第56話 零からの観測点
革命軍での生活は、想像以上に厳しいものだった。
山間の隠れ里には霧が立ち込め、空気も冷たい。物資は最低限。暖房は薪頼りで、建物の隙間風が容赦なく肌を刺す。
見張りや訓練に出る者も多く、誰もが己の役割を黙々とこなしていた。
総勢はおよそ五十名。うち、女性はハルカも含めわずか五名に過ぎない。
幹部であるエレナは機密保持のため個室。その他の三名は、女性用の雑居部屋に暮らしていた。
ハルカにはその部屋に空きがなかった——というのが建前だったが、実際には“魔力異常の観察対象”という特殊な事情と、
何より犬・スフレを伴っていたことが大きかった。
結果として与えられたのは、元は資材置き場として使われていた小さな仮設小屋。
壁は薄く、夜になれば隙間風が吹き込み、床板も湿気を吸って冷たく沈む。
寝台も古びており、衛生面もお世辞にも良いとは言えなかった。
夜になると近くの建物から酔った男たちの声が響き、鍵のない扉がぎしりと揺れるたびに、心がひやりと凍った。
水は地下から引かれた魔導ポンプで賄われていたが、汲み上げは手作業で、団員の当番制。
お湯が欲しいときは、炊事用の大鍋で沸かしたものを分けてもらうしかない。
風呂場などなく、桶に張った水で身体を拭うのが精一杯だった。洗髪には、天然由来の葉草をすり潰した簡易洗浄剤を用いる。
トイレもまた悩みの種だった。
小屋には個室の設備などなく、夜になると懐灯ひとつで女性用共同トイレまで向かわなければならない。
人目こそないが、薄暗く、足場も悪い夜道を歩くのは毎回肝が冷える思いだった。
草の擦れる音にすらびくりと肩をすくめ、誰かの足音のようなものが聞こえた気がするたび、心臓が跳ねた。
けれど、それでも——
(……私は、王都から来た“よそ者”なんだ)
ハルカは何度も、そう自分に言い聞かせていた。
この閉ざされた隠れ里の中で、女性の数は限られており、魔力異常の観察対象である自分が個室を与えられたこと自体、異例中の異例なのだ。
どんなに心細くても、どんなに過酷でも、「与えられた環境に文句を言うなんて、違う」と、自分を諭してきた。
ありがたいと思わなきゃ。
ここにいられるだけで、十分——そう、何度も。
けれど、本音を言えば、戸惑いは拭えなかった。
王都の仮宿舎では、簡易とはいえ魔導水路による水洗式トイレがあり、個室の小さな浴室も備わっていた。
最低限の清潔と安全が守られた暮らしから、ここまで一気に水準が落ちると——
(これが、“異世界転移”の現実なんだ)
夢ではなく、本当にこの世界に生きているのだと、肌で思い知らされた。
それも、“王都の女”として、突然革命軍の中に放り込まれた存在として——。
そんな中、犬を連れて現れた異分子に向けられる視線は、決して温かいものではなかった。
「……犬なんか、連れて……」
「また厄介な荷物が増えたな」
木製の長机が並ぶ食堂。ハルカはスフレと並んで座っていた。
スフレは大人しく足元に伏せている。だが、その存在すらも、周囲の警戒心を煽っているようだった。
誰も彼女の隣に座ろうとはしない。
まるでそこだけ空気が澱み、壁ができているかのようだった。
(……居場所がないのは、慣れてる。だけど、ここで何かできるなら——)
そう思いながら、笑顔を浮かべてはいるけれど、心の奥では黒い波が立ちのぼっていた。
(……結局、またこうなるんだね)
職場でも、学校でも、どこにいても——私は“異物”だった。
誰かの視線が刺さるたび、自分の存在が否定されるようで、息が詰まる。
(……私、また、独りだ)
喉がひりつくように痛んだ。
——そんなはずじゃなかった。
ここに来て、何かを変えたかったのに。
ふいに、あの頃の記憶がよみがえる。
真新しい白衣。慣れない手技。張りつめた空気と、止まった小さな心臓。
(……看護師として研修が終わって小児科に配属された時だった。あの時、私は……)
わずか五ヶ月——それだけで、心が折れた。
死にゆく子どもを前に、何もできなかった自分。
誰にも助けを求められず、責任をなすりつけられて、うまく言葉も返せなくて——
ただ、現場から、逃げ出した。
それから私は——
人と深く関わることを避けるようになった。
誰にも気づかれず、誰にも期待されずにいられる場所。
そう思って飛び込んだブラック気味なIT企業で、ただ与えられた仕事だけをこなし続けた。
職場の喧騒にも、社会の流れにも、距離を置いて。
気づけば15年、私は空気のような存在として、ただそこにいた。
……逃げていたのかもしれない。
でもそれは、必死に立ち止まらないための歩みでもあった。
けれど——
(……ここで出会った人たちは、違った)
ライエルに守られて、ノアに寄り添われて、——そして、アスランに受け入れてもらった。
私が信じた人たちは、確かに私を必要としてくれていた。
私も——ようやく、人と関わろうとしていた。
(だから……今度は、逃げたくない)
目を閉じる。深く、息を吸った。
嵐のように渦巻く過去を、ひとつ、ふたつ、胸の奥に沈めていく。
目を開けると、目の前にはスフレがいた。静かに見上げるその瞳が、何も言わずに寄り添ってくれている。
(……ここが異世界で、私は“異物”として扱われても、当然なのかもしれない)
(むしろ、知らない世界で保護されて何不自由ない生活を送れていた事——、
そしてライエルも、ノアも、アスランも、私を対等に見てくれていた事。あれがどれほど恵まれていたのか、ようやくわかる)
それを思えば、今のこの冷たい視線にも、どこかで納得できてしまう。
(私はまだ、何もしていない。何も、示せていない)
だから、ここからだ。
小さくうなずいて、ハルカはスフレの頭をそっと撫でた。
毛並みのあたたかさが、胸の中の芯を、少しずつ溶かしていく。
誰かに信じてもらえることが、なんて大きな力だったのか。
(だけど、ここで何かできるなら——)
ハルカは立ち上がり、空いた食器を手に取った。
「手伝わせてください。……少しでも、何かできればと思って」
洗い場で無言だった初老の男性が、ふと顔を上げる。
「……助かる」
その一言に、わずかに和らいだ目元が見えた気がした。
* * * * * *
薪が爆ぜる焚き火の傍に、気配もなく現れた男がいた。
黒いフードの奥、革と金属で作られた梟の仮面が、ゆらめく火の明かりに照らされて浮かび上がる。
「……具合は、どうだ。ハルカ」
静かな、けれどよく通る声だった。
仮面越しでも、その声を聞けば誰なのかはすぐにわかる。
ハルカは振り向き、言葉を失う。
(……仮面の梟。でも、レオニス……)
この姿で話しかけられるのは初めてではない。けれど、何度会ってもこの距離感には戸惑う。
それでも、声の端々に含まれるかすかなぬくもりに、心のどこかがふと和らいだ。
「謝りに来た。……あの時、勝手なことをして、すまなかった。
本当は、もっと早く言うべきだったのに」
焚き火の明かりを背にして、仮面の男は少しだけ頭を下げる。
その仕草には、驚くほど自然な誠意がにじんでいた。
「……っ」
ハルカは何も言えず、ただ炎を見つめる。
仮面の奥の表情は見えない。けれど、声に込められた熱だけは伝わってきた。
やがて彼は、焚き火に細い枝をくべると、ゆっくりとその場に腰を下ろした。
「俺は……この国の今のあり方を変えたい。
魔力があるかないか、貴族か平民か、そんなもので人を測る世界を。
王妃——ヴァレリアの手で歪められた、この王国の未来を、正したいと思っている」
仮面の奥にあるはずの瞳は見えない。
けれどその言葉は、どこまでも真っ直ぐだった。
「ハルカ。お前がなぜ王妃に目をつけられたのか、考えたことはあるか?」
「……正直に言うと、わかりません。ただ……少し前から、視線を感じるようになって……」
「それが答えだ」
「……え?」
「王妃の魔法は、“共鳴しない魂”に対して特に敏感だ。
……お前を見ていると、ときどき不安になる。
俺たちの常識や価値観とは、まるで違う軸で動いているように感じるんだ」
その言葉に、胸の奥がひやりと冷えた。
(……わたし、この世界に……やっぱり馴染めてなかった?)
何気ない問いかけに、不意に突きつけられたような気がして、少しだけ息が詰まった。
仮面の男の声は、あくまで静かだった。
けれど、火のような熱を内に秘めていた。
「王妃は、そういう存在を排除しようとする。たとえ明確な理由がなくても。
俺たちが動かなければ——この国は、もう長くはもたない」
ハルカは黙って頷いた。
今の自分に何ができるかはわからない。
けれどその言葉は、不思議と胸に残った。
しばらく沈黙が落ちたあと、仮面の梟は肩越しに声をかけた。
「……俺としては歓迎している。お前が加わったことを。
少なくとも、“面白くなりそう”だと考えてる奴は、ここにひとりいる」
「……からかわないでください」
ハルカは視線を逸らしながらも、ほんの少しだけ、頬が緩んでいた。
それを見ていたのかいないのか。
仮面の男は何も言わず、焚き火にひとつ薪をくべた。
「なら、証明してくれ。
お前が、この国の未来を変える一員になれることを」
炎の奥から届いたその声に、ハルカはほんの少しだけ、背筋を伸ばしていた。




