1 コーヒー屋ハンティング
午前中は人気が絶えて妙にひっそりしていたオフィス街の通りだが、それも正午まで。
午前の仕事を終えたビジネスマンたちが、三々五々と街へ繰り出してくる。ある者は食事でエネルギーを回復し、ある者は束の間目を閉じ、心を安らげるためだ。
都心の一角、難しい名前の付いたビルからも、二人のビジネス・パーソンがふらふらと出てきた。木守仄香と新像哲平といった。
この二人は、周囲を行くビジネスマンとは雰囲気が違った。まともな就労条件の職場ではあり得ないような、やつれ果てた外見の上に、悲壮な雰囲気をまとっている。
木守は、くまの張り付いた目で空を見上げる。極度の緊張状態の職場から、穏やかな日差しの下に出てこれたことが自分で信じられないといった、戸惑いの顔だった。新像も同様の表情を浮かべていたが、
「コーヒーブレイクと行こうぜ」
彼は掠れた声で言い、木守は頷いた。アスファルトに広がる高層ビルの影を踏みつつ、足早に歩いていく。
ぎぃぃぃん、と金属を削るような音が響いて、二人ともびくっと身をすくませた。音の正体は、木守の携帯の着メロだった。
「はい、もしもし?」
木守が通話ボタンを押すや、老人の喚き声が通話口から迸る。おかげで、携帯を耳につける必要すらない。
『貴様ら、どこでサボっている!? 会社がどういう状況なのか、理解できているのか!? 働け働け働け!』
明確な狂気を含んだ怒声がひたすら連呼する。二人の会社の社長が、直々に電話をかけて、喚いてくれているのである。
『働け! 働け! 働け! 働け! 働けえええええ!』
「すいません、電波の調子が悪いのでよく聞こえません。では」
木守は言うなり、電話を切った。老人の声で叫喚していた携帯は沈黙した。
木守と新像は、安堵の溜息を吐いた。
とはいえ、これは束の間の静寂に過ぎない。すぐにまた、金属切削音の着メロか、あるいは脅迫状のような文面のメールが降り注いでくるに違いなかった。
「社長からよ。あたしたちの働きっぷりに感謝してて、いくらでも休憩していいって」
「社長の好意とあっちゃ、無下にはできんな」
二人は素早く足を動かして、会社から少しでも早く離れようとしている。
「こんなに詰めて働いちゃ、やれんよ」
新像が言うのに、木守も頷く。彼女は不真面目な社員ではないが、今の社内の雰囲気には耐えられないものがあった。
事の発端は、先月、EUのコングロマリッド系多国籍企業が業界に殴り込んできて、天と地が引っくりかえってしまったことだ。
二人とも某製薬会社のマーケティング部に所属していた。
国内の同業者は既に軒並み潰れて、夜逃げしたり、首吊ったりしたところだ。二人の属する会社も風前の灯火だ。
会社の方針としては、社員が一致団結して、その精神性で困難を克服するというものだった。よって、ストレス下で、社員は死ぬ気で働いている。
マーケティング部も、研究所で化学屋の尻を蹴飛ばし、顧客に頭を下げて回り、あらゆる悪意と侮蔑と嘲笑を浴びる日々だった。
しかも、最悪なのが、例えどれほど努力しても、報われないだろうという事実が判明していることだ。多国籍企業のマーケティング力は驚異的だった。最新の経済理論と、国家間の競争で磨き抜かれた敵。旧態然のシステムと、談合でぬくぬくやってきた自分たち。
敵うはずがない。スプーンで土石流を食い止めようとするものだった。
過去数年、自分の全てをかけてきた会社が消滅しようとしていて、そして、それを止める術があるとも思えない。敵が強く、自分たちがあまりに弱いために。
そう思い知らされるのは、こたえた。どんな会社人間だって、打ちのめされるだろう。
日を追うごとに、自分を含めた社員たちの身から、生命力と呼べるものが減じていくのが分かった。胃潰瘍、抜け毛、不眠、鬱、食欲や性欲の減衰といった形で、身体に傷痕が刻まれていった。
痛めつけられるのは、身体だけではなかった。社員のある者はパニック障害、ある者は見当識障害といったものに陥り、心身がガタガタになり、崩れていった。
いまや、社内は病院の様相を呈し始めている。それも、隔離病棟のような病院に。
木守本人も今月に入って、合計五時間も寝ていないし、座って食事をした覚えもない。疲労は限界を極め、それを通り越して、心が異常に静かだった。視界の端が異常に鮮明だった。そろそろ幻覚が見えてくるのかも知れない。
会社は死ぬ気で働くことを要求してくるし、実際、そろそろ死人も出るだろうが、状況は常に絶望的だった。敗北は、もはや避けられない。
いまさら末端社員二人が、三十分ばかり喫茶したところで、何が変わるとも思えなかった。
木守は携帯で周辺地図を呼び出しながら口を開く。
「もう退職した宗田さんによると、この辺に誰も知らないコーヒー屋さんがあるそうよ」
「宗田さんね……あんな役立たずのゴミ、消えてくれて嬉しいぜ」
新像が鼻を鳴らして、吐き捨てた。
「まあね。でも、秘密のコーヒー屋を一軒確保できれば、儲けものじゃない」
無論、ここ都心には無数のコーヒー屋が並んでいるが、大手コーヒー屋には易々と入れない事情があった。
「ああ。有名どころのコーヒーショップはまずい。堂々とサボっている時に、うちの会社の重役なんかと出くわしてみろ。一巻の終わりだ。ボーナスがふいになる」
「ボーナスが出るまで、会社があるかしらね……」
木守はつぶやきながら携帯の地図をスクロールし続けたが、目当てのコーヒー屋の情報は浮かんでこなかった。
サーチエンジンで調べてもヒットしなかった。口コミ情報もなし。
「……今時、ネットに影も形もないお店って、ありえるの?」
「ありえるかよ。おまえの検索が下手なんだ」
木守は溜息をついて、バッグから折り畳んだメモ書きを取り出す。退職した宗田さんが描いてくれた乱雑な地図が記されていた。
「これね」
二人の前にそびえ立つのは、薄汚い雑居ビルだ。
地図によると、雑居ビルの酷く狭い階段を六階まで上がらないといけない。
こいつが難物だった。今はバリアフリーで、どこにでもエレベーターがある。二人はもう何年も階段を上ったことがない上に、運動不足と体力不足が祟る。どうにか六階に辿り着くも、死にそうになる。
かといって、ここで諦めて帰るのなら、今度は六階ぶん、階段を下りなければならない。今の二人には下り階段さえ億劫だった。
やむなく、よろよろと廊下を進む。廊下には、ごみごみと壊れた家電や段ボール、出前のどんぶりが転がっている。しかも天井の蛍光灯は不規則に瞬き、電灯としての役はほとんど果たしていなかった。
様々な物に蹴躓きながらどうにか一番奥まで進み、目当ての扉の前に至った。
無地の金属の扉が、でんっと壁に据え付けられている。表札には部屋番号が記されているのみだ。
「……新像、コーヒー屋に見える?」
「住居に見えるな」
「住居にも見えないわよ。誰がこんな所に住むの?」
新像は仏頂面で肩をすくめる。
「もしもーし、お客さんですよー」
木守は扉の脇のインターホーンを押す。
インターホンがごそっと壁から外れて、内部のニクロム線が剥き出しになった。木守は渋面でそれを投げ捨てる。
だいたい、コーヒー屋に入るのに、インターホンを押す必要はないはずだ。
木守は冷たいドアノブに手をかけた。




