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第62話 仮面の奥の微熱

 シーツの取り替えも、三度目。

 薬草を煮出した湯も、朝から何度も替えた。


 ハルカの額には、うっすらと汗が浮いていた。

 意識していなかったが、ほとんど休憩も取らず動き通しだった。


 「……ふぅ」


 ちょっと腰を下ろそうとしたそのとき、控えめな足音が近づいてきた。


「様子はどうだ?」


 仮面の梟が、包みを片手に部屋へ入ってきた。

 仮面をつけたまま、けれどその声色にはいつものような“見下ろすような棘”はなかった。


 「それ……?」


 「温めてきたスープと、やわらかいパンだ。台所の者に少し手を借りた」


 言葉は簡潔で丁寧。それでいて、どこか“よそ行き”とは違う気配があった。

 ハルカが戸惑いながら受け取ると、彼は椅子を引いて静かに腰を下ろす。


 「栄養が足りなくなれば判断力も鈍る。看護は、消耗する仕事だろう」


 その言葉に思わず目を見張ると、仮面の奥で目を細めたような気配がした。


 「……ありがとう。いただきます」


 「ああ」


 ハルカが器に口をつけるのを見届けて、彼はようやく小さく息をついた。

 通りすがりの若手兵士が、ちらりと中を覗き見てひそひそと話す声が背後から届く。


 「……え、仮面の梟が、あの子に差し入れ?」

 「何考えてるのかわかんないけど、あんなの初めて見た」


 その声を、仮面の梟は無視した。


 「……騒がしいな。まったく、無粋な連中だ」


 静かに立ち上がり、部屋を出る素振りを見せたそのときだった。

 ふと振り返って、ハルカにだけ向けるように——彼は、低く、静かに問いかけた。


 「……ちゃんと、寝てる?」


 それは、それまでの声とは少しだけ違っていた。

 厳しさでも皮肉でもない、仮面を透かして届いた、優しい問いだった。


 「え……あ、はい。まあ……ちょっとは」


 答えになっていない返答に、彼はしばらく沈黙していたが、やがて静かに言う。


 「……君が倒れたら、ゼフィルだけじゃなく、俺たちも困る。

  ——それだけじゃなく、俺が……気持ちよく笑えなくなるから」


 それは、仮面の下に隠した、本音だったのかもしれない。


 言ってしまってから、少し間があいた。


 仮面の奥で、視線が泳いだような気がした。


 「……コホン」


 咳払い一つ。緩んだ気持ちを正すように、彼は声の調子を整え直した。


 「……療養担当としての任務、引き続き期待している。無理はするな」


 再び仮面の梟の口調に戻ったその背中は、すっと踵を返し、

 静かに、まるで気配さえ残さずに扉の向こうへと消えていった。


 残されたハルカは、器を見つめながら、胸の奥が妙に温かくなるのを感じていた。


 (……いまの、“仮面の梟”じゃなくて、“あの人”だったような……)


 

 * * * * * *


 

 薬草を煮出した湯を器に注ぎ、清潔な布を浸していたハルカは、ふと気配を感じて振り返った。


 ——ゼフィルの睫毛が、微かに揺れた。


 「……っ」


 瞬きを一度、そしてまた一度。

 ゆっくりと瞼が開き、淡く赤みを帯びた瞳が光を受けて揺れる。


 「……ハルカ様……?」


 掠れた声が、名を呼ぶ。


 その瞬間、ハルカの胸の奥がじんわりと熱を帯びた。

 胸に手を当て、こみ上げそうになる感情をそっと押しとどめる。


 「……無事で……よかった」


 声はかすれていたが、それだけで十分だった。

 瞳の端に浮かんだ涙が、静かにこぼれ落ちる。


 ゼフィルは、まだぼんやりとしたまま、微笑んだ。


 「……僕を、助けてくださったのですね?」


 その微笑は、どこまでも穏やかで、夢の中のように儚かった。

 かつて失った彼が、再び目の前に現れたようで——

 ハルカは、唇をきゅっと結び、もう一度、小さくうなずいた。


 ゼフィルの微笑みに、部屋の空気がふっと和らいだ。


 療護士見習いの青年が、ぽつりと呟く。


 「……この人が、スパイなわけないだろ」


 「まるで……ほんとに、天使みたいだな」


 若手兵士たちも、口々に同じような言葉をこぼす。

 それは理屈ではなく、目の前の“存在”が放つ印象によるものだった。


 そのあまりの儚げな美しさと静けさに、疑念の声は自然と萎んでいった。


 ハルカは手にしていた器をそっと置き、ゼフィルの顔を見つめる。


 その視線の奥には、戸惑いと困惑が揺れていた。


 (……この人、“ゼフィル”は、ゲームの中では王妃のスパイだった)


 たとえ今、どんなに柔らかい声で語りかけてきても——

 あの物語の記憶は、簡単には消えてくれない。


 (でも……こんな顔で、あの役割を果たしていたとしたら)


 心の奥に、ぞくりとした感覚が広がる。


 (……ゲームの中のあの人……とは、違う。……違うはず)


 自分にそう言い聞かせる。

 でも、胸のざわめきは、なかなか消えてくれなかった。


 ゼフィルは、ゆっくりと身を起こす。まだ血色の薄い顔に、静かな笑みを浮かべていた。


 「……お騒がせしてしまい、申し訳ありません。

 僕はゼフィル=アルネスト。……疑われて然るべき立場だとは思っています」


 室内が一瞬、緊張に包まれる。

 だが、ゼフィルはまっすぐに続けた。


 「王命により、寝返ったとされる諸侯の監視任務に就いていました。

 ……そこで、何者かに襲撃を受け、このような姿に」


 「っ……」


 小さく息をのんだのは、部屋の隅で包帯をたたんでいたおばちゃんだった。


 「んまぁあああ!! こんな天使みたいな子に、どこの誰がこんなヒドイ真似をぉ!?」


 おばちゃんの声が反響するように、周囲の兵士たちも顔を曇らせる。


 「それって、つまり……王妃一派の仕業ってことかよ……?」


 「ひでえ……こんなか弱い人、よくも……」


 「いや、この人が何をしたって言うんだよ……」


 室内の空気が一変する。

 疑念ではなく、同情と憤りが、静かに波紋のように広がっていく。


 まるで、美しいガラス細工が傷つけられたかのような空気に、誰もが「責める」方向へ思考を向けることを躊躇い始めていた。


 ゼフィルは、そんな視線を正面から受け止めながら、ただ静かに頭を下げる。


 「僕を疑っていただいて構いません。それでも、皆さんの前で嘘は申しません。

  ……どうか、それだけは信じていただけたらと——そう思っています」


 その潔さが、決定的だった。


 空気が、完全に“ゼフィル擁護”へと傾いたのを、ハルカは肌で感じた。



 * * * * * *


 ゼフィルの容態にひとまず安心したハルカだったが、緊張が切れた反動が一気に押し寄せる。


 「っ……!」


 意識がふっと遠のく。

 視界が傾ぎかけたその瞬間、しっかりとした腕が背と膝をすくい上げる。


 「……君の無理は、もう見過ごせない」


 低く穏やかな声。

 振り向くと、仮面の梟が無言で彼女を抱き上げていた。


 「えっ、ちょ……!」


 部屋の者たちが驚く間もなく、彼は淡々と歩き出す。


 「彼女は預かる。療護士が倒れては本末転倒だ」


 ぴたりと足音が止まったのは、隣室ではなく、さらに奥にある個室の前だった。

 扉を開け、迷いなく中へ入る。


 「……ここは俺の部屋。今夜は、しっかり休んで」


 ベッドに静かに下ろされたハルカは、ようやく状況を飲み込む。


 「な、なんであなたの部屋に……!」


 「君の寝床は仮設小屋だろう? あの環境に戻して、また倒れられても困る。

 ……それとも、俺がここを譲って床で寝ろと?」


 「そ、それは……」


 言い返せずにいるハルカの額に、そっと手が触れた。

 仮面の奥から、微かに息をつめた気配が伝わってくる。


 「……少し熱がある。やっぱり、もう少し休んで」


 その口調は、どこか優しくて、真剣だった。


 まるで、仮面の梟の皮を被ったレオニスが、そこにいたかのようで——

 ハルカは思わず目を伏せる。


 (ずるいよ、こんなの……)


 とろりと滲むまぶたの裏に、仮面の奥の琥珀色が、焼きついていた。


 * * * * * *

 

 仄暗い部屋のなか、どこか懐かしい温もりに包まれて、ハルカはゆっくりとまぶたを開けた。

 (……こんなに、ぐっすり眠れたの……隠れ里に来て、はじめてかも)


 柔らかな布の感触、肌を撫でる空気の心地よさ。

 ハルカがぼんやりと身を起こしかけた、そのときだった。

 ……目に入ったのは、寝台のすぐそば、椅子に腰掛けている人物——。


 仮面を外した、レオニスだった。


 柔らかな琥珀色の瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。

 驚きと困惑が一気に押し寄せて、ハルカは思わず声を上げた。


 「……きゃっ!? な、なに見て……!」


 慌ててタオルケットを胸元まで引き寄せる。

 でも、身体はまだ本調子ではなく、動揺に反して動きが鈍い。


 そんなハルカに、レオニスは少しだけ目を細めて、優しく微笑んだ。


 「君の寝顔、思ってたより……ずっと可愛かったから」


 さらりと言うには、声がやけに低くて穏やかだった。

 “レオン”でもなく、“仮面の梟”でもない、レオニスそのものの声。


 ハルカはカァッと顔を赤らめて、返す言葉を探そうとしたけれど……まだ頭が少しぼんやりしていて、うまく言い返せない。


 「ちゃんと眠れた? 無理してただろ、ずっと」


 まるで自分の疲れを、すべて見抜かれていたかのような口ぶりに、ハルカは目を伏せるしかなかった。


 レオニスは、仄暗い部屋に差し込むやわらかな明かりの中で、ふっと微笑んだ。


 「……二人きりのときは、レオニスって呼んでくれないか?」


 その声は低く、静かで、どこか照れたような響きを帯びていた。

 けれど、すぐに続いた言葉は、彼の胸の奥から絞り出すような、真っ直ぐなものだった。


 「……君の前だけでは、本当の自分でいたいから」


 ハルカは一瞬、言葉を失った。


 その表情も、声も、目の奥の揺らぎも。

 仮面の梟として冷静に振る舞っていた姿とも、

 レオンとして軽やかに笑っていた姿とも違う——。


 そこにいたのは、仮面も仮名も脱ぎ捨てた、“レオニス”その人だった。


 偽りの肩書きに縛られてきた男が、いま目の前で、ただの一人の青年として、自分だけに向けて心を開こうとしている。


 ハルカの胸が、ぎゅうっと音を立てて締めつけられたように熱くなる。


 「……わたし、そんな特別じゃ……」


 震えるような声で、ぽつりとつぶやく。


 でもその言葉を遮るように、レオニスはそっと身を寄せ、ベッドの上に添えられていたハルカの手を、ためらいなく包み込んだ。


 彼の手は、ほんの少しひんやりしていて、それでも優しく、心地よい温度を宿していた。


 「君が“特別”じゃなかったら、誰が特別なんだよ」


 静かに、だけど迷いなく告げられたその言葉が、まっすぐにハルカの心へと染み込んでいく。


 どれだけ隠しても、抑えても、心がふるえていた。

 ——この人の本当の顔を、いま、わたしだけが見ている。


 それがどれほど、特別なことなのかを。

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