エリック・フォン・バステア ③
斜陽の差し込む廊下に跫音が小刻みに響く。三叉路の角からエリックが顔を覗かせると、忙しなく小さな背中が揺れていた。直前の会話では『購買に行く』と駆けていたはずが、どうして人気のない校舎の三階にアーシャがいるのか。購買は一階のはずだ。些か疑問は残るが、セリナとは離れているので何をしようが問題ない、という思考に帰結する。
エリックは憤懣に嘆息を漏らす。なぜ自分がわざわざ監視をしなければならないのか。生徒会の伝手で数名に監視を依頼したが、「そんな暇なやつはいない」と一蹴されたのだった。アーシャに監視をつけると言った手前、人手不足を理由に取り下げるわけにはいかない。ならば、生徒会の仕事を全て投げ出してでも自分自身で動くしかなかったのだ。
会計業務を役員に押し付けて飛び出した時、副会長は鼻で笑い、書記は軽蔑の目を向けていた。来期はポストがないかもしれない。だが、これもセリナのためだと思えば、大したことではない。
長い廊下を駆け抜けていたアーシャが突然立ち止まった。大袈裟に周囲を見回したと思えば、教室の戸を開け、吸い込まれるような勢いで入室する。自分のクラスでもないはずの教室に、一体何があるのだろうか。
——何者かと落ち合っているのか。
——尾行に気付いて誘っているのか。
——あるいは、単に天然なのか。
監視対象が視界から消えたことで、少しだけ緊張がほぐれる。動き出した瞬間、背後から声を掛けられた。
「お兄さん」
エリックは振り返る。薄暗い廊下の先から、人影がじり寄ってくる。恰好からして、女生徒であることしか認識できなかった。
「すまない、今は所用で急いでいる。要件なら生徒会室へ行くといい」
「——ま……いで……さい」
うまく聞き取ることが出来ず、エリックは顔をしかめる。
「なんだ? もう少し大きな声で言ってくれると助かる」
「邪魔しないでください!」
廊下に響き渡るほどの怒声に、思わずエリックは一歩後ずさる。
「二人だけの約束を果たす——今、最高にエモい展開なんです。好感度急上昇必須、間違いなく、このあと告白イベントがあるはずなんです!」
「え……えも?」
彼女が何を言っているのか、一言も理解が出来ない。一種の詠唱の類ではないだろうかとさえ思う。
「だから、邪魔しないでもらえます? ——陽光より生まるる僕よ。現身を喰らい、我が意思のままに事を為せ。常闇の使いへ血肉を捧ぐ。#108シャッテン・テンターケル」
詠唱されていると気付いたときには、既に廊下の奥から影が触手のように伸びていて、エリックの腕を絡み取っていた。百番台——一般的ではない魔法に反応が追い付かなかったらしい。影がさらに数本伸び、エリックの四肢を抑えつける。
「お前……アーシャ・グローリアの仲間か!」
「……仲間……いいえ。少し、違います。私は——アー×セリのカプ推しなんです」
「アーセリ、カプオシ……」
聞き馴染みのない言葉を反芻する。だが、その意味はエリックの辞書にない。触手が強い力でエリックを闇に引きずり込む。抵抗を止めれば、この身がどうなるのだろうか。
——学園の生徒だが、致し方ない。
エリックは右手首に巻いたリングへ視線を落とす。
「——【ディエ・フランメ】」
次の瞬間、右手首のリングが激しく炎を上げる。影の触手は怯えるように引いていく。発火した右手を残る触手に向けて振るうと、同じようにして後退していった。
呼吸が深くなる。動揺しているのか、心臓が跳ねている。
「これは、警告ですよ——」
気が付いたときには、生徒の姿は闇に紛れるようにして消えていた。だが、雰囲気は違えどその容姿と声には覚えがあった。記憶と照合する。
「あいつは確か——新入生の……」
アーシャが吸い込まれた教室を覗き込む。普段はあまり使われていないのか、湿気と埃の臭いが鼻をかすめる。アーシャの姿はおろか、人の気配すら感じられない。監視対象を逸したということになる。
「くそ、見失ったか……」
無念の言葉を、教室の陰湿な空気が吸い込んでいく。傾く斜陽が紫に変わり、佇むエリックの姿を照らしていた。




