10-3
護律会堂上空、旋回するフクロウ翼人の高度からも、太陽は姿を隠してしまった。地上は血煙で閉ざされ、仲間の安否は不明。
(こりゃあ、ダメだね!)
地上で応戦する仲間をギリギリまで見捨てないだけの情が、翼人にはあった。だが、退き時だ。遅すぎるくらいだった。
さっぱりと諦めて、翼人は両翼で気流を掴み、夜空へ上昇する。
地上の仲間のことは残念だが、全滅だけは避けなければならない。仲間が身を挺してまで、逐一伝えてくれた、この経過を報告する義務がある。さもなければ、後続の仲間に充分な準備もさせられないまま、吸血鬼と直面させる羽目に遭わせてしまうだろう。
惨事の拡大を食い止められるのは、一部始終を監視していた、翼人である己だけだ。
翼人が、夜空の彼方へ逃亡を図る。
珍しく、“雲降ロシ”も“雲送リ”もない、あるがままの澄んだ夜空。フクロウに相応しい夜空だった。
全天に開けた、月と星の海に祖霊の加護を乞い、全力を翼にかける。
地上では、血煙が一点に収束する。
霧が晴れると、血を吸い尽くされたレンプの、絶望の表情に固まる亡骸が、転がっていた。首筋の牙痕二つを別つように、首が綺麗に刎ねられていた。
吸血鬼は星々を抱くように両腕を広げながら、全身で血を吸い、恍惚としている。
しかし。
「まっず!」
苦渋を飲まされたような、しかめっ面に一変した。かれこれ色々と血を吸ってきたが、復活してこの方、ハズレばかり当たる。
「何食ったらこうなんだよ……今時の人間は……」
吸血鬼は興が冷めたように、冷たい眼差しを天に向けた。折角の夜空に一点、羽毛に塗れた不純物が混ざっている。
翼人の血か。趣味ではないが、ここで一つ、味を変えるのも悪くない。
吸血鬼が指を鳴らす。深く食いこんだ爪が、指の肉を裂き、血を溢れさせた。
「逃がす訳ねえだろ!」
吸血鬼が拳大の石ころを拾い、振りかぶって投擲する。踏み込み足に血の脚甲を結痂させ、足裏にスパイクを生やす。スパイクが地を捉え、投石に全身全霊の怪力を託す。
石ころが音速を突破し衝撃波を放つ。
空を逃げ飛ぶ翼人を狙って、石は一直線に飛んでいく。
フクロウ翼人は、風から全てを聞いていた。
「舐められたものだね!」
自身が飛ぶよりも圧倒的に速い投石を、翼人は目視し、華麗なロールでかわした。宙に残した抜け羽根が、身代わりのように投石に撃ち抜かれ、血の色に染まる。
恐ろしい威力に戦慄する。が、かわせた。かわせる。空の覇者はこの翼人だ。翼人は、ホッホウと胸を鳴らした。
地上の吸血鬼を、勝ち誇った目で見下す。
視線に応え、吸血鬼は、しでかした悪戯を先に謝るように、舌を出してはにかんだ。
グイッ! と吸血鬼が腕を引いた瞬間、翼人の視界の端で、何かがピンと張った。月光を受けて紅く光るそれは、クモの糸のように細い、血の糸だった。
血の糸が、血に包まれた投石と、繋がっていた。
急停止した投石が、吸血鬼の糸捌きによって、翼人の針路上に立ちはだかる。
「芸達者だね!」
空の覇者が、地に這いつくばる怪物の涙ぐましい工夫をせせら笑う。速度の死んだ石など、恐るるに足らない。
だが、そのとき、空の覇者は思い知らされた。
吸血鬼のその血をこそ、真に恐れるべきなのだと。
かわそうと身をよじった矢先、石を包んでいた血が解け弾けて展開した。
一握りの石だったものが、いきなり、翼人の視界一面に、鳥を狩る霞網と化して広がったのだ。
「ホッ、ホホオオオ゙オ゙オオーッ⁉」
このままでは網に捕まる。悠長にターンしてはいられなかった。ターンをとれるだけの空間が、急速に迫る霞網のせいで残されていない。急旋回のみでも間に合わない。飛行速度を殺した上で、翼の力で再加速する隙はない。
突破口は一点のみ。
翼人は、翼を畳んで空気抵抗を極力減らし、急降下した。重力の助けを得て加速し、網の閉じ口へ突破を試みる。
文句のつけようのない加速を得る。網が閉じるより速い。勝ちを確信する。やはり空は翼人の庭。血など恐るるに足らない。
だが、これは変幻自在の血、吸血鬼の一部でできた霞網である。
網の閉じ口が変形する。波打つ網の表面に湧くのは、うじゃうじゃと群がる血のノミだ。ノミが網の目のあちこちから湧いて出る。網に糸で繋がったノミの群が、翼人目がけて、全方位から跳躍する。
彼の夜空が、ノミの赤星で飽和する。
警笛のような悲鳴が、ノミの大群に埋もれて、閉じこめられた。
鉤爪で血の糸を切っても無駄だった。切っても切っても次の糸が絡まり、また切った糸すら繋がり直る。足が、翼が、関節の許す限り折られ、縛られていく。自由を奪われた翼人に容赦なく、ノミたちは跳び移るなり羽毛に潜った。ノミたちは地肌に口吻を刺すや、極小の銛を埋めこむかの如く、翼人の体内に続々と浸潤し、血管に根を降ろしていく。
翼人が落下する。急降下でも着陸でもない。翼すらなく、惨めったらしく地面に這いつくばる連中と同様に、重力に服従させられている。
落下死の恐怖に呑まれ、種族の誇りを乏しめられた屈辱。それすら覚える暇もなく、網は翼人ごと、釣瓶を落とすかの如く、吸血鬼の手中に引かれていった。
血の糸は指の傷へ、砂漠が水を吸う勢いで戻っていった。
翼人の墜落する先に、吸血鬼が待ち構える。
翼人の巨体を引き寄せる反動が吸血鬼にかかっていた。慣性、空気抵抗、牽引力に負けて、両足が宙に浮く寸前、吸血鬼は四股を踏むように足を振り下ろした。血の脚甲から無数の棘が大地に打ちこまれる。棘のアンカーが反動を相殺する。
更に吸血鬼は、肩にかけて血の手甲をまとう。翼人に狙いを定めて脚を踏みしめ、女の肉体に備わった筋線維が、血の脚甲に備わった疑似筋繊維が軋むほど、振り子のように大きく脚を振る。
翼人の絶叫が地に墜ちた瞬間。吸血鬼は霞網を引いた。
そのみぞおちに、吸血鬼の蹴りが叩きこまれる。
破城槌の一撃と聞き紛う音が轟く。
断末魔さえ残らなかった。その一撃の威力は翼人の胸腔を貫通し、背骨と肋骨を突き抜けて、くす玉を逆さに割るように、羽を、血肉を、柱の如く夜空へ爆ぜ飛ばした。
鮮血の驟雨が、束の間、泥地をパタパタと叩いた。脚の串刺しとなった巨大なフクロウは、早贄の如くその亡骸を晒している。
鮮血が吸血鬼の脚を艶めかしく伝い、血の脚甲に吸われていく。
狩りの昂りに微酔した吸血鬼の顔が、曇る。
「……こいつもまずい。おい、どうなってんだ」
亡骸は答えない。吸血鬼は亡骸の口を借りて「わかんないッピ!」と腹話術に使い、「あっそ」の一言で、ゴミ同然に投げ捨てる。ドシャリ、血混じりの泥に晒された臓物から、湯気が立った。
遅れてゆらゆらと、血染めの猛禽の羽根が降ってくる。羽根が死地を厳かに弔うかのように、止めどなく舞い降りていた。
蹴り脚を下ろして、両足で立つ。が、ガクンと段差を踏み違えたように体幹が崩れた。蹴りの衝撃で、脚甲ごと足首がねじれてしまっていた。
「この身体も脆いしよ」
足首を、骨を鳴らしてギュルンと元に戻す。関節の具合を確かめて、吸血鬼はやっと二本の足で地に立った。
血の鎧を解いて、白く透き通る吸血鬼の女体が、羽毛の雨に濡れ荒ぶ。
手持ち無沙汰に、つむじ風。
「おっと」
逆巻く羽根吹雪に、吸血鬼の目が眩んだ。違う、風ではない。気づいたときには既に、吸血鬼は水の渦に呑まれ、肩から下を氷漬けにされていた。微かに感心の色を浮かべて、吸血鬼は護律会堂の入り口へ目を遣った。
「よう。良く眠れたか、拝露教徒のお嬢さん。いや、ミキ・ソーマだっけ?」
吸血鬼はその名を、笑いを堪えて呼ぶ。
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