エリック・フォン・バステア ②
「ねえ、セリナ……」
眉根を寄せたアスカが消え入りそうなほど小さな声で言い、セリナの肩を小突く。その理由には察しがついていたし、なんとかしなければとも思っていたところだ。
「お兄さん、まだこっちみてるよ。暇なのかな」
不自然にならないよう少しだけ首を傾けて背後をちらりと見る。少し遠くのベンチにエリックが深く腰かけているのが見えた。一瞬目が合ったような気がして、咄嗟に前を向き直る。
今朝の食堂の一件から、エリックがずっとついてきていることには気付いていた。それほどまでにアーシャを気にかけてくれているのだろうと思っていたのは最初だけで、通学路から教室移動。カフェテリアでもエリックの姿が時折視界に入った。
(ああ、またか)
エリックが過保護になるのはこれが初めてではない。遥か遠い昔のようでいて、一生忘れることのできない記憶の蓋が、無理矢理にこじ開けられていく。
まだ家庭教師もついていない幼少の頃だった。家族や使用人の監視を掻い潜ってエリックと二人で屋敷から抜け出し、街に出たことがあった。
初めて見る外の世界は何もかもが新鮮で、草木の匂いや無限の蒼穹に胸を踊らせた。今では当たり前の光景なのに、あの時ばかりはひどく興奮したことを覚えている。だからこそ、浅はかだったのだ。
喧騒に紛れることになんの抵抗もなかった。自分たちが丁寧に仕立てられた洋服を身に纏い、浮いていることさえ気付かなかったのだ。
——だから、セリナは誘拐された。
誘拐されていた最中のことはほとんど記憶から没落している。覚えているのは数人の大人を相手取り、泥にまみれて血を流しながら抵抗するエリックの姿だった。
気がついた時には後の家庭教師となる若者に救出されていて、エリックと共に屋敷へ帰ることができたのだった。
あの時からだ。エリックが取りつかれたようにセリナに固執し、見守るようになったのは。見るに見かねたエリックの母親が叱責していなければ、今もずっと続いていたのだろうか。
『オレが——オレが弱かったからだ。もう二度と、怖い思いはさせないからな。セリナ』
目元に涙を浮かべ、決意に満ちたエリックは凛々しく、勇ましかったのだ。
だから今回もきっと、エリックはなにか思うところがあって自分を見守っているのだろう。セリナはそう思いまた視線を外す。
▽
アスカにアーシャのお守を押し付けたセリナは授業の合間にこっそりと教室を抜け出す。もしも教官から呼び止められれば、仮病を使ってでもやり遂げる気概だ。幸いなことに、セリナが腰を低く申し訳なさそうに教室を出る姿は一瞥は向けられても呼び止められることはなかった。
少しひんやりとした空気の張り詰める廊下に出ると、目的の人物は堂々と教室を覗いていた。
「お兄」
まさか声を掛けられるとは思っていなかったのか、エリックは振り向くと同時に身をよじらせた。
「なんだセリナか。お前、授業はどうした」
「それはこっちのセリフ! 朝からずーっと監視してるでしょ、お兄は一体なにが目的なの」
問い詰めると、エリックは露骨に目線を逸らすだけだった。沈黙が返ってくる。
「あたしを監視する理由はなに!?」
「セリナを? 違う——今は、オレは——」
エリックは言い淀む。その視線は廊下の外ではなく、教室の方へ向いた。
その様子を見て、ハッと天啓が降りた。エリックの今朝方の奇行から現在のやり取りまで、全ての行動に納得がいくある『疑念』が浮かび上がる。
「お兄……まさか……」
エリックは何も言わない。だが顔つきは深刻だ。その表情だけで、疑念が確信に至るには十分だった。エリックは自分を監視しているのではない。
——きっと、アーシャに惹かれているのだ。
思考を巡らせる。バステア家の男子は強い女性に惹かれるのだと、かつて母に聞いたことあった。確かにアーシャはちょっとアレだが強く勇ましく、魔法使いとしても優秀である。次期領主の嫁候補としてステータスは申し分ないだろう。
しかし、問題は年齢差である。貴族同士の政略結婚ならともかく、今のアーシャではまだ幼すぎるのではないか。何より、兄嫁から毎日海藻を押し付けられる生活は御免である。
一通りの妄想を終えてセリナはエリックの肩にそっと手を置き、諭すように言う。
「悪いことは言わないわ。やめておいた方がいい」
「そう言うな、セリナ。これはお前のためでもある」
それはきっとセリナとアーシャの関係性を思ってのことだろう。エリックの気持ちが本心なのか気を遣っているのかが分からない。思考がまとまらず、気がつけば話題を変えていた。
「その、露骨に尾行みたいなことはやめてほしいの。みんな普通に気付いているし、怖がってるから」
「そうか。それは……申し訳ないことをした。では、目視できない距離から見ることにしよう」
違う、そうじゃない。とは強く言えず、せめてバレないようにしてよね。と見当違いなアドバイスしかできなかった。
それよりも、セリナが気になったのは自分自身もかつてはアーシャを尾行していたことだ。周知の事実であったことを踏まえると、きっと俯瞰でみると今のエリックのような状態だったのだろう。
目の前の滑稽よりも、過去自分が当事者であったことの方がよほど恥ずかしいのである。
アーシャに変なのが寄ってくるから寮へ帰宅まで三人で囲うようにしよう。それはアスカの提案だった。
セリナはアスカの献身的な気遣いができる部分を気に入っている。楽観的なキャラクターをしてはいるが、その実誰よりも周囲の目線や空気に敏感でさりげないフォローができるのだ。セリナは友人として誇らしく思う。
ティアも変人ではあるが面倒見がいい。アーシャの同室となったのは彼女の母性的な部分が理由なのだろう。
夕陽が校舎の隙間を抜けてセリナの頬を真っ赤に染める。一方で、アーシャは三方を囲われて小さな歩幅をいつもよりさらに小さく刻んでいく。要人の如く厳重な警備——というよりも、連行される珍獣に見えなくもない。決して意図的ではない。矮小な体を平均身長の三人で囲えば自然とそうなるのであった。
アーシャは憤懣を噛みしめるように唇を曲げていた。
廊下の角を曲がったところで、「セリナさん」と声を掛けられた。振り向いた先で壮年の女性——学園長マルティナの姿を捉えるとセリナ達は恭しく礼をした。
「学園長、こんにちは」
「今日はアーシャさんと一緒ではないのですね」
そう言うとマルティナは眉をひそめる。まるでアーシャを探していたように思える。表情に違和感を覚えながらもセリナは「いいえ、いますよ」と背後の珍獣アーシャを引きずり出す。
マルティナとアーシャは目線を合わせたままで、互いに何も言わなかった。アーシャ、挨拶くらいしなさいとたしなめるべきだったかもしれない。
マルティナは物言いたげに小さく口を開いたが、結局何も言わずに口を噤んだ。ごくりと喉が上下して、言葉も一緒に飲み込んだように見えた。言い直すように「そうでしたか。なんだか大変なことになっているみたいですが、気を付けて帰るのですよ」とだけ残してあっさりと踵を返した。
校舎の出入り口に差し掛かった時、背後でアーシャが歩みを止めた。
「……アーシャ?」
セリナが振り向くと、薄い黄緑色のくせ毛がふわりと風に揺れる。
「そういえば、あの時の約束を覚えてる?」
なんですか! そのエモい展開! と昂奮するティアをまるで相手にせず、セリナはアーシャの言葉を反芻する。約束——しかし、答え合わせは早かった。
「『試験の成績で私に勝ったら、卒業まで使いっぱしりにする』というあの約束よ」
ああ! とセリナは柏手を打つように両手を合わせる。乾いた音が校舎に反響した。勢いでそんなことを口走った気がしないでもない。アーシャはなぜかしたり顔を浮かべている。この顔をするときは何かとんでもないことを企んでいるに違いない。
「結局、試験の結果でわたしは負けたのだから、セリナはその権利を行使すべきだと思うの」
「それ、負けた方のセリフ?」
今更試験の結果を掘り返す必要があるのだろうか、と疑問がもたげる。セリナの中では、あの山林で互いに全力をぶつけ合っただけで十分だったのだ。
「いや、あの時は勢いで言ってしまっただけというか。本気でそんなつもりは……」
セリナは頬をぽりぽりと掻きながらたどたどしくも言葉を継いでいく。
「へえ、二人で面白いことしてたんだ~。おい! パン買ってこいよ~ってやつ?」
「まあ! 二人だけの誓いなのですね!」
野次が煩い。一日中気を張っていたせいか、まともに相手をする気力も残っていない。それなのに、アーシャはマイペースでわけのわからないことを口走る。きっと、やんちゃな子を持つ親はこういう気持ちになるのだろう。
「今わたしはとても走りたい気分なの。セリナパイセンのために、購買へパンを買いに行かなければならないわ」
「誰に強制されてるのよ。危ないから行かなくていいって」
「安心して。変なのが絡んできたら容赦なく石礫をお見舞いするわ。ああ、早くしないと夕方のパンが売り切れてしまう」
台詞じみた言葉を吐いてアーシャは踵を返す。伸ばした手が届かないほど、小さな歩幅で駆ける背中がだんだん遠くなっていく。
「ちょっと! アーシャ!?」
その背を追う赤い影が、視界の端で過ったような気がした。




