第1話 転生
前世の自分が誰なのか、はっきりとはわからなかった。
けれど、心地よい暗闇の中で眠りについたことだけは、確かに覚えている。
それから、ぷかぷかと浮いて、その後光りに誘われるように吸い込まれた。
そして——目を開けた瞬間、柔らかな光の中に現れたのは、人間の女だった。白い布をまとい、手にミルクを持っている。
匂いが鼻をくすぐる。胸の奥がキュッとなった。……どうやら、お腹が空いていたらしい。
——美味そうだ。そう思った。
それが「カイル・クロウフェル」としての最初の記憶だった。
「あら、起きたのね。カイル。さぁ、ミルクですよ」
ミルクを差し出した女性が、自分の母なのだと、すぐにわかった。
自分の体はまだ赤子で、手も足も思うようには動かせない。声も出せない。いや、出そうとしてもうまくいかない。
瓶を口に突っ込まれた。ゴクゴクと喉を通って落ちていく。
——これ、あんまり美味しくないな。
母が抱いてくれた。心地いい体温が伝わる。
今、自分には考える以外にできることはない。カイルは目を閉じた。
そのときだった。
背中から腹部へ、何か暖かいものが一筋、静かに流れ落ちるような感覚があった。
不思議と懐かしく、胸の奥にじんわりと広がっていく——どこかで知っていたような心地よさだった。
魔力だ。
なぜだかわからないが、そう思った瞬間にはもう確信していた。
この力は、前世と何か関係している。……直感めいたものだったが、確かな感触があった。
それからというもの、カイルは魔力を蓄えることに集中するようになった。
やり方は自然とわかった。目を閉じるだけで、頭の中に映像が浮かぶ。
石の隙間から零れ落ちる小さな水滴——それを器に一滴ずつ溜めていく。
器が満たされたら、それを少しずつ広げ、また水滴を受け入れる……そんなイメージだ。
この繰り返しで魔力は少しずつ貯まっていく。
どれだけ溜めても困ることはないだろう、そんな気がしていた。
それにしても前世では、自分は何者だったのだろう。けれど、不思議と焦りはなかった。母の温もりに身を委ねるのが、心地よかった。
——なるようになるさ。
クロウフェル家は、セレスティア王国の地方都市カレスティナでワイン商を営む家だった。
平民でもなく、貴族でもない。七十年ほど前、先祖が何かの功績で家名を授かったらしい。
そのあたりの詳しい経緯は知らないが、「市民階級」という肩書きは、クロウフェル家に妙にしっくりくるように思えた。
父はクロウフェル家の四代目で、商売には厳しいところがあったが、理不尽なことは言わない人だった。
言葉は少なくとも、背中で示すタイプというか——カイルにとっては、信頼できる存在だった。
三歳の時。
外は雪が降り、部屋の中も少し肌寒かった。暖炉の火は弱まり、薪の隙間で赤い炭がかろうじてくすぶっているだけ。
カイルはじっと消えゆく薪を眺めていた。
隣の父が無言で棒を取り出した。
長い金属の筒を灰の奥へ差し込み、フウッ、フウッと息を吹き込む。
すると炭の奥に赤が戻り、ぱちりと音を立てて火がよみがえる。
「火はな、空気を食って大きくなるんだ」
父はぽつりとそれだけ言って、薪を一つ足した。
カイルは再び燃え上がった炎を興味深げに眺めていた。
母は幼い頃、出かけるたびに必ず手をつないでくれた。小さな指を包み込む。体温が伝わってくる。あの温もりと優しさが大好きだった。
ただ、母は少し抜けていたこともあった。
五歳になったある日、母はフライドポテトを揚げていた。
キッチンから漂ってくる、じゃがいもと油の香ばしい匂い。カイルはテーブルで絵を描きながら、その匂いにわずかに鼻をくすぐられていた。
「ちょっと火が強いかしら……」
母の呟きが聞こえた次の瞬間、鍋の中からバチンと大きな音が響いた。
油が弾け、炎が鍋の縁から立ちのぼる。
「きゃっ!」
母が思わず後ずさる。コンロの上で、炎が換気口の近くまで届こうとしていた。下手をすれば、天井へ燃え移るかもしれない。
カイルの心が、ひやりと冷えた。
(——火を消すには水かな)
魔力を練る。
——いや。何か嫌な予感がする。
以前熱い油に水滴が落ちて母が火傷をしたことがあった。
父の言葉を思い出した。
『火はな、空気を食って大きくなるんだ』
——だったら!
目を閉じ、意識を器へと沈める。
流れ出る魔力を、すっと空間に展開——
彼が思い描いたのは、「蓋」だった。
透明な球体。
炎と鍋を丸ごと包み込み、空気の流れを断つような、柔らかくもしっかりとした膜。
すぐに効果はあらわれた。
コンロの上で、炎が一度バチ、と暴れた後——ふっと、吸い込まれるようにして消えた。
火の気はなくなり、煙だけがゆらりと残った。
「えっ……?」
母はしばらく煙を見つめ、はっと我に返ったようにこちらを向いた。
カイルは、何食わぬ顔で椅子に腰を戻した。
掌には汗が滲んでいる。
(——やれやれ、ちょっと焦ったな)
けれど母が無事だったこと、火が燃え広がらなかったことに、ほっと胸を撫で下ろす。
「カイル、大丈夫だった?」
「うん。ちょっと、びっくりしたけど」
にこりと笑うと、母も安心したように笑い返してくれた。
その晩のフライドポテトは、ほんのすこし焦げていた。でも、いつもより美味しい気がした。
豪奢ではなかったが、不思議と安心できる家だった。
暖かさがあった。……それだけで、十分だった。
カイルは六歳になった。




