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第8話 帰り道

「そういえばルカ、家名はあるけど……市民階級の出なのか?」


 カイルと並んで歩いていたルカは、ふいに問われて少し戸惑った。


「あ、そ、そうなのかな? 山奥に住んでて……父も母も亡くなったから、そのへん、あんまりよくわかってなくて……」


「亡くなった」という言葉に、カイルの表情が一瞬固まった。


「わ、悪い! そんなつもりじゃなくて……! その、身分とか、学園じゃ関係ないし……ほんとに、ごめん!」


 本気で謝るカイルの様子に、逆にルカの方が慌てた。


「い、いいよ! 全然気にしてないし! それより、早く寮に帰ろうよ。明日の準備もあるし……」


 そんな風に話しながら、二人が門を出ようとした、その時だった。


「おい、待てよ、お前ら!」


 背後から声が飛んだ。呼び止めたのは、あの小太りの男——エドウィンだった。


 その後ろには、ひょろ長い体を猫背にしてニヤつく眼鏡の男——クラウス・ディルモント(ルカが名前を知るのは後のことだったが)——


 そして、あの冷ややかな眼差しの金髪の男、レイナードが並んでいた。


「何だよ、エドウィン。お前も俺とルカと一緒に帰りたいのか?」


 カイルがからかうように言うと、エドウィンは鼻を鳴らし、一歩、踏み出した。


「ふざけるなよ。さっきの態度、気に入らねぇんだよ。……雑魚を庇って、レイナード様に楯突くとはな」


 その視線がルカに突き刺さる。

 ルカは俯き、唇を噛んだ。


「ルカは俺の友達だ。——雑魚なんて、二度と言うな」


 カイルの声は低く、だがはっきりと怒りを滲ませていた。

 その声を聞いたルカは、下を向いた自分を恥じた。


「友達だと? あぁ、そうか、確かにお似合いだな。落ちこぼれの雑魚と、ペテン師のお前とじゃあなぁ」


 クラウスがニヤニヤと口元を歪めた。


 レイナードは腕を組んだまま、一言も発さない。だが、その瞳には明らかな敵意が滲んでいた。


「ルカは落ちこぼれでも、雑魚でもない。俺もペテン師なんかじゃないね」


 カイルは静かに、しかしはっきりと言い切った。その声は揺らぎもせず、真っ直ぐだった。


「おい、レイナード。飼い主なら犬の躾はきちんとしたらどうだ?」


「なんだと……ッ!!」


 怒声を上げたエドウィンが、咄嗟に拳を振り上げてカイルに殴りかかろうとした——その瞬間。


 彼の足元の空間が、ふわりと歪んだように見えた。


「……え?」


 一歩を踏み出した足が、何もないはずの床に取られる。次の瞬間、バランスを失ったエドウィンは盛大に前のめりに倒れた。


 ゴンッという間抜けな音が響き渡る。


 クラウスが思わず息を呑んだ。ルカは目を見開いて固まっている。


 そんな中で、カイルが肩をすくめて言った。


「……あーあ。みっともないねぇ」


 エドウィンが転ぶのを見たクラウスは、憤りに任せてポケットから拳大の石を取り出し、カイルへ向かって投げつけた。


 クラウスの指先から放たれた石は勢いよく空を切る。だが、それはわずか一メートルも進まぬうちに、何もないはずの空間にカンッ! と乾いた音を立てて跳ね返った。


 反動で弾かれた石は見事な軌道でクラウス自身の腹部を直撃する。


「……グハッ!」


 呻き声を上げたクラウスは腹を押さえ、その場に膝をついた。


 ルカはその一部始終を呆然と見つめていた。


 ——カイルの指先は、微動だにしていない。言葉も、発していない。


 それなのに、あの瞬間。たしかに空気が揺れた。魔力が、放たれたのを感じた。


 驚愕とともに、ルカの手から鞄が滑り落ち、ドサッという音が静寂に響いた。


 レイナードの顔色が変わる。


「貴様……何をした」


 その声は低く、だが怒気が込められていた。周囲の空気が一気に冷え込み、ルカは背筋をぞくりと震わせた。


「何も?」


 カイルは肩をすくめ、あくまで軽い調子で返した。


 レイナードは一歩踏み出すと、手を掲げる。

 その指先に、赤い光が灯った。


『Sera, Flama——〈炎よ、放て〉!』


 二節の短縮詠唱と共に、レイナードの手から小さな火矢がカイルへと放たれた。

 赤い軌跡を残しながら一直線に飛ぶそれは、確かな殺意を帯びていた。


「カイル!」


 ルカが思わず叫ぶ。


 だが、カイルは一歩も動かない。

 わずかに右手を掲げ、指先を軽く払った。


 次の瞬間——

 彼の指から放たれた無形の魔力が、空気を震わせるように広がった。

 それが火矢に触れた瞬間、まるで誰かが息を吹きかけたように「シュッ」と音を立て、炎はあっけなく掻き消えた。


 残ったのは、宙に漂うわずかな水蒸気だけだった。


「……何、だと……?」


 レイナードの目が驚きに見開かれ、隣にいたエドウィンもクラウスも言葉を失っていた。


 ルカも同じだった。信じられなかった。

 あの火矢が、カイルの指先ひとつでかき消えた。詠唱なんてしていなかった。ただ、手を振っただけなのに。


 ——これが、無詠唱。


「悪くないけどさ」


 カイルが軽く笑って言った。余裕に満ちた声だった。


「やっぱり遅いな。俺なら、こうだよ」


 その瞬間、彼の足元で空気がわずかに揺れた。風が生まれ、小さな渦を巻く。

 クラウスの足元に転がっていた石が、ふわりと浮かび上がった。


 石が、風に押し上げられるようにして宙を舞った。

 そして、鋭く——まるで矢のようにレイナードに向かって飛ぶ。


 ピシッ。


 乾いた音がして、レイナードのローブの裾が裂けた。かすかに舞う布切れ。


 ルカは、思わずレイナードの顔を見た。

 驚愕が、彼を覆っていた。まるでそれが信じられないとでも言うように、目を見開いたまま固まっている。




 ◇




 信じられない——レイナードは絶句していた。


 幼年学校では、魔術の行使は禁止されている。魔術の発現は教えられていない。だからこそ、魔術を使える者など、入学直後の新入生にいるはずがない。そう、自分以外には。


 ヴァルティス伯爵家は、屋敷の敷地の一角に莫大な金を注ぎ込み、特別な訓練施設を整えた。高名な魔術師たちを何人も招聘し、魔術に生涯を捧げた彼らの指導を、自ら受けてきた。


 ——新入生の中で魔術を使えるのは、この俺だけのはずだ。


 それなのに。


 いや、それ以上に……!


 ——あいつは、いつ詠唱をした?


 魔術革命以後幾人もの高名な魔術師が短縮詠唱化の研究を続けてきた……ヴァルティス伯爵家が講師として雇った一流の魔術師も一節詠唱が限界だった。だが詠唱もせずに魔術を使ったものなど、過去に誰も存在しなかった!


 あの初代グラヴェール公ですら、伝説にあるのは「la」や「fi」といった、単音詠唱の域。


 だが——

 あいつは、言葉を発していない。詠唱を、一言も。


 それでいて、魔術を使った。


 そんなものが——そんな魔術が——


 理論上、あるはずがないのだ。


「ふざけるな……そんな馬鹿なことが……!」


 レイナードが歯を食いしばり、再び魔術を放とうとした、その時——




 ◇




「お前たち、何をやっている!」


 重々しい声が場の空気を裂いた。


 教師のガレン・ストームウィンドがこちらへ歩み寄ってくる。鋭い眼光が五人を一瞥し、全員の動きを一瞬で制した。


「入学初日から問題を起こすとはな。……即刻、解散しろ」


 その威圧に、エドウィンはビクッと肩を震わせ、クラウスも彼に肩を借りて立ち上がった。

 レイナードはわずかに唇を噛みながら、渋々と手を下ろす。


「…………覚えておけ、カイル・クロウフェル。次は、お前を叩き潰す」


 レイナードは冷えた声で言い残し、踵を返した。

 エドウィンとクラウスも、慌ててその背を追う。


 握りしめたレイナードの拳が、悔しげに震えていた。

 その背中から伝わる怒りと屈辱を、ルカははっきりと感じ取っていた。


 ガレンはカイルとルカを一瞥し、低く鋭い声で告げた。


「お前らもだ。寮に戻れ」


「はいはい、了解しました〜」


 カイルが肩をすくめて軽口を返す。


「それと、学園外での魔術の使用は禁止されている。二度目はないぞ」


 それだけ言い残し、ガレンは踵を返して学園の門へと歩き出した。


 その背中を見送りながら、カイルはポケットから小石を取り出し、指先でつまんだ。

 ふと、ルカは微かに空気が揺らぐのを感じた。——魔力の流れだ。


 次の瞬間、小石がふわりと浮かび、何の前触れもなく「すっ」と音もなくガレンの頭を目がけて飛んでいった。


 カツン。

 石が軽く命中し、ガレンは門の手前で立ち止まる。


「……?」


 彼は怪訝な顔で頭をさすり、手のひらを見つめていた。

 ルカは唖然とし、それから思わず吹き出しそうになった。


「やめといたほうがいいってば……」


 苦笑するルカの横で、カイルは知らぬ顔をしていた。




 寮へ向かう道すがら、ルカはどうしても我慢できず、思い切って口を開いた。


「ねえ、カイル……。さっき、詠唱なしで……ま、魔術を使ってたよね? 五回も……」


 カイルは少しだけ足を緩めてから、笑って振り返った。


「うん、まぁね。詠唱ってさ……あれって、魔力を自分の思い通りの形に変えるための“手順”だろ? 俺はさ、頭の中でイメージするだけで、それができるんだよね」


 あまりにさらりと告げるものだから、ルカは思わず目を丸くした。


「それって……!」


「それよりルカ、よく気づいたな。しかも、五回って。わかりやすい炎の魔術とかでもないのに」


 不意に褒められ、ルカは戸惑って声を上擦らせた。


「う、うん。僕、魔力の流れとか……なんとなく、わかるんだ。はっきり見えるわけじゃないけど、身体で感じるっていうか……」


 今度はカイルの方が驚いたように目を見開いた。


「へぇ……! そんなやつ、初めて見た。魔道具も無しで魔力にそこまで敏感なんて、ルカ、お前すごいな!」


「そ、そうかな……」


 不意に胸が温かくなるような感覚がした。

 自分を「すごい」と言ってくれる人がいる。たったそれだけのことなのに、こんなにも心が軽くなるなんて——。


 歩きながら話しているうちに、いつの間にか寮に着いていた。

 いろんなことがあったけれど、ルカは——今日は、いい一日だったと思った。

 初めて「友達」と呼べる存在ができたのだから。




 そして、ルカとカイルは同室ではなかった。


「まぁ、隣の部屋だから、当たりみたいなもんだろ?」


 カイルはそう言って、楽しそうに笑った。

 その笑顔を見て、ルカも自然と頬が緩んだ。


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