3 怪しいコーヒー屋
店員はくるりと回って、カウンターの背後の棚を開けた。
中には巨大な機械が収納されている。焙煎機だった。
このちゃちなコーヒー屋にそんなものが隠されていることを想定していなかった二人は度肝を抜かれた。焙煎機なんてものを知らない二人には、それは何かの工具か、兵器にしか見えない。
店員は焙煎機を開いて、焙煎の終わったコーヒー豆を見やった。一粒手にとると、灯りにかざし、鼻先に持っていって嗅いだ。
「うん、いい感じのイタリアン」
店員は金属の匙で豆をすくい取り、カップに入れる。
さらにブレンドするための他の豆も、その入れ物のキャニスターから蓋に素早く取り出し、カップに加えていく。
その手つきは、二人の客の目が丸くなるほどに速くて、的確だった。十五種類の豆を、それぞれの割合でブレンドするのに、一度も計量をしくじることもなしにカップの中に満たす。
それを手動のコーヒー・ミルに注ぐと、一定の早さでハンドルを回して挽いた。挽き終えると、粉になったコーヒーを再びカップに戻す。挽きむらのない均一な微粉になっている。
カップをカウンターの上に置き、更にペーパードリップ用のフィルターを手に取ると、ぱっと扇のように開いた。片手でそれを丸めて、端を折る。
そうしておいて、それまでコンロで火にかけられていたケトルを手に取った。中のお湯を空のサーバーへと移し替える。お湯の温度を下げるためだ。お湯が放物線を描いてサーバーの中で渦を作った。
店員の動作は、美しく、そしてどこまでも機能的だった。その動作を数万回にわたって反復して極めることによってのみ、到達できる動きだった。
木守と新像は目を見開いてそれを凝視していたが、やがて、二人の顔色が蒼白になっていく。恐怖の色だった。
移民の小娘、と見くびっていた存在が、自分たちの及ばない途轍もないものだということ、その理解がゆっくりと広まっていく。
その動作、雰囲気。常人のレベルにない。動き自体が既に、一つの完成された芸術なのだ。
一体、この店員は何なのだ?
二人は、どうにか目の前の少女を解釈しようとする。
店員はサーバー、ボーンチャイナのカップ双方を温めると、サーバーの上に金属の漏斗、ドリッパーを据える。
フィルターを掌におさめ、その中にコーヒーの粉を注ぎ入れる。わずかに手首を振って、粉を平らにならすと、ドリッパーにフィルターをセットした。
二人の目にはそれら複雑な動作、全てが異様に見えた。
たかだかコーヒーに、一体何をこんなに手間をかけているのだ?
二人の知っているコーヒー屋とは、機械からちょっと液を注いで、ちょっと混ぜて、ちょっとクリーム乗っけて五百円……そういうもののはずだ。
店員の熟練された手つきは、明らかにその次元を超えている。
彼女は何者だ? 木守と新像は、疲れた神経をフル稼働して、脳の中を検索する。
店員はコーヒーの粉にお湯を注いだ。全体にお湯をさして、ふやかしていく。コーヒーがもこもこと膨らみだした。
膨らんだのは、木守の緊張感も同様だった。何か、途轍もないものが産まれてきそうな予感があった。
「……一体、彼女、何者?」
木守は新像に囁き声で問う。新像が青白い顔で呟いた。
「あの店員、見た目とコーヒーを作るのに長けていることから南米の出身だろう……政情が不安定な南米の国では、人はろくな教育も受けられないという……。そんな中では、二種類の天才しか生まれてこないという。サッカーの天才と……」
新像は声を可能な限り低くして、続けた。
「戦闘の天才……ゲリラ戦に長けた、麻薬組織の鉄砲玉だ」
店員は蒸らしたコーヒー粉末を真剣な顔つきで見つめていたが、やがて何かの兆候を見て取ったのだろう。にっこり笑うと、お湯を本格的にさし始めた。
「……麻薬組織?」
「南米では麻薬カルテルが政府以上の力を持つんだ。国際的なネットワークをコカインやヘロインを売っている。密輸にはコーヒーの流通路に、偽装した麻薬を紛れ込ませるのが常套手段なんだ」
「はい? 南米のコーヒーの方がお好きですか?」
新像の呟きをとらえた店員が、勘違いして尋ねてくる。
「でも残念。ティピカはブラジルのひどい霜害のせいで、今年は品薄です。来年をお楽しみに」
少女は歌うように言い、その間もよどみなくお湯を注いだ。8の字を描くように、お湯を注いでいく。
ガラスのサーバーに、ぽたぽたとコーヒーの滴る硬質な音がしていたが、コーヒーが溜まるにつれ、それも消えた。
新像のヒントをもとに、木守の中で、過去にみたり聞いたりした情報が依り合っていく。ニュース番組から、タブロイド誌まであらゆる記憶がリコールされ、眼前の人間の正体を示唆しようとする。
一つの推論にたどり着く。
もしや、店員は少女兵上がりの麻薬の運び屋だろうか。そう考えると、全てに合点がいく気がした。
麻薬組織なら、広告するわけには行かないだろうし、違法なビジネスで巨万の富を築いていることだろう。コーヒーの代金もタダで問題のないはずだ。
外国の若い兵隊は、その故郷で血も涙もない冷酷さというものを身につけているに違いない。うちの国の泥棒は、こっそり入って、こっそり出て行く。が、海外の泥棒は、まず家人を皆殺しにしてから、ゆっくりと家の中を物色するらしい。
そんなから来た少女が、コーヒーを淹れてくれているのは、何か邪悪な作戦の一環に違いなかった。
いまや、周囲のもの全てが危険で、敵対的なものに感じ始めた。
コーヒー保存用の容器、キャニスターは砲弾に思える。戸棚に納められたコーヒー・サイフォンや真鍮製のエスプレッソ・マシンも、重火器にしか見えなかった。
店員の姿を注視する。
痩せて小柄な少女という見た目で、武器を帯びているようには見えない。
すると、カウンターの裏側には自動小銃なんてものが秘められているのかもしれない。妙な動きをしたら、一連射でハチの巣にされてしまうかのだ。死は、もの凄く近くにあるということだった。
敵が気まぐれに引き金を引くだけで、自分は無力に、なすすべなく死体になる。
やられてたまるか。自分は無力ではない。木守は歯を食いしばる。抵抗もせずに殺されるわけにはいかなかった。
チャンスを待つのだ。敵が油断して近づいてきたとき、襲いかかる。
こっちにだって抵抗する術はある。履いているハイヒールで蹴れば、人の身体には穴が空く。椅子の背にかけた木守のバッグの中には、暴漢撃退スプレーだって隠してある。
新像もテーブルの縁を、両手の関節が白くなるほどに強く握りしめていた。店員の少女が怪しい動きをした瞬間に、テーブルを脳天に叩きつけ、脳天かち割るつもりだ。
空気が帯電しているような緊張感に息がつまった。冷や汗で濡れた服が不気味に肌に張り付いてくる感触がある。
二人のサラリーマンに血走った目を注がれたまま、店員はお湯を注いでいた。動じず、揺らぐこともない。ものすごい安定感だった。
敵の攻撃は、予想もしていなかった方向から来た。嗅覚レベルからだ。
目眩のするような芳香が店内に満ちようとしている。店員の手で生み出されている、フィルターから滴る黒い液体が原因であることは一目瞭然だ。
木守の中で迷いが生じる。本能レベルからの迷いだ。
理性は、コーヒーを淹れている少女が敵で、脅威で、テロリストで、麻薬組織の構成員だと判断している。だが、対する感情が、来るべき嗜好品にわくわくして、胸躍らせている。早くよこせと声高に要求してくる。
店内に一杯になっている香りを吸うごとに、理性と感情の誤差が広まる。かといって、呼吸しないわけにもいかない。うまい防御の手段はなかった。
木守は歯噛みした。どうにかして、感情に打ち勝たねばならない。現代社会人として、幼稚な欲望を押さえつけられないでどうするというのだろう。
それでも、押し寄せてくる芳香が、一瞬ごとに木守の戦意を削ぎ取っていく。支援を求めて、新像の方へ目をやる。
彼の目は小刻みに震え、両手で掴んだテーブルから、手を離す口実を探しているようだ。
頼りにならない。新像に非難の視線を送っているうちに、コーヒーは完成してしまう。
店員がお盆を持って近づいてくる。木守の手はハンドバッグの中、暴漢撃退スプレーを握っていた。
だが、それを取り出すことができない。店員の少女の動作が滲ませる、荘厳な気配に圧されている。
彼女の芸術が、今完成しようとしているのだ。
お盆をテーブルに置き、クリームと砂糖の入った小瓶を添える。画竜点睛のつもりか、カップの取っ手を客の方へ回した。
木守も新像も微動だにできなかった。カップの中で波打つコーヒー、これが作られる課程を見てしまった。
「どうぞ。冷めちゃいますよ」
店員が笑いかける。コーヒーを淹れていたときの神懸かった集中力は失せて、今は年相応の少女に見える。
完全に気圧されていたことを恥入りながら、しかし恐怖と畏怖の念を消せず、二人の客はカップに手を伸ばす。
ままよ。危ないコーヒーなら、吐き出すまでだ。
木守はハンドバッグから手を離し、震える手でカップを持つ。ひきつった唇へとふれさせ――
「うっ……!」
熱い固まりが食道を下りていく感覚。口から勝手にうめき声が漏れる。カップからあわてて口を放す。熱いものが自分の中に広がっていく。見えない刃に刺されたかの様に思わず手で胸元を押さえた。
それから、気付いた。今の呻き、苦悶のそれではない。
至福の呻き。
信じられない思いで、自分の感じているものと口の中の後味を吟味する。それが何かの間違いなら、正されないといけない。
もう一口、コーヒーを口に運んだ。木守の心が、感じたことのない幸福感に浸った。
そんな、間違っている。絶対に間違っている。たかが飲み物。それに、ここまで感情の弦をかき鳴らし、引力じみた力で引き寄せられている。
木守は続けてカップを傾けた。飲むごとに、その風味は深みを増した。飲んでしまうのがもったいという感情にさえ引き裂かれる。
ちらちと店員を見ると、彼女はにんまり笑って、新しいキャニスターから豆を出しているところだった。もう一杯淹れてくれるらしい。
考えを見透かされているのを苦々しく思いながら、新像へと目をやる。相棒なら、コーヒーの味如きに惑わされず、店員に対抗してくれることを期待して。
新像は凍り付いていた。驚愕の表情のまま、顔面の筋肉が停止してしまっている。唯一、潤んだ瞳が揺れていた。
コーヒーの美味しさによって、完全な機能停止状態に追い込まれてしまったようだ。
木守が平静だったなら、新像が脳卒中発作でも起こしたかと疑ったことだろう。
だが、彼女もそれどころではなかった。目の前のコップの中のコーヒーの存在が大きすぎ、目を逸らせない。
飲むごとに味と風味が、後味を上塗りし、至高のレベルへ飲む人間を誘うのである。
一つ、確信してしまったことがある。
缶コーヒーはこれと比べた泥水でしかないということだ。もう二度と缶コーヒーを飲んで満足を感じることができなくなってしまった、ということが明らかだった。自分は一つのことを永久に失ったのだ。
もっとも、今まで缶コーヒーを飲んで何かに満足したことはなかったが。
木守は、コーヒーを飲むのが苦しいものだと長らく思いこんできた。スチール缶の底で淀んだ甘み、強引に心拍数をあげる薬理作用。それを含めて、コーヒーを単なる眠気覚ましとして認識していた。それがひっくり返されてしまった。
認識をひっくり返されるのに、いい思いではない。平和で希望にあふれていた日常に、多国籍企業が殴り込んでくるようなものだ。これも似たような兆候なのだろうか。
ふいに、手に持つカップを床に叩きつけたい衝動にかられる。日常を、自分の世界を破壊する外力に抵抗したかった。
そうしなかったのは、まだカップにコーヒーが残っていたからだ。
「どうです? おいしいですか?」
天使のように無垢な表情と、底抜けに無邪気な口調で店員が尋ねてくる。
店の人間に、そういう風に感想を求められることに慣れていなかった木守は、束の間返事に窮する。
だが、すぐに彼女の理性は、最適な方向へ彼女を導いた。乱れる思いを、店員への怒りと敵意に転化しようとする。そして、それは成功する。木守は彼女本人が自覚している以上に、敵意を作るのに慣れている。
「……まあまあよ」
精一杯のしかめ面を顔に作って、ぶっきらぼうにいった。
敵意でもって、木守は敵に屈服するのを避けていた。
なんとしても、少女に一撃食らわせたいのだが、うまい言葉が浮かんでこなかった。コーヒーを酷評するにしても、その評価が大嘘だと、自分で知っているので通じないだろう。少女のコーヒーは紛れもない天下一品のレベルなのだ。
展開は不利だった。援軍を期待して、新像の方を向く。店員を痛烈にやりこめてくれることを期待して。
新像は目を半眼にして、自分のカップの底を見つめている。言葉を発することもなければ、微動することもない。
彼は、何かの瞑想状態にあった。
木守よりもコーヒーにツボったようだ。恍惚境を超えて、禅の境地にまで達したのかもしれない。
店員が新像にサーバーを向けると、無言でカップを差しだし、おかわり注がれるのに任せた。新像は一礼して、それを自分の口に運ぶ。
頼りにならない。木守はあっさり屈してしまった相棒から目を逸らす。自分で店員を攻撃するしかなさそうだ。
自分だけでも戦い続けなければ。例え、敵がどれほど、大きく強くて怪物的でも、周りの仲間全員が力つきようとも、自分は決して屈しない。
木守の頭はショック状態で麻痺しているようなものだが、彼女も伊達に極限状態で仕事をしてきていない。
場の主導権を握らなければ。コーヒーの質で店員を攻撃できないことを悟ると、別の方向から試みた。
「あんた、そこそこのコーヒー作るじゃない。なんで宣伝しないの? この辺りにはオフィスが多いから、いくらでも需要があるし、ちょっと広告すればすぐに人が集まるわよ」
「宣伝はしないことに決めているんです」
店員の返事を聞いて、木守は冷たく一笑した。
「宣伝できない事情があるわけね。不法入国したせいで、表の世界に出れない。下手に注目されちゃうと、自分の国に強制送還されちゃうから。だから、そこそこのコーヒーは作れても、こんな誰も来たがらないような場所で、一人寂しく待っているというわけね?」
木守は意地悪い口調で続ける。
「そんな現状、どんな風に感じるの? 自分が哀れに感じる? それとも、敵対的な社会への苛立ちの方が強いわけ?」
店員はくるりと目を回して、微笑んだ。
「宣伝は必要ないんです。不特定多数のお客さんを相手にしてしまうと、どうしてもコーヒー作るのがルーチン化してしまいます。心を込められません」
「そんな理由で宣伝しないだなんてありえるの? 頭おかしいわ。誰一人客が来ないとどうするのよ」
「私のコーヒーを必要としてくれる人がここへ来ることは分かっているんです。どういう悩みを持つ人が来て、どういうコーヒーをお出しすれば幸せになっていただけるのか」
「なんで分かるのよ……麻薬組織の情報ネットワークのおかげ?」
「いいえ、麻薬組織の情報ネットワークのおかげではありません」
店員は、ふふっと笑う。
「私は、未来が見えるんですよ。予知能力です。限定的な。私のコーヒーと関わってくれた人の未来を感じます」
「からかわれているわね、あたし」
木守の顔に朱がさして、目つきが険悪になる。
店員は首を振った。
「本当ですよ。ほら、カフェインって、アドレナリンとかドーパミンだとか、いろいろな脳内物資を増幅するというじゃありませんか。それが私の脳味噌に作用してそうなっているんだと思います」
「あたしだって、いつも缶コーヒー飲んでるけど、予知能力なんてないんですけど!」
「私は心からコーヒーを淹れること飲むことを楽しんでいます」
店員はそれが全てを語るという風に締めた。
木守は溜息をつく。
「……こんな南米だかからの移民のクソガキに馬鹿にされるなんて、あたしもヤキがまわったわ」
口の中で呟いただけだったが、店員は眉を持ち上げて反応する。
「あら、私、この国の生まれですよ」
「嘘つき。……その肌の色は何よ」
店員はコーヒー色の己が手をちらりと見て答えた。
「コーヒーの飲み過ぎだと思います」
あたしはからかわれているわね。木守は決定的に思った。
「コーヒーばかり飲んで、コーヒーばかり作っていますし、一日中コーヒーの香り漂う部屋で働いています。人間の身体は食べるもの、飲むものからできているので、こうもなりますよ」
店員はそう言って微笑んだ。
サービス業として笑顔を顔に作っているのではなく、本当に微笑んでいる。彼女はコーヒーを振る舞うことを心から楽しんでいるのだ。
新像が怒鳴ってみても、木守が嫌みを言ってみても、まるで気にしない。店員の安定感を揺るがすことに、二人は一切成功していなかった。
木守は、完全にあしらわれている自分に、自己嫌悪のようなものを感じ始める。
あるいは、周りの人間の敵意を理解できないほど、この店員はバカなのだろうか。
……それとも……もしや人間性としての層が、自分よりも何段階も上だというのか。それは絶対に認めたくなかった。
自分の方が、明らかに社会的地位が高いのだ。
それなのに、巨大な多国籍企業どころか、汚くて薄暗い雑居ビルにいる怪人物に歯が立たないなんて事が許されるはずもなかった。
強くあらねばならない。さもないと、自分はどうにかなってしまう。
強くあることは、経済大国のバックボーン、サラリーマンとしての一種の義務だった。
その重荷が、木守の肩にのしかかっていた。
「……疲れたわ」
木守は小さく呟いた。
それは、店員の言葉についていけない意思表示であるとともに、実際、何ともいえない疲労感があった。目まぐるしく心情が変化し、神経が疲労を蓄積していた。気を緩めれば、全身から力が抜け出ていきそうだ。
店員はその様子を見つめて、言った。
「疲れたときには、これですね」
店員は戸棚を開いて、濡れた布の袋のようなものを取り出す。
水に漬けて保存していたネル・ドリップに使うネルだった。ネルを蛇口の上で絞って、乗っている水分は布巾でとる。
木守は店員の動きに注意を払うこともなかった。疲れた神経の上で、自分と社会に関して思いを巡らしていた。
悪い考えが浮かんでは、去っていく。それを振り払うことができなかった。
「あなたの仕事はうまくいきますよ。近い将来、すごく幸せになります」
店員の声が耳に入ってくる。
「ありがたいわ」
木守は投げやりな口調で言った。
木守の事情も知らない、無責任で楽観的な言葉。木守の属する社会は、軽い言葉や、一杯のコーヒーで動くものではないのだ。
そう考えると、眼前の少女にどうしようもないほどの羨望を感じた。彼女のスキルにではなく、彼女の立場にだった。
「あんたが……どこか、南の発展途上国出身なら、うらやましいわ。うちの国は自由で、世界一豊かな国だもん。外国人にとって、希望の星でしょ?」
「そうかもしれません」
店員はかすかに肩をすくめた。
「でも、私の場合、立場が逆でした。私はうちの国で産まれて、それから中南米の、紛争続くサン・グランドスル共和国に留学していました。ご存じです?」
木守は、のろのろと首を振る。よほどの小国なのだろう、ニュースで耳にした覚えもなかった。
「ひどい世界でしたよ。そこら中で政府軍と反政府ゲリラが撃ち合ってて……どっちかが殺されると、すぐに報復でまた人が死んで。お店はみんな略奪されちゃって品物がないし、蛇口から水は出ないし、一日三時間ぐらいしか電気が点かないんです」
少女は言葉を切って、束の間天井へと目を上げる。
「道が無人なんです……誰も歩いてないんです……夜間外出禁止令があって、夜に動いているものは、家畜や野犬でさえ撃ち殺されちゃいますので、動くものが何もないんです……何も」
木守のコーヒーの水面に、崩れかけた教会の尖塔や、弾痕だらけの廃墟が映った。
重い風切り音をたてる銃声や爆音が、耳の中でこだました。
木守は霞んできた目をこする。疲れているのだろうか、自分。目頭に指を押し当て、店員に言うべき言葉を探り出す。
「……先進国の人間が、そんな世界に何しに行くのよ」
店員はカウンターの上のキャニスターの蓋をとり、空中でそれを傾けた。ぱらぱらとコーヒーの豆が降って、カウンターの上を跳ねとんだ。
「茶色い宝石を探しに。私はコーヒー豆ハンターもやっています。貴重な豆を紛争や天災から守ったり、失われた幻の豆を栽培したり、そんな仕事もあるんですよ」
「たかが、コーヒーのために……よくやるわね」
「確かに命を失うリスクはあります。ひどい場所ですからね。でも、住民のみなさんは、笑顔を浮かべているんですよ。何も持っていないのに、うちの国の人より、よっぽど幸せそうに地獄のような日々を生きているんです」
「民族気質よ」
「そうかもしれません」
店員はネルをサーバーの上に掲げながら、そう言った。




