エリック・フォン・バステア ①
蝶番の軋む音に合わせて眩い朝の光が廊下へと差し込む。セリナが反射的に細めた目線を持ち上げると、支度を終えて出てきたティアと一瞬目を合わせる形になった。彼女は目を丸くしたが、次の瞬間にははにかんでみせる。——寮長、おはよう。あいつは? 端的に要件だけを伝えようとする。しかし気恥しさが勝ってどうにも歯切れが悪かった。
「アーシャさん、お迎えがいらっしゃってますよ」
弾むような声でティアが振り返ると、その背後から華奢な少女が姿を現す。驚嘆とまではいかないが、いつも通りの寝惚眼をわずかに見開いて多少は驚いているように見えた。
「——っ」
「アーシャちゃんおっはよー」
セリナの発声に溌剌としたアスカの声が被さった。そうだ、連れてきていたことを忘れていた。他室であることもお構いなしにアスカはずかずかと敷居を跨ぐ。アーシャをまるでぬいぐるみかふれあい動物のように抱き寄せて頬ずりしていた。
「アスカさん! アーシャさんが嫌がってます!」
「ええー。そんなことないよねえ~」
「セリナさんならともかく、アーシャさんはスキンシップしないんです。寧ろそれが尊いんじゃないですか!」
「あはは、なにそれえ」
「そういうことは人から見えない場所でするからいいんじゃないですか!?」
当人たちは一言も発していないのに、勝手に話が進み設定を盛られていく光景を、セリナは虚ろな目で見ていた。きっと噂話というのはこうやって伝播していくのだろう。世の中の仕組みが漠然と理解できたかもしれない。
「二人共どうしたの」
アーシャがようやく口を開いて、セリナを真っすぐ見る。
「アンタひとりじゃ大変でしょ」
——新入生が生徒会長を打ち負かした。
その噂は一晩で学園中へ広がったのだった。いつのまにか事実は湾曲し、セリナの耳に入った時には『理不尽に退学寸前となった生徒を護るためにひとりで生徒会全員を素手で打ち倒した最年少魔法格闘家らしい』という取り返しのつかない形になっていた。要所要所ありえそうなのだが、誇張された噂は実害をもたらしたのだった。
食堂でも、教室でも、アーシャの周りに人が集まった。ある者は行動を称え、ある者は非難した。アーシャがまともに相手をしないと判ればすぐに離れるものの、際限なく人の連鎖は続いた。
見るに見かねてセリナとアスカはアーシャを連れ出した。人の噂など水ものだ。時間が解決してくれるとはいうが、しばらくは誰かが傍にいるべきだ。そして、アーシャの狭い交友関係を考えれば、おのずと適任者は自分しかいないのだろう。セリナはそう思った。
「変なのが湧いてきたら結界を張るか岩石でも落とそうと思っていたのだけど」
アーシャは真顔だった。冗談を言っているようには見えなかったので、セリナが慮ったことで救われた命があるかもしれない。
学生寮の食堂というのは膨大な仕込みが必要なためか、朝は成績も身分も関係なく同じ食事が提供される。元々『貴賤の別なく学徒は皆平等』という方針なのだから不満を漏らしたところで仕方ない。こと食堂において本質的な問題は座席の確保なのだが、セリナたちが食堂に入ると空気が一変した。一様に向けられた視線はアーシャに対してだろう。
視界の隅で数人が逃げるように立ち去っていくのが見えた。全員がアーシャを賞賛しているわけではない。誇張された噂のせいで、ある種の危険人物として扱われているのだと察するに十分だった。そして、責任の一端が自分にあることをセリナは理解していた。
「なんか席空けてくれたみたいだね〜。うれしい〜」
アスカはいつもの調子だ。周囲の反応に気付いていないわけではないだろう。たまには四人で朝ごはんというのもいいじゃないですか、とティアが同じように言った。
最奥の四人掛け席に近づいていく。死角になる角の席をアーシャに譲り、セリナは隣に座った。対面にアスカとティアを見据えて、手元には全員同じパンとスープの組み合わせだ。
小麦の香ばしさと少し塩味の効いた優しい温もりがそれぞれ鼻腔を刺激する。貴族家系出身のセリナにとって、この食事が質素なのか豪華なのかはわからなかった。
親元にいた頃は少なくとも豪華とか美味しいとか考えたこともなくて、食事は家族で顔を合わせなくてはならない鬱屈した時間でさえあった。
『セリナさん——調子はどうですか。学術は、剣術は。そんな気概ではお嫁にいけませんよ』
父の三番目の妻は口癖のように言った。表面的には心配を取り繕っていても、背景にはいつも政治が垣間見えていた。
手元のパンをちぎって口に運ぶ。ふんわりと柔らかくて口当たりがよい。でも、可もなく不可もなく。特別美味とは思えない食事だ。(ほとんど同じメニューなのも理由だ)
嬉しそうにパンを頬張るアーシャを横目でちらりと見る。口元にまたパン屑がついていて、反射的に拭っていた。
「ちょっと! アンタねえ……」
「んんっ……」
アーシャは顔をしかめたのに、どこかあどけなさが残っていて微笑ましい。その様子をティアが目を輝かせて眺めていることに気付いていたが、冷めた視線を返しても意に介さないだろう。彼女がひとりで盛り上がる分には無害なので放っておく。
一心不乱にパンを頬張るアーシャの姿はやはり野生動物を彷彿とさせた。冬眠の直前に急いで頬袋に餌をため込んでいるみたいだった。そんなに生き急がなくていいのにとセリナは思う。
「こういうのはバランスよく食べるものなの。スープも合間で飲まないと、喉に詰まらすわよ?」
アーシャは琥珀色のスープをしげしげと見つめる。セリナに言われてしぶしぶといった様子でスプーンを動かして具材とスープを啜った。次の瞬間には、「ぶぅえぇ」と舌先に乗せて海藻を吐き出していた。
「汚っ⁉ やめてよ!」
「アーシャちゃん海藻が嫌いなんだねえ」
アスカとティアが困り笑顔を向ける。露骨に困惑と嫌悪を現したセリナと違って大人の対応だ。セリナは刹那に考える。机を挟んだ向こう側なら同じ反応が出来たのだろうか——いや、きっと変わらず世話を焼いていたに違いない。
「昔は食べられたのだけれど……食感がきもち悪くて」
この世の終わりのように青ざめた顔でアーシャは呟いて俯く。
「昔ってアンタいくつよ……」
「じゅうに」
「子供の頃に食べられなかったものが急に食べられるようになるのは、味覚が老化してるんだって~」
暗澹とした空気を切り裂くように、アスカが何の為にもならないどうでもいい話をしだす。途端にテーブルの雰囲気が明かるくなる。彼女の機知に富んだ発言は助け船でもあり、時に困惑を生むので天然なのかもしれない。
嫌いなもの発表会を終えたアーシャは当然のように器の海藻をセリナの器へ盛っていく。
「あっ、こら!」
「ありがとう、感謝してる。海藻大臣」
「誰が海藻大臣よ! 嫌いなもの押し付けてるだけじゃない!」
本当に仲がよろしくていいですね、とティアが微笑を浮かべる。なじり合っているだけなのに。誰か彼女の色眼鏡を取り払ってほしい。
「好き嫌いなど情けないぞ、アーシャ・グローリア。海藻は海の野菜とも言われていて、栄養価も豊富なんだ。その点、バステア領は海に面しているから、オレ達兄妹は子供の頃から海藻で育ったと言っても過言ではない」
諭すようにして低い声がアーシャをたしなめる。だが、海藻の独特な食感が苦手というのは分からないでもない。
「あたしだって、子供の頃は海藻苦手だったわよ。ちょっと筋の残る感じとか——」
んん? 憧憬の懐かしさよりも明らかな違和感が先走った。その正体を探して視線を巡らす。殷賑を極める食堂内に異変は見当たらなかった。
——まさかね。
思い過ごしかもしれないと、セリナはおずおずとテーブルの下を覗き込んだ。その時、赤い何かが机の下から滑らかに飛び出す。驚嘆の悲鳴が連鎖し、食堂が地獄絵図と化した。アーシャ以外の三人が思わず立ち上がって、震えながらその様子を見守る。だんだんと血の毛が引いていく。その姿に見覚えがあったからだ。親の顔より見てきた背中と、逆立っている以外はお揃いの赤毛——間違いなく、身内だった。
「お、お兄!? なんでそんな気持ち悪いところにいるの! いつから?」
呆気に取られるセリナ達を見据えて、エリックはおもむろにセリナのパンを手に取り爽やかにかじりつく。
「最初からいたが?」
ああそうなんだ。気付かなくてごめんなさいね、みんなの足が邪魔だったかしら。と、危うく受け入れそうになるほど悠然な態度だった。違う、そうじゃないとセリナは頭を振って反駁する。
「兄が突如机の下から這い出てくる妹の気持ちわかる!?」
「わからないな。セリナ、ちょっと机の下に潜ってみてくれ。きっとお兄ちゃんの気持ちは理解できると思うから」
「誰がするか!」
勢いよく机を叩いてから、昨日の生徒会室の様子を想起する。ああ、あのカッコよかった兄を返してほしい。目の前で人のパンをむさぼる変質者と同一人物だとは到底信じられない。
「へえ。セリナのお兄さんなんだ。行動は気持ち悪いけど顔はかっこいいね」
アスカは羽虫でも見るような冷めた視線をエリックに向けた。褒めているのかけなしているのかわからないほど平坦な声だった。
「当たり前だ。オレはセリナのお兄ちゃんなんだからな」
どうやら褒められたと捉えたらしいことは分かった。周囲の視線も集まっている。一秒でも早く追い出さなければならない。
「それで、セリナさんのお兄さんは新入生寮でいったい何をされているのですか——?」
怯えた様子でティアがエリックに水を向ける。当然の疑問だった。エリックはテーブルの最奥を向いて答える。
「アーシャ・グローリアの噂を聞いてね。生徒会役員として、健全な学園生活が送れているか様子を見に来たんだ」
机の下に潜んでさえいなければ生徒会の鑑と言えるだろう。この人は自分の奇行が善行を台無しにしていると気付いていないのだろうかと疑問がもたげる。しかし、エリックが事態を見過ごさず気に留めていることは素直に敬服する。
一部始終を見ていたはずなのに、アーシャは目を細めて一瞥を向けただけだ。黙々と具材の減ったスープを食べ進め、はあと嘆息して退屈そうに虚空を見つめていた。




