第61話 天使はスパイの顔をして
その日、隠れ里に緊急の伝令が駆け込んだ。
「王妃一派の追っ手を撒いた形跡のある、身元不明の青年を発見。重傷で、搬送中です!」
報せを聞いた広場はざわめきに包まれる。
カイネルは即座に指示を飛ばし、ヴィスも魔導陣の再点検に動くなど、空気は一気に緊迫した。
そして——数人の兵に担がれて、問題の青年が担架で運び込まれた瞬間。
その顔を見たハルカの時間が、ぴたりと止まった。
(……ゼフィル!?)
かつて、ルルカの村での魔力異常の調査や王立魔導研究院で王直属の監察官として付き添ってくれた。
そして——別の時間軸で壊れかけたわたしに寄り添ってくれた人。
あの静かな微笑み。あの壊れてしまいそうだった夜に、ただそばにいてくれた、優しい手。
けれど——
(……乙女ゲーム『薔薇と鏡の王国』でのゼフィルの正体は、“王妃のスパイ”だった。ゲームの中では、その天使のような顔で裏切り者として登場していた……)
脳裏をよぎる不安と、現実の彼の姿。
血に濡れた衣服、意識朦朧とした表情、今にも消え入りそうな呼吸。
(でも、それでも……)
(わたしは、この人を放っておけない)
胸の奥で、何かが強く訴えた。これはもう、理屈ではない。
ハルカは一歩、皆の前へと踏み出す。
足は震えていたが、声だけははっきりと出た。
「この人……知ってます。ゼフィル=アルネスト。王直属の監察官です。
わたしと、以前――一緒に行動していました」
ハルカの声に、周囲がどよめいた。
「王直属……ってことは、敵じゃないってことか?」
「いや、でも監察官って……スパイみたいなもんだろ?信用していいのかよ……」
「下手すりゃ王妃とも繋がってる可能性だって……」
剣に手をかけようとする若い兵士もいたが、それより早く、フィリオが一歩前へ出る。
その動きは実に自然で、静かだったが、空気が明らかに変わった。
「……その判断、もう少しだけ保留にしていただけませんか」
彼は落ち着いた声で告げ、負傷者へと視線を移す。
「この方は重傷を負っている。事情の確認は、応急処置の後でも遅くはないはずです」
「……そうだな」
カイネルも頷き、皆へと声をかける。
「騒ぐな。敵か味方かの判断は後回しだ。今は命を最優先しろ」
その一言で、兵士たちの警戒がほんのわずか緩んだ。
フィリオが近づき、傷の状態を確認する。その背に、ハルカは小さく手を上げる。
「その、わたし、補助に入れます。多少ですけど、応急手当の知識があるので……」
フィリオは、静かにハルカを見た。夜に見せた柔らかな眼差しが、再び宿る。
「それは、心強い。ではお願いしてもよろしいですか、ハルカさん」
「……はい!」
* * * * * *
ハルカは、担架に横たわるゼフィルの姿を前に、目の奥がしんと冷えるのを感じていた。
「ひどい熱と……腹部に内出血、あとは魔導干渉の痕跡があります」
フィリオが淡々と診断を述べる。
その手には、魔力を帯びた検査具のような魔導道具。青白く揺らめく光が、ゼフィルの身体の上を走るたび、深く損傷した箇所が淡く浮かび上がった。
「私が術式の処置にあたります。ハルカさん、補助をお願いできますか?」
「……はい」
こくりと頷きながらも、ハルカの胸中は静かにざわめいていた。
(この人は、ゲームでは“王妃派のスパイ”だった。でも——)
(でも、私だけが……知ってる。あの時、ノアを亡くして私が一番辛かったとき、彼だけがそばにいてくれた)
フィリオが術式診断を進める傍らで、ハルカは寝床の整備と包帯交換を続けていた。
その手つきに、周囲の若い兵士たちが小声でざわつく。
「すごい……あんなこと、できるんだ……」
「いや、あれ、見様見真似じゃできないよな……?」
そんななか——
ゼフィルが小さく呻き、うっすらと瞼を持ち上げた。
透けるような長い睫毛の奥からのぞいたのは、まるで宝石のように鮮やかな紅い瞳。
「っ……!」
「……やば、見た!?」「目、今、開いた!」「え、うそ、超綺麗……」
「天使……いや、もうこれは天使でしょ!?」
野次馬の一団から、悲鳴に近いどよめきが上がる。
その中に混ざって、ひときわ濃い声が響いた。
「んまあああ!!あの目ぇ見た!? 透き通って……なにあれ、宝石!?え、ほんまに人間!?!?」
周囲の若手団員たちが引く間もなく、おばちゃんは手を合わせて感極まった様子で叫んだ。
「アカン……こらアカンわ……あの子、目ぇ覚ましただけで世界救えるわ……!!」
あまりに真剣な顔と勢いに、ハルカは思わず——
ぷ、と小さく吹き出してしまった。
(……なにそれ。ちょっと、もう……)
気が張りつめていたぶん、なんだかおかしくて。
ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。
ハルカは思わずゼフィルの顔を覆うように身を乗り出し、静かに呼びかけた。
「……大丈夫、もう安全だから。ゆっくり休んで」
ゼフィルの唇がかすかに動く。何かを言いかけたようだったが、またすぐに瞼が閉じられた。
その手がハルカの手に触れかけて——
(この瞳を……わたしは、忘れるわけがない)
フィリオがふと、騒がしい周囲から視線を戻し、低くハルカに問いかけた。
「この寝床の仕立て……随分と工夫がされていますね。これは……ご自身の知識?」
「……はい。前に、似たような看病をしたことがあって……その時、こうすれば楽になるって覚えました」
ハルカはそう言いながら、藁の寝床をゆっくりと手で均していく。
(藁の寝床は……扱ったことはないけれど、それでも、こうやって実践で慣れるしかない)
尖った藁の先を内側に折り込み、身体が直接あたらないように布で包む。
寝返りの際に身体が沈み込みすぎないよう、わら束の向きを整えながら慎重に調整していく。
「あと……衛生とか、湿気とか。うまく工夫すれば、熱がこもらずに済むかもしれません」
「……療養に関する技術か。なるほど、実に合理的ですね」
思わず、フィリオの瞳がわずかに見開かれる。
(さすが、戦術と防衛の人……理にかなっているものにはすぐ気づく)
その横で、ゼフィルがかすかに眉を寄せ、微かに指先が動いた。
(ゼフィル……)
ハルカはその手を、そっと包む。
たとえ、あなたが“裏切る側”に立つとしても——
(わたし、あなたの手を、離せないよ)
* * * * * *
ゼフィルの容体は、依然として不安定だった。
高熱、内出血、そして魔導干渉による精神の揺らぎ。
外傷は薄れても、体内の乱れは消えていない。
ハルカは、今日も看護にあたっていた。
——手作業で、少しでもできることを。
「そっちは、熱湯が足りないからもう一度……あ、火元は気をつけて」
煮沸中の桶から湯気が立ち昇る。
台所の一角で、大鍋の中に布類を放り込んでは、しゃもじでぐるぐるかき回しているおばちゃんの姿があった。
「んもう……菌とかばい菌とか、見えんもんが一番タチ悪いんやから……!」
「ま、見えへんけどねッ!!」
湯気の向こうで豪快にうなずく。
「布を煮るって……そういうやり方もあるんだな」
手伝いに来た若い兵士が思わず声を漏らすと、
「そらそやろ、アタシの時代からの知恵やで。ほら、あんたもこの布ぎゅっと絞って!」
と、ちゃっかり手伝わせていた。
「高熱が続いてるから、細かい悪さをするもの、できるだけ減らしたくて」
と、ハルカが口を挟むと、
「そうそう!そういうやつ! 悪さするやつや!」
と、大きくうなずいたおばちゃんが、がっしりと腕を組んでにっこり笑う。
室内も、こまめに掃除していた。
湿気のこもりやすい寝床の下、壁際の埃、空気の流れ。
古い布での拭き掃除では不十分と判断し、薬草を煮出した湯に浸した布で磨いていく。
「すご……ここまでやる?」
「熱が出てると、ちょっとの埃でも咳き込むからね。あと、床が汚れてると感染症にかかっちゃう」
「やる子やねぇ……」
おばちゃんは湯気の奥から、目を細めてハルカを見ていた。
その頃、ゼフィルの周囲では淡く結界が揺れていた。
それを維持しているのは、壁際に控えるフィリオだった。
「結界式は正常です。封じの術式も安定しています」
「……ありがとうございます。じゃあ、私はこっちを続けますね」
術式による魔導の封じと、地道な身体のケア——
ふたりの役割は、自然と分担されていた。
「ハルカさんって、何者なんだろうね……」
「正直、医務官でもここまではやらないよな……」
ぼそぼそとささやき合う声が、背中越しに届いた。
「助けると決めた以上、最善を尽くすだけだ」
通りかかったカイネルが、声を投げる。
だが彼の視線は、あくまで冷静だった。
ゼフィルという存在への警戒は、まだ完全に解かれてはいない。
* * * * * *
日が傾き、薬草を煮出した湯の香りがほのかに室内に漂っていた。
熱を下げるための湿布を交換しようと、ハルカはゼフィルの寝床に近づく。
新しい布を軽く冷水に浸し、絞る。
その手が、ゼフィルの額に触れようとしたとき——
「……安心して……泣いて、ください。……僕は……ここに……いますから……」
微かに揺れた声が、ハルカの胸を貫いた。
ピタリ、と動きが止まる。
(……え?)
呼吸が一瞬、詰まった。
思わずゼフィルの顔を覗き込む。
頬には汗が滲み、まぶたは閉じたまま。
意識は戻っていない。
それでも、確かに——
「……今のは……」
震える指先が、わずかにゼフィルの髪に触れた。
その言葉は、別の時間軸で彼が寄り添ってくれたときと、まったく同じだった。
(覚えているわけがない。……忘れているはずなのに)
心がざわつく。
否応なく、あの夜の記憶が蘇る。
ノアを失い、崩れ落ちた自分のそばに、彼だけが残っていた世界で——
そのとき彼は、確かにこう言った。
「——安心して泣いてください。僕は、ここにいますから」
(でも、あれは……“あのゼフィル”の言葉)
目の前の彼は、あの世界のゼフィルではない。
寄り添ってくれた記憶は、彼の中にはない。
「偶然……偶然でしか、ないよね」
そう自分に言い聞かせて、布を額にあてる。
額の熱はまだ高く、意識も戻る気配はない。
(……こんなことで、揺れてる場合じゃない)
ハルカは、ふうっと小さく息を吐いた。
動揺を押し込め、再び手を動かし始める。
けれど、その胸の奥には、淡い震えが、確かに残っていた。




