序
「ついに完成だ……」
研究室にて、男は微笑した。先程までゲージ内で暴れていた凶暴な鼠が、大人しくなっていく。
男は花と薬品の調合を行っていた。強い麻薬性を帯びた、特殊な花の生成である。男は確信していた。研究が成功すれば、財力を持つ教団や、犯罪者厚生施設に、高く買値を付けてもらうことが出来るであろう。
これで、今後も研究を続けていくことが出来る。学会で発表すれば、注目の的間違いなしだ。
花は元来の白を失い、紅く染まっていた。
深紅に染まったその花の名は、まだ決めかねていた。
唯一の不安要素は、妻であった。妻、美樹は、順序通りに研究を始めなかったことに激怒していた。研究の内容が、“上手く”行かなければ、研究に費やした時間も労力も費用も、全て無駄になる。
それ以上に、その花の“毒性”を、所謂悪人に利用されるのではないかと非常に懸念していた。
男は研究者だ。研究する以外に能はない。例えその研究成果を“どのように使われた”としても、男の知った事ではない。
丸い時代遅れの眼鏡を曇らせ、白衣の男はひひひひ、と嫌な笑いを浮かべた。この“成果”がどのように世間に認められていくのか、楽しみでならない。
花の持つ“準麻薬性”は、強いものだった。心身を落ち着ける作用がある。副作用で、幻覚をもたらす場合があるが、麻薬依存の患者や、心神喪失状態の犯罪者などを日常世界へ引き戻す力がある。男はそう確信していた。
この花は、異常者達を現実世界に引き戻すのだ。
あとは人体による試験が必要だ。
その時、ゲージの鼠がパタリ、と倒れた。
男は言葉を失った。
花の麻薬性は非常に強かった。強すぎた。最早毒と同じだったのだ。
男は机に拳をぶつけた。何度も机上を叩く。唯一の光が、男がかけてきた熱情が、此処で断たれてしまったのである。
男は激情し、机上の物という物を辺り一面にぶちまけた。
死んだ鼠が床に転がる。
「何故だ!何故私ばかり上手くいかない!」
研究員は皆帰宅していた。誰も彼に声をかける者はいない。
「何故だ!」
怒り狂った男の目には、炎が宿っていた。しかしすぐに、心を無にしたように表情を失うと、花の球根が入った箱を、研究室裏の焼却炉へと運んだ。燃やしてしまいたかった。今すぐに。何もかも、無かったことにしてしまいたかった。
男は最早何の感情も抱くことが出来なかった。数百、いや、数千にも及ぶ花の球根は、焼却炉へと投げ込まれた。罪なき球根の山は、悲鳴を上げる様にぱちぱちと音を立て燃える。男はそれを気にも留めない様子で、次の箱、次の箱、と焼却炉に投げ込み続けた。
男の目には、炎が映る。まるで男の心を映しているのようだ。
全ての箱が空になると、次の箱を取りに、男は研究室へ向かった。研究室には、先程ぶちまけられた器具や球根、鼠の死体が散乱している。男はそれを見て、ああ、と机上に突っ伏し、項垂れるのであった。
項垂れる男の背後から、さっと誰かが走り去った。
男は気付かない。
焼却炉の炎は、燃え続けていた。




