吸血鬼の天敵である護律協会の者を生かしている以上、その裏に何らかの意図を隠している。


 だが、頭が回らない。レッドの意図が、見抜けない。


「……何か隠しているわね」


 レッドは首だけで身震いした。


「さすがに寒いな。なあ、こっから出せよ」


「答えなさい……!」麻酔に翻弄されながら、ミキが凄む。


「おいおい、育ちが悪いな。それが人にものを聞く態度かよ。先にここから出すのが、最低限の礼儀ってもんだろ。違うか? わかったなら、とっととこの氷を融かせよ、拝露教徒(ゼノニアン)


「答えるまで出す訳ないでしょ……!」


「……じゃ良いや。考えようによっちゃあ、このままのが好都合かもしれねえしな。あー、寒い寒い。血が凍えちまう」


「答えろ!」


 焦燥が一刻、麻酔に勝った。人を食ったような態度が、いちいち癇に障る。


 ミキの手から剣が滑り落ち、ぬかるみに沈んだ。ミキは激して、護律官証を挟んだ手で、エレクトラの顔をしたレッドの首を掴む。銀が吸血鬼の血に反応する。掴み手の中を、冷たい皮膚と脂が低温で焼ける。じゅわじゅわ、ぷちぷちと、組織が弾けて、手の平をくすぐっている。


 レッドが呻く。吸血鬼には苦痛だろう。


 だがレッドは、涼しそうにクツクツと嗤った。


 ぎりぎりと、ミキは片手で首を絞める。レッドはただ、嗤う。宿主の唇が紫になりゆき、嗤いが先細っていくが、ミキを愚弄する目だけは爛々と輝きを増していく。


「答えろ!! 何を隠してる‼ そんなに駆除されたいの‼」


 その激情を待っていたとばかりに、レッドは、満面で嗤い、かすれ声で仰々しく演じるように唱えた。


「『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる』」


「何を言って……!」


「この女、孕んでるぞ」


 ミキの世界から、レッド以外の音が消えた。


 目が泳ぐ。麻酔が戻った気分に襲われる。


「今、何て」


 声に、張りがない。


 ミキの情動を見透かすかのような、紅い瞳で、レッドは薄ら寒い笑みに歪んだ。


「この身体の主、エレクトラは妊娠してる、つったんだよ」


 ミキの狼狽を見て、レッドは耳障りなほど嗤った。


 孕んで、妊娠。吸血鬼が? いや、エレクトラが。妊婦に入った吸血鬼。吸血鬼になった妊婦。前後関係があやふやになる。首を絞める手の中で、女の柔肌が爛熟し、淀んだ血がにじむ。腐った吸血鬼の血がぬめり、指の間から零れた。


 あり得ない。出来すぎている。出任せに決まっている。このまま骨まで腐敗させてやれ。ミキの中の護律官が冷徹に指示を下す。


 ダメ! 取り上げ神官としてのミキが拒む。


 アイラの話を聞く限り、エレクトラとアルデンスは陣痛の正しい知識を持っていた。エレクトラはミキと同年代くらいだろう。だとして、普通その若さで、前駆陣痛に苦しむ妊婦に対して、冷静に経過観察する判断を下せるとは思えない。


 旅先で、そういう事態が起こると想定していたから、そんな判断ができたのではないか。


 エレクトラの妊娠が、真実味を帯びる。


 ミキの中の護律官が、首を振った。


 殺せ。ここで駆除しろ。縊り殺せ。今ここで仕留めないと、後で必ず大きな被害を出す。


 嫌だ! だって、だって赤ちゃんが!


 どう見ても、生まれる命より、奪われた命の方が多い。


 生まれる赤ちゃんには関係ない!


 私は護律官だ。吸血鬼の言いなりにはならない。


 護律協会にだって盲信しない!


 ミキの中で、心が分裂して言い争う。


 生温かい血で、手相すら埋まって、つるりと紅く艶めく手の感触が、現実とフラッシュバックとで重複した。


「どう、して……」


 記憶の彼方から、声にならない最後の言葉が、聞こえた気がした。自分の言葉でもあったと、ミキは気づかなかった。自我が、悲鳴を上げそうだった。


「嘘よ……。そんなの、嘘……!」


 護律官証を取り零すほど動揺し、ミキは後ずさった。記憶の奔流で割れそうな頭を抱える。苦悩、頭を掻き毟り、両頬を挟む。手の平で腐った血を顔に塗りたくり、その感触に怯えて腰を抜かし、血のぬかるみへ手をついた。


 泥のぬめりが更にフラッシュバックを誘発させる。手に残る血の感触を、記憶と共に、ミキは必死に拭った。


 息が苦しい。吸いたくもないのに、息を吸ってしまう。止まらない。頭が全力で回転している。なのに、何にもならない。何かが思い浮かぶ前に消滅していく。つるつると、油の満ちた床で足掻くように、その場から一つも動けない。


 命令を手放し、“ゼノン”が氷を融かしても、レッド・ヴァルケルが晴れて自由の身となっても、ミキは記憶の奔流に囚われている。


「おいおい、そんなビビることねえだろ」


 たった一言でミキがここまで取り乱すとは思わず、挑発好きのレッドでさえもまごついたことにも、まごつきながらも、目論見が想像以上にはまってほくそ笑むレッドにも、ミキは気づかない。


 レッドが凍えた身体をほぐし、「何はともあれ、ご理解賜り誠に重畳」と、仰々しく手を胸に当て、深々と頭を下げた。


「ならオレも、テメエの慈悲に応えてやる」


 悠々と、レッドがミキに近寄った。目の前で膝を折り、覗きこむレッドが、ミキの瞳には映っていなかった。ただ、新月が紅い夜空に浮かぶように見えた。


「目を覚ますと、こんな血筋もわからねえ女の身体でよ。朝は弱いってのに貧血は酷いわ、やたらとこの女を殺したがる連中が多いわで、参ってたとこなんだよ。おまけに胎のガキが手加減抜きで血を吸いやがるときた。信じられるか? このオレが、まだ生まれてもいねえ、ケツが何色もわかんねえガキ未満のカスに、血を吸われてんだぞ?」


 レッドにそっと、怯えるミキの両頬が包まれた。血糊を、親指で優しく拭われた。


「せっかく、目が覚めたってのに、このままじゃガキに吸い尽くされて、母親諸共ひからびちまう。助けるよな。拝露教徒(ゼノニアン)ならもちろん、助けてえよなあ? 人殺しどもから庇いてえよなあ? そのついでに、オレが助かっちまっても、仕方ねえよなあああ?」


 優しい抱擁が一転し、ミキは顎を鷲掴みにされ、頷く仕草をさせるように弄ばれた。ガクン、ガクンと、下手な人形繰りのような頷きだった。


 否が応にも、目と目が合う一瞬が繰り返される。


 猛禽の羽根が吹雪く星空を背に、空気のように澄んでいたエレクトラの瞳は、吸血鬼の血の色に変わっている。その瞳が、新月に見えたのだった。


「ありがとよ」と、レッドは無理矢理ミキを頷かせておいて、ホッとしたようにわざとらしく表情を緩めた。


「差し当たっては――」舌なめずり。「――胎のガキにやる、血が足りねえ」


 唇が塞がった。


 突然のことで、ミキの動揺が消し飛んだ。瞳も、息も、思考も。あるいは心拍も。


 最初は唇を重ねるだけだった。次第に舌が侵入し、上唇、下唇と食まれ、固く閉ざした口を、レッドに甘く誘惑され、結んだ唇が解けさせられていった。


 無防備になったミキの頭が、淫靡に湿った音を重ねて、浮ついた。否応なしに、のぼせていく。


 唇が離れ、秘めた艶を暴かれたように、ミキは息を荒げた。涙目に赤らむのは、麻酔だけのせいでも、屈辱だけのせいでも、混乱だけのせいでもない。ミキは恥じて、力なく睨んだ。自分の身体でないように、肩が勝手に跳ねる。


 レッドとミキの唇が離れ、その間に、名残惜しむような唾液の糸が結ばれていた。


 呆然と息を上げ、混乱するミキ。同じ反応の女など、見慣れたとばかりにレッドに囁やかれた。


「舌、出せ」


 再び、ミキの口が貪られた。抵抗は意味を成さず、されるがままに、レッドに舌を吸い出された。


 冷たい舌と温かい舌、二つが絡み合う間隙を縫って、鋭く、熱い痛みが、ミキの舌を穿つ。ミキは初心のように喘いだ。舌に甘い痛みと血の味が広がり、頭が痺れ、緊張が興奮に挿げ替えられていくのに、ミキは忌避と自罰を覚えた。忌避と自罰を覚えながらも、ミキの自我境界は、レッドの強引な舌遣いと噛み加減に蕩けていく。


 ねっとりした唾液とともに、ミキの血が飲まれていく。レッドが鳴らす喉の音が、間近に聞こえる。


 護律官でも、師匠でも、先生でも、取り上げ神官でもない。あらゆる立場を裏切る行為に、ミキは、口の端から、自らの血を一筋、こぼした。


 血の一滴も惜しんで、レッドは親指でミキの顎を拭い、雫を自らの口に導き、貪る。


 月だけが、羽根舞う中の二人を照らしていた。


 人は誰しも、秘密がある。秘密を守るために、嘘をつく。


 ミキ・ソーマの場合、秘密は、見知らぬ女の胎児を守るために、吸血鬼を庇うこと。嘘は、レッドをエレクトラと偽ることと、いつ襲い来るとも知れない魔手から守ること。


 護律官の職務と、取り上げ神官の狭間で揺らぐミキは、今はただ、濡れそぼる口を絡ませ、入り乱れる苦悦に委ねて、血の渇きを癒すのだった。


 ――どれほど口づけを交わしていただろうか。


 ミキは舌を噛まれていながら、止めていた息を継いだ。血が沸き立つような接吻の熱が、少し引いていた。


 口吸いが、止まっていた。


 ミキが閉じていた目を開くと、レッドの顔が、真っ青になって迫っていた。


酒臭い(はへふふぁい)


 ヘドロからガスが湧くようにレッドの喉が鳴り、呻いた直後、うぷぉ……と頬を膨れさせた。


 レッドの口内に含まれたミキの舌先に、苦酸っぱさが触れる。


 ミキの内で荒れ狂っていたあらゆる情動が嘘のように引いて、目と鼻の先で逆流する物への恐怖に塗り替えられる。レッドの肩を掴み、押し退けようとするが、ミキの舌にグサリと牙が刺さっていて、無理に離すと裂けてしまいそうだった。


(離せ! 離して! お願い‼)


 普段は祈らない神に縋る気持ちで、レッドの背中を叩くミキだったが、逆効果だった。


 ミキを優しく包んでいた両手が、ガッシリと頭を固定する。死にそうな顔のレッドが俯き、ミキを上に向かせる。


(――‼)


 ミキは、レッドにとって、丁度バケツのような体勢だった。


「うぼえええええ」


「んん⁉ んんーッ⁉」


 月だけが、二人を照らしていた。ミキは言葉にするのもおぞましい汚物に塗れ、酸鼻を極める臭気に晒され、飲まされ、汚された。


 意識が、麻酔ではないもののせいで、遠退きかける。


 ミキは白目を向いた。


 レッドから、顔色の悪さまで移されてしまった。


「げっぽ……ぅ!」


 たらふく受け皿になったミキの腹から、受けた分以上がきゅるきゅるとこみ上げる。


 上を向かされたまま吐いたら溺れる。ミキがそう考えた訳ではない。生命に備わった危機回避能力が、彼女を動かした。


 吸血鬼に匹敵する膂力で、レッドの頭を掴み返す。


 強引にマウントを奪う。


 そもそもミキは二日酔いだった。丸一日だろうと残る酒量を飲み干して、正体不明の麻酔も受けて、心身ともにグロテスクな状況に晒され続けた末に、文字通りの血反吐を飲んでしまった。


 レッドは、ミキにとって、丁度バケツのような体勢だった。


「ぅぽぼろろろろろおおぉえッえッエェーッゲ、ッボオオ゙オ‼」


「んぼ⁉ んぼぼーッ!!」


 月だけが、血反吐に塗れ、身体の深いところで睦み合う二人を、照らしていた。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」――ルカによる福音書 1章38節


ここまでお読みくださり、ありがとうございます。

次回以降の更新はゆっくり進めていければと思います。取材と修正抜きでここまで3ヶ月かかったのは、さすがに執筆カロリーがエグいんじゃ(千鳥ノブ)

それから、書きたいことを詰めまくったのは良いんですが、物語のまとめ方について思うところがあるので、ひょっとしたらこちらは【パイロット版】として、新たに別作品として書き直すかもしれません。


応援が励みになるので、皆さんのお声を楽しみにお待ちしつつ、続きを書く活力に変えていければと思います。

今後とも長くお付き合いくだされば、幸甚です。

気晴らしに短編とか書いても許してね


いいね・ブクマ・評価、どれかポチッとしてもらえると嬉しいです。

ご感想・その他コメント、いつでもお待ちしています。作中、わかりにくかった表現や、設定への質問も、答えられる範囲でお答えします。続きを執筆する際の筆休めを私にくださるおつもりで、お気軽にどうぞ。

「良かった」とかの一言でも、顔文字とかでも歓迎です。


それでは、次回をお楽しみにお待ちください。


SNSとか所属しているボドゲ製作サークルとか

X:@nantoka_gokker

  @gojinomi

booth:https://gojinomi.booth.pm/

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