独善的な思考 ②
ほのかに湿気を含んだ木造の匂いが鼻腔をかすめる。嗅ぎ慣れているはずなのに、気もそぞろで目線が定まらないのは、例によって他室だからだ。アーシャの学習机に腰かけたセリナは吹き込む隙間風の音にそっと肩をすくめる。
「どうぞ」柔らかな声と共に目の前にティーカップが差し出される。白く立ちのぼる湯気と香りが花のように甘美だ。
「お構いなく」
「お砂糖は……すみません、今切らしてまして」
ティアは恐縮した様子で言った。気を遣わせまいと速答で返す。
「アーシャでしょ。あいつ、遠慮ってもんを知らないのかしら」
「いえいえ。このお茶は少し酸味があるので、好み次第ですが大人でも砂糖を入れたりするんですよ。あの子には少し酸っぱすぎるのかも。それに私も稀に使いますので、一概にアーシャちゃんが——というわけでもないです」
「優しいのね。でもあいつ、ゴロゴロとたくさん使うでしょ」
「ううん、そこはちょっと心配になりますよね。主に健康面で」
ティアは目を細める。呆れではなく憂慮をはらんだ柔らかい語調だった。
「——それで、アーシャの伝言というのを聞きましょうか」
*
セリナは生徒会室でエリックの言質を取ったあと、一目散にアーシャの部屋を訪れた。以前のような逡巡はない。緊張と高揚が入り混じる思いで木戸を素早く叩いた。
「アーシャ、入るわよ」
返事を待つ時間が惜しいと勢いのまま木戸を押し開ける。しかし、少なくとも視界の範囲にアーシャがいないことはわかった。ティアが目を丸くして見つめていたからだ。
「本当にきた……」
「なんのこと……? アーシャはいないの」
ティアは「ええ」と頷いてから続ける。
「先ほどまでアーシャさんはいました。ですが、『このあとセリナが来るから伝言を——』と言い残してどこかへ行ってしまって。なんのことはわからなかったのですけど、本当にセリナさんが現れて、驚いているところです。シンパシーソウルというやつでしょうか。やっぱりお互い引きつけ合うのですね——」
「はいはい、わかったから」
また長くなりそうな妄想が始まり、セリナは顔をしかめて遮る。
「立ち話もなんですから。お茶、しませんか?」
そう言ってティアは微笑みを向ける。主不在の学習机へとセリナを促した。
*
「伝言といっても、仰々しいようなものではないんです。一言、『ここに来るように』と。ただ、いつになく深刻そうな表情でしたので心配です」
ティアは机の引き出しから小さく折りたたまれた羊皮紙を取り出してセリナへと手渡す。
「これは……」
ピンとこないまま、セリナはそれを広げていく。独特な画風で描かれていて、寮や学園と思しき絵と、端に印が打ってある。位置関係から推察するに、少し下山した先の山林を示しているようだった。
窓の外へと目線を向けると茜色の空が広がっていた。差し込む斜光がセリナの顔を橙に染めた。
(時間がない……)
切迫感が身体を突き動かした。
「寮長ありがとう。あたし、行くね」
地図をスカートのポケットに押し込んでから、淹れ立ての紅茶を飲み下す。踵を返して部屋を出ようとしたところ、ティアが両手でセリナの指先を掴んで引き留める。
「セリナさん……!」
振り返る。案じるような優しい眼差しと目が合った。
「……門限は、守ってくださいね」
(まったく、同室に心配かけさせて……)
セリナは顔を綻ばせてティアの手を握り返した。そしてゆっくり解く。
「大丈夫よ。すぐに連れて戻ってくるから‼」
▽
山道に広がる純白の絨毯に足跡が伸びる。とても盛春とは思えないほどの積雪量で鈍足になる。足元は透き通る程輝いているのに、行く先は常闇で人の気配はおろか野獣の気配すらも感じられなかった。
「はあ」と白息を吐きだし、寒々とした空気に身を震わせる。外套を羽織ってくればよかったと微かな後悔が過った。
セリナは手元の地図へと目線を落とした。正確な縮尺ではないから、おおまかな位置関係しか把握できないが、方向感覚がまともに機能しているのは幸いだった。視線の先、等間隔に延びる小さな軌跡はまだ新しい。足を取られないように、見失わないように一歩を踏みしめる。
しばらく進んだ先で草木と澄み切った水の匂いが鼻を衝いた。視界が大きく開ける。湖畔だ。見上げると山林の中で景色を切り取ったように晴れ晴れとした夜空が広がっていた。満天の星が水面に反射して、空に包まれたみたいに神秘的だ。
(——綺麗)
「綺麗でしょう。昔から——この景色がお気に入りなの」
夜景に魅了されていると背後から聞き馴染みのある声が飛ぶ。振り向くとアーシャが神妙な面持ちで佇んでいた。怪我はしていない様子で訝るよりも安堵の感情が勝った。
「そうね」と生返事を返す。呼び出された理由はなんにせよ、せっかく取り付けた約束にアーシャを連れていかなければいけないのだ。情報と整理が脳内で錯綜する。
「ここまで呼び出したのは、アナタに相談があったの」
「ちょうど良かった。あたしもアンタに話たいことがあって。というか、こんな山奥に呼び出す必要あった?」
「試験結果のことで、考えていたの」
「うん」
幸いにも話の方向性は同じ様子だ。アーシャは自分以上に憤りを感じていたに違いない。
「いくら事前に説明があったとしても、無詠唱だったから採点不可、0点というのはやっぱり納得できなくて」
「そのことなら、あたしも納得してない」
「そうだよね。勝負だったんだもの。当然よ——だから」
だから、再試験をしてもらえないか会長に直訴しよう。それを伝えるためにここまできたのだ。
しかし、アーシャが遮るように、冷たい語調で放つ。
「だから、学園なんて破壊してしまおうと思うの」
「……は?」
開いた口が塞がらないとはこういうことをいうのだろう。話が飛躍しすぎていて、脳が返事を躊躇う。
「当然納得なんてできないもの。わたしを愚弄した学園を破壊して、ついでにバステア領も襲うことにする」
「何を言ってるの。おかしくなっちゃったの」
「わたしは至極冷静よ。だからこそ、一番邪魔になるのはセリナ——アナタなの。ここで先に始末しちゃおうと思って呼び出したのよ」
「ちょっと、ふざけるのも大概に——」
高速で放たれた土の杭が、セリナの肩を掠めた。思わず傷に手を当てると、ひりつく感覚とうっすら鮮血が制服に滲む。
「試験なんて、どうでもいいじゃない。どうして気付かなかったんだろう。勝敗なら直接対決すればいいだけ。もしアナタがこの大魔法使いアルテマを負かすことができれば、なんでも言うことを聞きましょう。でも、止めなければ、学園もバステア領も地図から消える」
きっと自暴自棄になっているのだろう。癇癪というやつである。セリナは頭を掻きむしる。
(情報量が多いなもう。意味が分からないんだけど——)
軽い金属音と共に足元へ見慣れた訓練用の剣が突き刺さる。
「——さあ、全力でかかってきなさい。セリナ・フォン・バステア」




