2 秘密のコーヒー屋
からんころん、と軽やかに鐘が鳴る。
二人は気がつけば、暗い廊下から、暖かい色調のコーヒー屋の中にいた。
木製をベースにしたデザインの店内は、外から導き入れた日光と、間接照明で優しい色合いに浮かび上がっている。
素朴な曲調のピアノの音色が聞こえる。壁際のニッチに、百合のような花びらを開いた蓄音機が、94回転レコードを回しているのが見えた。
店の中に歩み入ると、足下で床がきしんだ。床は仕上げ板材でフロアリングの施されていない、生の板張りでニスを塗られている。
さして広くもない店の中、鏡のように艶やかな円形テーブルが三つほど並んでいる。その向こうにはカウンターがある。カウンターの上にはコーヒーを作るためと思しき機械が並ぶが、総じて古風なデザインだ。
大手コーヒー店のように、販売用のパックされた豆だの、タンブラーは並んでいなかった。
まるで、店主は客に対してコーヒーを飲ませること以外に、一切の興味がないという意志を表わしているかのようだ。
そして、最も特徴的なのが、コーヒーの香り。特徴的な濃厚な芳香に包まれていた。
そういった情報を、店に入ると同時に、二人の会社員は読みとった。
とはいえ、二人には、そこらのファミレス同様、小綺麗だが、かといって何かを感じられるものではなかった。
二人にとって、店屋とは使うものであって、感じるものではないのだ。
「らっしゃい」
奥から小柄な少女が出てくる。店員に違いない。
どこの国から来たのか、肌の色がコーヒー色で、黒髪を額の上で可愛らしくカールさせている。臙脂色のタートルネックの上に、黒いエプロンという出で立ちだ。
「二名様ですね?」
店員の少女が目を輝かせて尋ねてくる。その様子に、わずかにひるみながら木守は頷く。
「お煙草はお吸いになりますか?」
「ああ」
新像がスーツの内ポケットからマイルドセブンと百円ライターを取り出して言う。ストレスのおかげで、彼の喫煙量が常時の三倍以上になっていることを、木守は知っていた。
「お預かりします」
店員が手を伸ばして、新像の煙草を回収した。そして、それをカウンターの上にコーヒーのたまったピッチャーが置かれていたが、それに煙草を放り込む。ぽちゃん、と音がして、煙草は茶色い液体の中へ消えた。
「おい――」
「当店は終日禁煙なのです。どうぞおかけください」
店員はちょこまか動いて、客の上着をハンガーにかけ、椅子をひいて、座らせる。
座ったまま、新像は手を握ったり開いたりしていた。まるで、失った煙草を手が求めているかのようだ。
ずぎゃあああん!
ヘヴィ・メタル的な怪音が鳴り響き、木守と新像は椅子に座ったまま飛び上がった。
木守の携帯電話がまたしても、金属叫喚の着メロを鳴らしていた。社長からだろう。
「くそ、心臓に悪い! 木守、マナーモードにできないのか!?」
「できないように、会社側に設定されちゃったのよ!」
木守は爆弾を扱う手つきで、あたふたとボタンを連打したが、着信音は止まない。
「お預かりしましょう」
店員がにこやかに手を差し伸べてくるので、ついつい携帯を渡してしまった。店員は、最前と全く同じ動作でそれをピッチャーに投げ込んだ。
ぽちゃん、と携帯はコーヒーに沈む。恐ろしい着信音は消えた。
何事もなかったかのように、店内ではピアノの音色が流れている。
「ちょっと!」
二人は唖然とした顔つきで、椅子を蹴って立ち上がる。
「メニューですね? 少々お待ちください」
店員はカウンターの裏から、皮で装飾されたメニューを取り出す。二人は文句の言葉を発する前にメニューを手渡され、しかも店員が熱っぽい口調でコーヒーについて語り始める。
「今日のおすすめは、なんといってもマスカロコフェアです! アンタナナリボ北方の雨林で厳選あれた希少なコーヒー豆が届いたばかりなのですよ! 他の地方のコーヒーとは違うマダガスカルの貴重な宝石! これを逃す手はありませんよ。マスト・ドリンクです」
「いや、ちょっと、携帯ーー!」
「あるいは、苦みの効いた大人の味がお求め? それなら、スマトラからマンデリンが来ています。ミューシレージの苦みをそのまま風味にするため、セミウォッシュ製法で丁寧に加工されました。苦味のコーヒーの代表格、その存在感をご賞味ください」
「いや、ええと……ちょっと自分で考えさせて」
「分かりました~」
店員は足取りも軽く、離れていく。文句を言う機は、完全に逃してしまった。木守と新像は、無言でつやつやのテーブルを睨んだ。
いま受けた仕打ちについて考える。よく分からないことに、自分の携帯がコーヒーの中に漬けられたのに、不思議と怒りが湧いてこない。
どういうことなのだろう?
分析するまでもなく、分かりやすい理由が浮かび上がってきた。
自分は、あの携帯電話のことが大っ嫌いだからだ!
いつ着信音が鳴るのか、びくびくしながらずっと過ごしてきた。鳴れば鳴るで、心臓発作が起こりそうなほど、驚かされた。
そんな、潜在的な恐怖の源が消滅したのだ。
しかも、他人にぶっ壊されたので、木守のせいではない。あれが壊れてくれて感謝だ。店を出るときに、忘れずに損害請求もしなければならない。
木守は手荒い手つきでメニューをめくった。
メニューには筆記体の横文字で、ずらずらとコーヒーの産地やら品種やらが書かれている。よほどのコーヒーの通でないと、意味をなさない情報だ。
格好つけやがって。木守は舌打ちする。メニューに難しいことを並べて、高尚さをアピールする、なめた態度だ。
日々、仕事で劣等感を刺激されている二人の顔が険しくなる。木守はぞんざいな手つきでメニューをテーブルに放り捨てた。
捨ててから、ふと妙な違和感を覚えた。何かが欠けている……メニューに不可欠な何かが……。
もう一度メニューをめくって、気付いた。このメニューには値段が書いていない。
どういうこと? 木守は眉間に皺を刻む。
新像も同じ事に気付いて、二人は鋭い視線を交えた。
ふっかけられるかも知れない。会計の時に常識はずれの金額を請求する肚なのだろうか。だとしたら、見くびられたものだ。木守は冷笑を浮かべて、店員に声をかける。
「メニューに値段が書かれてないわね。全部、タダって事でいいのかしら?」
「はい」
店員の少女は穏やかに頷く。木守の冷笑が凍り付いた。
「……はい?」
店員は指を一本伸ばして、
「一杯目はお店のおごりです」
二本の指を示して、輝くような笑顔で言った。
「二杯目からタダですよ」
「タダぁ!?」
木守と新像は異口同音に呻き声を漏らした。
この世にそんなものがあるはずない。
現代社会の生活は、お金を儲けて、支払いを済ます、その二つの動作に集約されている。
メニューの全部が無料だと、収支がマイナスになってしまうではないか。それは赤字だ。あらゆる店や会社は、そうならないように必死の努力をしているのだ。
笑いながら、全メニューがタダなんてことは、冗談でも言っていいものではなかった。
「くそっ、一体どういう話なんだ! 人をからかうのもいい加減にしやがれ!」
出し抜けに新像が怒声を発した。
「この適当な接客態度はどういうつもりだ! てめえじゃ、話にならねえ! 店長出せや、店長!」
唾を飛ばして、新像が怒鳴る。
見るからに怒り狂っている表情。だが、その裏側に、歪んだ悦びの顔があるのを、木守は知っている。彼はサービス業相手に、絶対的に優位な態度を示すことで快感を覚える性質なのだ。
しかし、店員の少女の反応は、新像の想定を超越していた。
にっこり笑いかけたのだ。
「私が店長ですよ」
幼児が癇癪を起こして泣き叫ぶのを、まるで意に介さず受け止める世話人の包容力。それを思わせる対応だ。
そして、コーヒー屋の店員は、どう見ても十代半ばか後半。木守と新像より十以上若いのに、今ので懐の深さを見せつけた。
新像の顔色が赤くなり、それから青くなる。口をぱくぱくと動かしていたが、結局なんの声も出てこなかった。新像はがくりと椅子に崩れ落ちた。
「……一体、なっつう店だ」
新像の呻き。それは、木守の胸の内を代弁していた。
いかなる検索でもヒットしない店、あらゆるメニューが無料、客が突然キレても眉一つ動かさない店員の少女、しかもそれが店長。
それをまとめると、極めて異質なものに感じ始めた。明らかに、ここは普通の店じゃない。普通とは何か別の店だ。
寝不足の際、わけもなく恐怖を感じることがある。そして、今は寝不足なんてレベルじゃなかった。恐怖は指数関数敵に増殖し、木守はパニックじみた視線を店内に走らせた。
見たところ、異常なものはないが……では、あるべきものがないのでは?
普通の店屋は、営業許可書のようなお役所の紙を、目に付くところに貼っているものじゃないのか。それらしいものが見当たらない。それとも、店の雰囲気を壊すという理由で、どこかに隠してあるのだろうか?
それに、自称店長の少女も極めて怪しい。個人経営のコーヒー屋の店長というのは、何というのか、もっと、どっしりしているべきだった。
彼女のコーヒー色の肌から察するに、南国からの移民だろう。不法移民の可能性すらありそうな気がしてくる。
だとすると、コーヒーと言ったところで、何が入っているのか分かったものじゃない。
途上国の人間にモラルなんて期待できない、と木守は常々思っていた。内戦やら飢餓やらで動物のような暮らしをしている彼らは、自分たち先進国とは別の世界の人間たち。そんなの信用できるはずがない。
お国も不審な外国人には注意するように呼びかけているではないか。
「……怪しいわね」
木守は囁く。新像も頷く。
「怪しいに決まってる」
「決まってるわ」
「決まりました?」
店員が声をかけてくる。木守はびくっと肩を震わせ、思い切り彼女を睨みつけた。
三秒ほど睨んだ後、彼女が注文するコーヒーのことを言っているのに気付く。
「もし決められませんでしたら、私に任せてください。必ず、あなた方の心をいっぱいにするコーヒーを淹れてあげますよ」
店員が提案する。木守はそれに、かちんと来た。
店屋の人間が、客である自分たちに、何かさせていただくならともかく、『何かをしてあげる』なんて行為は許されない。サービス業の原則ではないか。
テーブルの向かいの新像の目も物騒になった。
自分たちが、会社でこれほどまでに気をつけて、神経をすり減らしているのに、コーヒー屋のガキの店員が、あっさりとその原則を侵しているのだ。
木守は大きく息を吐いた。
いや、相手はどうせ大した教育も受けていない外国人の店員だ。まともな対応を期待するだけ無駄だ。
「じゃあ、あたしたちをイメージして、コーヒー作ってよ」
木守は言った。
客に合わせてカクテルを作るバーなら聞いたことがあるが、コーヒー屋は初めてだ。
それが受けると思っているのだろう。むかつく自信だった。
「かしこまりました。今のお二人に合うコーヒーは……今のお二人に必要なモノは……」
店員は顎に指を当てて、二人の客を見つめる。
「んー……ブルーマウンテンをメインに、おすすめのマスカロコフェアとマンデリンを含めた十五種類の豆を加えてブレンドしましょうか……」
店員が分析の目を光らせ、ぶつぶつ言っている間、木守と新像は目配せし合う。
怪しいコーヒー屋が、怪しいコーヒーを淹れようとしている。ここでさっさと店を出ていくのも一計だ。
いや、と新像が首を振る。修羅場である職場を抜け出てサボっているのだ。ここでおめおめと職場に戻るのも癪だった。
コーヒーが出てきても、手を着けなければいい。客として、怪しいものには手をつけない権利があるのだ。
「決めました! それでは、すぐにおいしいコーヒーができますからね」
店員が、るんるんの気分でコーヒーを淹れるための器具を並べていく。青い蔦葉の絡みつく紋様の入ったコーヒーカップが置かれた。
「ありがたいわね。おいしいコーヒーの淹れ方を知っているそうよ、彼女」
「おいしいコーヒーの淹れ方なら俺だって知っているさ。機械をちゃんとセットするんだ」
新像が吐き捨てた。
「それもありますね」
店員が言う。
「でも、それだけじゃありません。コーヒーって奥が深いんですよ」
バカ言え。木守は思った。
既に木守も新像も、完全なコーヒーのプロを自認していた。なにせ、寝不足の頭に活を入れるために、毎日浴びるような缶コーヒーを体に流し込んでいるのだ。その苦みが喉から消える時はないし、胃に潰瘍ができるのも秒読みの状態。
そこまで、コーヒーの深みにどっぷりたまった人間を、こんなガキのコーヒー屋が奥深さを教えようなんて増長はなはだしい。黙ってコーヒーを作ればいいのだ。




