一、季節外れの彼岸花
温かい、春の陽気に包まれて、これから中学三年生になる平野柚子と津田圭は、最後の春休みを満喫すべく、行きつけの廃神社へ向かっていた。日常の何気ない会話を、しかし途切れさせることなく足を進める。二人は終始、笑っていた。無邪気な少年少女の笑い声は、穏やかな春の風に包まれて、優しいメロディを奏でているようであった。
柚子と圭は恋仲だった。中学生同士の、純愛。二人は結ばれて、やっと半年と言うところであろうか。短い期間であるが、幸せだった。
しかし、彼らの若すぎる恋は、周囲の大人が容認しかねるものであった。付き合い始めた当初、柚子の家に、初めて圭が訪れた際、圭は柚子の母、美千代に、平手打ちを喰らった。まだ若すぎる。不純だ。二度と、家には来るな。圭はそのまま家から追い出され、後を追おうとする柚子を美千代は許さず、二人は一瞬にして、自らの行いの浅はかさを思い知った。若すぎる二人の恋愛を、世間が容易に認める筈がなかった。
そんなことがあっても、二人は決してめげなかった。めげなかった、という言い方が正しいのかは不明であるが、彼らの互いを思う気持ちは、その程度では拭いきることが出来なかった。
生徒指導の教師から呼び出しを喰らったこともあった。決して下劣な恋愛ではないというのに、純白そのものだというのに、異常なまでの未成年の性事情についての耳をふさぎたくなるような方便を聞かされたり、性教育交じりの説教を受けたこともあった。二人はまだ手をつないだことすらない。大人たちは一体何を勘違いしているのだろうか。そのような拷問を受ける度に、二人の未熟な心は深く傷ついた。その分、傷を癒し合うかのように、再び寄り添うのであった。
二人で一緒に居る所を、他人に見られないようにしようか、こっそりと、会うようにしようか、そう検討したこともあった。それは、二人にとって、最善であったに違いない。
「でも、だめよ、圭」
柚子は言った。
「私たちは常に一緒に居なければいけないわ。そう言う、運命だもの」
柚子は不思議な少女だった。哲学的な議論を交わすのが大好きで、思想も大人びていた。圭はそういった、柚子の“不思議”な部分に惹かれていた。ただ好きだ、愛している、とは違う、信仰心のようなものが、芽生えていたのかもしれない。
付き合う前、柚子は常に一人で行動していた。圭にとって、それは凛とした一輪の花のように映った。柚子は優等生で、髪が長く、いつもポニーテールに結っていた。勉強も、運動も、生徒会も、何もかもが上手く出来た。
柚子と圭が急接近したのは、昨年の体育祭での出来事だった。柚子は体育委員だった。決して体育委員、という名にふさわしい程、活発な様では無かったが、運動神経のよさゆえに選ばれてしまったのだった。圭は、運動は苦手であったが、何となく、柚子が居るのだから、と下心を抱きながら体育委員に入った。
柚子は常にひとりだったため、体育祭の準備も、すべて任され、一人でこなしていた。今思えば、虐めだったのだろう。圭は、一人重い跳び箱を運ぼうとする柚子に、手を差し伸べた。
「手伝うよ」
それが、初めて圭が柚子に対して発した言葉であった。柚子は、全くためらうことなく、
「ええ、では、お願い」
上品な口調でそう言った。
それからすぐ、二人は急接近した。無理もない。柚子には友達が居なかった。勿論成績が優秀なため、教師には気に入られている様子であったが、無愛想で妙に大人びている所為か、気に入られていると言っても、可愛がられているようでは無かった。少し距離を置かれている。圭はそう思った。圭にはため口で、明るく話す教師も、柚子には冷静を装ったような雰囲気で、上品な口調で話していた。まるで、柚子に“裏をかかれない”様にしている様だ。“中学生”は思春期で、最も難しい年頃だ。教師たちも、常に身を強張らせていたに違いない。
しかし、柚子が教師に反論したり、反抗したことは一度として無かった。寧ろ、授業が終わると必ずと言っていいほど、授業に関する質問や、次の課題について、熱心に聴きに行っていた。それ程、勉学に興味を持った優秀な生徒であるというのに、学校と言う組織は非常に冷たいものだ。
二人はどちらともなく、“恋人関係”になっていった。どちらかが告白した訳では無かった。ただ、それが明確になったのは、柚子が、
「私達、恋人同士だものね」
と、突然言い出した時だった。
「いつの間に、そうなったんだい?」
「わからないわ。でもこうして、毎日一緒に居るんだもの。恋人同士なのよ、多分」
柚子は笑った。圭も、それでいい気がしていた。
こうして、二人は“正式に”恋人同士になった。
柚子と圭は、帰宅前に学校近くの廃神社で遊ぶのが日課になっていた。遊ぶと言っても、圭は柚子の哲学的な話を石段に座って聞く、それだけであった。
「圭、人が何故、言葉を得たか知っている?」
「知らないなあ」
「人はね、下等生物なの。他の、昆虫や鳥類、哺乳類や両生類、爬虫類、言葉を持たない全てのモノたちは、言葉という概念が無くても“会話”することが出来るのよ。例えば行動や、鳴き声一つで、何があったのか、知覚できるの。しかし私達は、太古に罪を犯し過ぎた。多くの生物を狩り、生態系を乱すきっかけを作った。神は罰として、人間に言葉を与えたのよ。言葉が無ければ生きていけないようにしたの。それまでは人間だって、言葉なんてなくても幸せに生きていたもの。言葉が出来てからでしょう、戦争がおきたり、民族が滅ぼされたり、恐ろしい事象が起こり始めたのは」
「でも、古代中国文明は甲骨文字を作ったり、他にも象形文字を色んな民族が自ら作っているんだよ。決して神様から与えられたものとは限らないんじゃないの」
「いいえ、神様が与えたのよ。神様が、人間を、見捨てたの。そして文字が出来て、文字と共に言葉が出来て、それと共に国が出来て、戦争が起こるようになった。人は罪の上に立たされて、今尚、罰を受け続けているのよ」
「確かに、文字が出来てから、国が出来て、国が出来てから戦争が起きているような気はするよ。でも、罰を受けながら生きているなんて、僕は感じたことがないなあ」
「そうね。一見は。でも、必ずある筈よ。言葉なんてなければ、私たちの関係が、こんなに中傷されることもなかったわ。いっそ、言葉のない世界に行きたい。私は、あなたと二人で、言葉のない、美しい世界へ旅立ちたいわ」
柚子は神社の汚れた石段に座りながら、瞳を輝かせてそう言った。哲学的な話をする柚子は、いつもの暗い顔と違って、光を浴びたように表情が晴れ晴れとしていた。会話では、圭は常に受け身であったが、それでよかった。柚子と会話できる、それだけで圭にとっては素晴らしく、有り難いことだった。
神社に向かいながら、柚子は圭を振り返った。
「今日は星の話をしましょう」
「星かい」
「遠く宇宙に数多輝く星。あの中に、私たちと同じような存在が居るような気がしてならないの」
「また、哲学の話かい」
「いいえ、天文学の話よ」
「いや、哲学だね。天文学について話すなら、もっと、星座や星の発見について話さなきゃ」
「星座についてはよく知っているわ。ギリシャ神話を読んだことがある?殆ど、ギリシャ神話からつけられている名前よ。例えばオリオン座。とても有名ね」
「オリオン座は冬の星座さ。もうあまり見えない」
「例えばの話よ。オリオンはね、ゼウスの娘、アルテミスっていう、美と戦の女神と恋に落ちるの。でもオリオンは乱暴な狩人。そんな人と、娘を結婚させてたまるものかって、ゼウスがね、アルテミスの兄のアポロンに、二人を引き裂くためにある計画を話すのよ。それは、毒サソリをオリオンの元へ送ること。そして、逃げ惑うオリオンを、アルテミスの矢で射させて、殺すという計画。オリオンは毒サソリを送り込まれ、アポロンの思い通りに逃げ惑うの。怖いもの、普通のサソリと違って、とっても大きなサソリなのよ。そして、アポロンはアルテミスに『さあ、妹よ、君はあの暴れる獣を見事射ることができるだろうか』アルテミスは怒って『私は弓の名人です、兄上。私に居抜けないものなどありません』策略にはまったアルテミスは、遠くで暴れる“それ”がオリオンだとは気付かずに、射殺してしまうのよ。近寄って見て、それがオリオンだったと知ったアルテミスは嘆き悲しんで、ゼウスに、頼み込んで、星にしてもらうの。可哀想だったから。でも間違えて、サソリまで空にあげてしまうのね。だからオリオンはサソリから逃げるように冬に、サソリはオリオンを追いかけるように夏に、二人は今も追いかけっこをしているのよ」
「やっぱり神話。哲学の話じゃないか」
「あら、そうかしら」
柚子は笑った。
「でも、オリオンは、サソリじゃなくて、アルテミスに殺されたのだから、愛する人に殺されたのだから、きっと、幸せだったに違いないわ」
切なげに、そう言う柚子の横顔は、白く、頬はふっくらと愛らしかった。圭は思わず胸の鼓動が高まるのを感じる。しかし、哲学的思想の持ち主である柚子に、所謂一般的な恋愛のどれそれを押し付けてしまったら、嫌われてしまうかもしれない。圭は思わず出しかけた掌をぎゅっと握って、背中に隠した。
「圭、私の誕生日はいつか知っているわね?」
柚子が唐突に言った。
「そりゃ、七月の十五日だろう」
そうよ、と言った柚子のポニーテールが、風に靡いて揺らめいた。
「七月十五日の星座はかに座。かに座の話は知っているかしら」
「知らないなあ。どんな話なんだい」
「ヘラクレスの事は知っているわね」
「ああ。ギリシャ神話の英雄だね」
「そうよ。ヘラクレスはね、ゼウスに命じられて、ヒドラと言う怪物の退治に行くの。でもね、ヒドラにはお友達が居たのよ。それが、蟹。蟹と言っても大きな大蟹よ。仲良しだったのよ、ふたりは。名前はカルキノスというわ。カルキノスは、友達のヒドラを助けようと、勇者ヘラクレスの足に、突進するの。けれど、相手は勇者。あっけなく、踏みつぶされてしまうの」
悲しげに語る柚子だが、余りに生産性のない死に方をした大蟹に、圭はふっと吹き出してしまった。
「なんだか、可哀想だね」
「何よ、私の星座を笑うなんて、ひどわ。それに、この話には続きがあるのよ」
柚子は少し怒ったように、腕を組んで言った。
「ゼウスには正妻のヘラという女性が居たのだけれどね、彼女、この一部始終を見ていたの。それで、二匹の事を余りに可哀想に思って、それで星座にしてあげるのよ。それが、うみへび座、ヒドラと、かに座、カルキノスなのよ」
それから圭を見る。
「蟹座はとても律儀な性格なの」
「君を見ていると本当にそう思うよ」
「どうして?」
「だって、僕なんかとずっと一緒に居てくれるんだもの」
圭は頬を赤らめながら言った。
「あら、それはこちらの台詞だわ」
柚子は微笑んだ。
「あなたはこうやって、私のどうでもいい様な話をいつも聞いてくれる。そしてどんなことがあっても、そばにいてくれる。こんな人、今まで出会った中であなたしかいないわ」
「当たり前じゃないか。だって僕たちは」
圭は少し顔を背けて、羞恥を隠しきれないまま言った。
「恋人同士なんだから」
*始動*
春休みのある日、圭介の妹で小学三年生の葉奈が、どうしても二人の“デート”に同行したい、と言い出した。柚子は笑って、
「たまには三人というのも、いいわね」
と承諾した。圭は葉奈を連れて、柚子と共に、古びた神社に向かった。圭は何度も葉奈に、
「柚子の哲学論を聞くだけだぞ」
と諭したが、どうしてもどうしても、と駄々をこねるので、仕方なく連れてきたのだった。柚子の話は、大人がするそれよりも更に上を行く難しさがあった。圭は常に脳味噌をフル回転させながら聞いているから何とかなっているものの、小学三年生の幼い葉奈が柚子の話を聞いて、気味が悪いとか、難しすぎるとか言って、親に悪い告げ口をするのではないかと不安だった。
廃神社は最早手入れされることもなく、鳥居は色褪せて褐色へ変色していた。石段はごつごつしていて上り辛い。いつもは中腹で座って、柚子と話をして帰るのだが、今日は葉奈がどうしても上まで行きたいと言うので、仕方なく頂上まで上ることにした。
「神社の本殿まで行くなんて、いつぶりかしら」
「付き合い始めて、最初の辺はよく行ってたけどね。途中から上まで上るのが面倒になっちゃって、止めたんだよ。三か月前くらいかな」
「そうね。葉奈ちゃんのお蔭で、久々に御本殿に御挨拶できるわ。ありがとう」
葉奈は何も言わなかった。恥ずかしがっているのか、それとも、他の皆と同じように、柚子を毛嫌いしているのか。いや、だとしたらこんな風に、三人で出かけようなどとは言い出さない筈だ。つまり、前者が正しい。
「葉奈ちゃんは、今日どうして一緒に来たがったのかしら」
気を遣って、柚子が聞いた。葉奈は「うん」と静かに頷いた。
「昔、お兄ちゃんと、この神社にね、一緒に来たの。お父さんも、お母さんも一緒だったよ」
「ああ、あのころはまだ廃神社じゃなくて、ちゃんと神主さんが居たっけね。何のお祈りに来たのかは忘れちゃったなあ」
圭は、覚えていたが、柚子に悟られたくないことだったため、言わなかった。
「葉奈も、忘れた」
葉奈は笑った。
「そう。元々、二人のゆかりの場所だったのね、此処は」
柚子は笑った。
石段を上りつめ、頂上が見えた。視界が開ける――――――。
一面が、美しい彼岸花で彩られていた。
「まあ素敵!」
柚子は迷うことなく、花畑に飛び込んだ。
「春に彼岸花だなんて、ちょっと季節外れだけれど」
圭も行こうとすると、葉奈がぐっと腕を引いた。
「どうしたの?葉奈」
「柚子お姉ちゃんにお兄ちゃんを取られたくないの。此処に居て」
「お兄ちゃんはずっと葉奈の所に居るよ。大丈夫」
圭は笑って見せた。兄妹二人でずっと生きてきた。歳の差の所為もあって、圭は葉奈を普通の兄妹以上に可愛がった。唇を尖らせる葉奈の頭をくしゃくしゃとなでる。葉奈は照れくさそうに頬を染めた。
「私、彼岸花って、一番好きな花なの」
柚子は真紅の花畑の中で言った。
「だって、死者を弔う花だからよ。お墓とかによく咲いているでしょう。死者の魂を、送り出す花なのよ、彼岸花は」
柚子は彼岸花畑に顔を埋め、すう、と大きく息を吸った。それから、
「私、幸せだわ」
そう言って柚子は、真紅の中で静かに倒れ込んだ。
最初はただ、花畑に寝転がっているだけだと思った。しかし、いくら待っても、柚子は起き上がらなかった。
「柚子?」
不安になった圭は、柚子に声をかける。返答はない。
「柚子?大丈夫?」
柚子は悪戯好きな面がある。偶に突然通学路で倒れたフリをして、圭が駆け寄った途端、起き上がり、圭の寿命を縮めることもあった。だからいつもの様に、「わっ」と突然飛び上がって、二人を驚かせようと画策しているのではないか。そんなことを思いながら、圭は一歩一歩、彼岸花畑に近づいた。柚子の顔を覗き込む。
青い顔をしていた。
「柚子?」
肩に触れる。初めて柚子に触れた。
華奢な肩だった。それ以前に……。
柚子が動かない。
「柚子?」
もう一度声をかける。やはり、柚子は動かない。力なく、その場に倒れ続けていた。
「……お兄ちゃん」
葉奈が歩いて来るのが分かる。圭は瞬時に、
「葉奈は其処で待ってて!」
と叫んだ。
柚子の肩を揺さぶる。やはり、反応がない。
其処で初めて、圭はやっと、自分達がただならぬ状態に置かれていることに気付いた。
辺りに広がる紅い彼岸花を見回す。少し、眩暈がするようだ。
―――もしかしたらこの花に、何か仕掛けが……。
倒れた柚子の上半身を膝の上に乗せて、圭は何が起きているのか、状況を把握しようとした。
しかし、どうもいけない。眩暈が、酷い。
葉奈の顔が、歪んで見える。
圭は携帯電話を取り出しながら、柚子の肩をもう一度強く揺さぶった。
「柚子!柚子!」
柚子は目を覚まさない。やはり、この花が、いけないようだ。
圭は一一九番を押すと、
「助けてください!恋人が!突然倒れて……」
其処まで言うと、圭の脈がどくり、と波打った。
「大山田……神社……です……」
意識が朦朧としている。葉奈がこちらに駆けてこようとしている。
「葉……奈……、来るな……」
圭は精一杯の声で叫んだ。もう、唇も喉も自由に動かすことが叶わない。
「お兄ちゃん!」
「来……るな……」
もう一度言った。柚子は動かない。大切な妹まで、巻き込むわけにはいかない。
葉奈は歩みを止めて、泣き始めた。圭は柚子に向き直ると、その青くなった頬に自らの頬を寄せた。意識が遠のいていく。
「柚……子……」
圭はそのまま意識を失った。
深紅の中で、二人の幼い恋人が抱き合っている姿は、異常なまでに美しい姿であった。絵の具があったら、絵に描きたいくらいだ。彼岸花に似た真紅の花たちは、冷たい視線を二人の恋人と、泣きじゃくる小さな少女に向け、恐ろしい真実を隠蔽しようとしていた。




