学園長の苦悩
夕空が好きだった。
執務室の出窓からは薄暮を淡く緋色に染まる地平線が一望できる。
切り立った山の中腹に聳える学園ゆえ遮るものはない。
畏敬の念を抱くかの大魔法使いも、かつてこの情景に魅了されたのだろうか。
学園長——マルティナは落日を眺め目を細める。
コンコンと木戸を叩く軽い音が反響した。
反射的にどうぞ、と応答したあと不自然に一拍遅れて扉が開く。
その反応だけでおよそ訪問者の見当はついた。
予想通り黒髪で線の細い女性秘書がおずおずとした様子でトレイを持って入室してくる。
「学園長、紅茶と甘味をお持ちしました」
彼女、というよりもその手元の花の、ように気品のある香りと疲れた体の欲する糖分に対して口元が綻んだ。
我ながら現金だとは思ったが、本能的で純真——とは美化しすぎだろうか。
「いつもありがとうね。いい香り。ケーキは新作かしら?」
「とんでもないです。カフェテリアのメニューで検討中らしく、学園長の意見も聞きたいとか」
「フィードバックするわね」
乱雑とした机上に気遣ってか、サイドテーブルにトレイをそっと置き秘書は一礼して佇まいを正す。
「本日はこれで失礼します。明日は早朝に生徒会との緊急定例がありますのでご注意ください」
マルティナの眉間にしわが寄る。
先日展開された未確認の結界や備品の紛失など、対応が後手に回っている案件が山積みだった。
マルティナが「ええ」と頷いたのを見届けると、秘書は慇懃に礼して執務室を立ち去っていく。
静寂を取り戻した途端、身体の力が抜けていった。
信頼のおける相手であっても無意識に学園長像を取り繕っているのは過剰な理想主義かもしれない。
しかし——どれだけ理想的な学園長像を追い求めたとしても、かの大魔法使いの偉業には遠く及ばないのだろう。
些細なトラブルから運営上の長期的な課題まで日々の業務は留まるところを知らない。
それでも、神経をすり減らしながらでもひたむきに打ち込めるのはかつての絶望的な状況を乗り越えた経験値あってのことだ。
約一年前、当時の理事長が突然の逝去。
理事会も学園内部も主に金銭面で大いに荒れた。
前理事長の後ろ盾から得ていた寄付のほとんどがなくなり、学園そのものが存続の危機に陥ったのだった。
そんな中、現理事長の元へ自ら赴き、口説き落とした。
彼は現在の魔法界における重鎮。
逆説的にいえば、新たな理事長は彼以外適任がいなかったともいえる。
忙殺されたあの頃に比べれば、多少の煩雑など造作もない。
コン、コンと木戸をゆっくり叩く音が反響した。
秘書だろうか。
マルティナは首を傾げて応答するが沈黙が返ってくる。
(気のせい……? いえ、でも確かに……)
不気味な気配に怯えながらも、恐る恐る扉へと近づいていく。
物音を立てないようにゆっくりと。
ドアノブに手をかけて開く。
無機質に蝶番が音を立てる。
見慣れた内廊下の光景。
マルティナは身を乗り出して周囲を確認するが、人影は見当たらない。
心音が一段と早くなった。
冷静さを欠いてはならない。
ふうと大げさに息を吐いて心を落ち着かせる。
きっと疲れているのだろう。
今日は早く休んだほうがいいかもしれない。
そう自分自身に言い聞かせながら扉を閉め振り返った——。
「これ、なかなかの味ね」
腰かけにちょこんと小柄な少女が座っていた。
サイドテーブルのケーキを摘まみ、優雅に紅茶を啜る。
学園の生徒アーシャ・グローリアだった。心臓が激しく脈打つ。
「……アーシャさん。……一体どこから……」
「ちょっとズルさせてもらったわ。そうでもしないと、密室で二人になれなさそうだもの」
少女の諦観にも似た態度にマルティナは目を細める。
「なにか、お話ですか。学園のことで相談なら担当の教官に——」
「まったく。一般の生徒相手に二百番台の高等魔法をぶつけるなんて、アナタ正気? いや……確信を得るためかな」
「なんの……話ですか」
「もう気付いていないフリはやめたらどう。それとも学園長ともあろうお方が、ご丁寧に説明が必要なの?」
最も可能性の高い、その名を口にした。
「……アルテマ」
「そうよね。元々抱いていた疑惑が、今朝の一件で確信になった。わたしとセリナを生徒会室に呼び出した時——アナタはこう言った。『もう身体は慣れましたか』と。あれはアルテマに対して『身体に馴染んだか』という質問だったのよね。だからわたしはアナタにだけわかるように『いつも通りです』と返した」
「それだけで……」
「昨晩私が学園に侵入することも、知っていたみたいだしね。盗み聞き? ものものしい錠前しかなかったもの」
「な、なにを……」
「ああ。今朝の一件とアナタが関係している証拠なら229番ね。回収したのだから、もう使えないはず。二百番台の『巨兵の魔法』なんて、この学園関係者で使えるのはきっと二人しかいない。一方の彼は放浪しているのだから、必然的にアナタしかいなくなる」
「……理事長があなたを推薦した理由は、アルテマだからということですか」
「あの子は知らないでしょうね。わたしのことなんて、ただの小さくてかわいい天才としか思っていないはずよ」
「本当に……アルテマ……様、なのですか」
「物理的な証拠はないけれど。今朝アナタが見たもの、アナタの認識そのものが証拠ね」
目の前の無垢な少女が畏敬の念を抱くかの大魔法使いである。
それは同時に、最悪の事態を表していることになる。
二の句が継げず、マルティナは小さく口を開けたまま硬直した。
「そして——わたしがここにいる。その意味をアナタは知っているのよね。学園長だもの」
考えたくはなかった。
しかし、理解が現実に追いつくということはあまりに無残で、あまりに無力だった。
「……時間逆行魔法が……使われた……?」
「ほぼ間違いないでしょうね。アルテマとしての記憶が甦ったのが——だいたい一年くらい前。あの魔法の発動が、魂に施した記憶を取り戻すトリガーだったのだから」
「そんな、一体誰が」
「今はわからない。誰が、何の目的で時間逆行魔法を使ったのか。わかるのは……既にこの世界は何らかの改変が行われた後ということだけ。それを調べるために、術者から禁断の魔法を回収するためにここへきたのよ。——学園長には協力してほしい」
「……ええ、もちろんです」
最悪だった。
学園長に就任以来、あの辛苦をなめた理事長不在以上に苦難はないと踏んでいたからこそ、目の前の現実が重くのしかかる。
「手始めに、この学園の改修記録と図面が欲しい」
「図面、ですか」
「入学以降時間を見つけて学園内を隅々まで回ったのだけれど、どうにも記憶と整合性が取れなくて。それで気付いた。百年あまりで、増改築を繰り返した結果位置関係がめちゃくちゃになっているのだと」
「それは問題なく手配できると思いますが……なぜ図面が必要なのでしょうか」
「理由までは知らされていないのね。まあ、百年も経てばそういうこともあるか……。わたしが禁断の魔法を魔導書に記して封印したのは、この学園の地下だった」
「それを……何者かが見つけて、時間逆行魔法を使ったと……?」
「それもわからない。だからこそ一度自分の目で確かめる必要があるのよ。図面、よろしくね」
アーシャは満足げに相好を崩して椅子から飛び降りる。
すたすたと入口へ向かっていく小さな背中は、その存在感で大きく見えた。
「あ、そうそう」
アーシャが動きを止め、振り返った。
床に魔法陣が現れ、スーッと一本の剣を引き抜く。
「これ、上手いこと返しておいてもらえる?」
最悪の現実を、大魔法使いが運んできた。
紛失したと思われていた訓練用の剣を抱え、マルティナは自室でしばらく佇んでいた。




