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第15話 図書室にて①

 入学式から三ヶ月が過ぎ、学園の空気は夏の色に染まり始めていた。

 太陽は肌を刺すように熱を帯び、窓辺に差し込む光が床にまだらな影を落としている。

 木々の葉は深みを増した青に輝き、遠くで虫の羽音が絶え間なく響き合っていた。


 グラヴェール公爵領はセレスティア王国南東にあり、南からの温暖な風が中央山脈の冷涼な山おろしに変わる土地だった。

 日差しは熱くとも比較的過ごしやすい。


 グラヴェール公爵領の公都・グラディアスにある学園。

 その図書室の一角に、カイルたちは陣取っていた。

 古びた木製の長机の上には魔術理論の分厚い本が広げられ、埃っぽい空気に、紙の乾いた匂いが混じっていた。


「飽きた……」


 カイルはぼそりと呟き、ペンを投げ出して椅子の背にもたれかかった。中間試験が迫る中、苦手な理論書との格闘は早くも終戦を迎えたらしい。


 カイルは窓の外にいた黒猫と目が合った。野良だろうか。木陰で休んでいた猫はカイルを一瞥して去っていく。カイルはつまらなさそうなため息を吐いた。


「カイル……まだ始めて三十分も経ってないよ……」


 隣で魔術理論を教えていたルカが、あきれたように肩をすくめた。


 ルカは入学試験では魔術理論で散々な結果だったが、入学後はみるみるうちに頭角を現した。いまやその理論成績は学年トップと呼べるほどにまで伸びている。


 ただ一つ、彼には致命的な欠点があった——魔術の行使が、まだ一度もできていない。

 そのため先週の総合席次では、一〇六人中、最下位。いくら他の科目が優秀でも、魔術が使えなければ話にならない。


 魔術科は魔術師を育てる場——それが、この学園の原則だった。


 最近、ルカの名前が「落ちこぼれ」と同義で囁かれることが多くなっていた。


 カイルと一緒にいる時は、誰もそんなことは言わない。だが、一人になったルカの背中には、冷たい視線と小さな嘲笑が容赦なく降り注ぐ。


 ある日、カイルは廊下の角で、ルカがすれ違いざまに「早く辞めればいいのに」と吐き捨てられるのを見た。


 ルカは何も言わずに唇を噛み、俯いて通り過ぎた。その拳が、教科書の端を白く押し潰していたのを、カイルは覚えている。


 それでもルカは勉強をやめなかった。黙々と、ひたすらに。


 ——あいつ、本当に強いな。


 カイルは、ルカのことをなんとかしてやりたいと思っていた。


 あいつは努力している。目に見えるくらい真っ直ぐに、誰よりも諦めが悪く、黙々と足掻いている。それを放っておくのは、自分の性には合わなかった。


 ——なのに。


 幼年学校の頃、隣の席だったあの少女の顔が、どうしても脳裏をよぎる。

 だから今も、手を伸ばしかけては、躊躇う。

 何かを言えば、何かをしてやれば——その先に、また同じものが待っているのではないか。そんな不安が、いつも足を止めた。


 ——情けねぇな。


 自嘲気味に舌打ちし、カイルはペンを握り直した。目の前には、いまだ理解不能な魔術理論の公式。だがそれより、頭の中の葛藤の方がよほど厄介だった。


「ねえ、カイル、飽きたならさ、あたしの研究室に行かない?」


 茶色の制服を着た少女が声をかけてきた。工魔科一年、エリナ・フォルツ。

 栗色のショートヘアを揺らしながら、目をきらきらと輝かせ、隣のカイルの袖をぐいと引っ張る。セレスティア王国の東にある、ルクセイン公国から来た女子生徒だ。


「絶対やだよ。お前と二人きりはごめんだ」


 カイルは眉をひそめたまま、ペンを机に叩きつけるように置いた。目線は本から逸らさない。


 初めての魔術行使の授業の日、カイルと初対面のエリナはこう言ったのだ。


「解剖させて! 人体実験いいよねぇ? ねぇ、いいよねぇ!」


 ぐいぐい距離を詰めてくるその様子は、明らかに異常だった。




 あの初めての魔術行使の授業——。


 カイルは無詠唱魔術を隠す気などさらさらなく、授業中にも堂々と披露した。


 それを目の当たりにした教師、ガレン・ストームウィンドは即座に上に報告した。


 学園はたちまち騒然となり、授業後、演習場から教室に戻ったカイルは教師たちに取り囲まれ、教員室へと連行された。


 それからというもの、その日の授業が終わるたびにカイルは“缶詰状態”となった。


 ——本人いわく「取り調べ、もしくは尋問」である。


 連日連夜、教員たちの質問攻めにあい、寮へ戻るのはいつも夜の十時を過ぎていた。


「……こんなことになるなら、隠しときゃよかった……」


 カイルは本気で頭を抱えた。


「どうやって無詠唱魔術を使うのか?」という当然の質問に、カイルはこう答えた。


「なんとなく魔力を形にして、念じたらできますよ」


 彼は本気でそうして魔術を行使しており、他に答えようもなかった。

 教師たちはその方法をどうにかして解明しようとしたが、手がかりすら掴めず、頭を抱えるばかりだった。


 二週間後、カイルは「要観察対象」としてようやく開放された。

 ただし、毎週の無詠唱魔術に関するレポートの提出が義務付けられた。


 ——もちろん、カイルは適当に書いたり、そもそも出さなかったりして、毎度叱られている。




「そういえば……」


 栗色の髪を掻きながら、エリナがふと思い出したように言った。


「魔術科と工魔科、共通のレポート課題って書いた?」


「あー……“魔力は人以外に宿るのか?”ってやつか」


 カイルは天井を仰いでから、あっさりと言い放つ。


「まだ。ルカに昼飯奢るから、書いてもらおうと思ってた」


「えっ?!」


 突然名前を出されたルカは、ペンを落としそうになりながら目を丸くした。


「やっぱり人以外だと魔族や魔物かなぁ? 植物とか動物とか、石とか金属とか、そういうのには魔力ってないんだよ。魔力計で測ったことあるし」


 エリナが当然のように言い切ると、ルカは戸惑ったように口を挟んだ。


「え? でも、そんなことはないんじゃ……」


 エリナはすかさず返す。


「でもほんとだよ? 工魔科の先生にも確認したし」


 ルカは何か言い返そうとしたが、口を閉じた。


 ——カイルには、それが少し気にかかった。


 ルカが他人の魔力を感じることができることと関係してるのかもしれない。

 ルカはそのことを人に話そうとしないし、言わないでほしいとも言われた。


(まぁ、俺も前世のことは内緒にしてるしな。そもそもほとんど覚えてねぇけど)


 カイルはポリポリと頭を掻いた。

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