第57話 小さな信頼
霧に包まれた山間の隠れ里。
革命軍の訓練は、まだ夜の名残が残る早朝から始まっていた。
その日、ハルカは補助要員として、団員たちの山狩り訓練に同行していた。
背中には予備の水筒と簡易救急セット。足元は慣れない登山靴。冷たい朝露が靴の縁から染み込み、心細さがじわりと胸に広がる。
(ここでは、誰も私を知らない。それでも、何かできるって思いたかった)
訓練は実戦さながらで、団員たちは黙々と足を進め、岩場や倒木を越えていく。誰も雑談などしない。
その緊張感に呑まれそうになりながらも、ハルカは黙って後ろについていった。
そのときだった。
「わっ!」
乾いた叫び声。
先頭付近の団員が足を滑らせ、崖下へと消えた。
「落ちたぞ!」「どこだ、見えない……!」
一気に空気がざわめき立つ。だが霧と茂みに遮られ、落下地点は見えない。
そんな中、スフレが「ワン!」と一声吠えて、斜面の一角へまっすぐに走り出す。
「おい、あの犬、何か見つけたのか?」
団員の一人がスフレの後を追って草をかき分けた。やがて声が響く。
「ここだ!生きてる、意識もある!」
緊張が一気にほどける。ロープが投げ下ろされ、救助が始まる。
すぐ隣でその様子を見ていたエレナが、ぽつりとつぶやいた。
「……ちょっとは、役に立つのね」
その横顔は、どこか呆れたようでいて、ほんの少しだけ目元がやわらかかった。
スフレは静かに戻ってきて、ハルカの足元にぴたりと寄り添う。
(ありがとう、スフレ)
心の中でそっとつぶやいた瞬間、誰かに小さく認められた気がした。
* * * * * *
訓練の後、山から物資を運び下ろす作業に移った。
エレナと同じ班になったハルカは、荷運び中も無言で指示に従い、黙々と動いていた。
(空気はまだ冷たいけど、……少しずつ、何かが変わってる気がする)
その矢先だった。
「——ッ、くそっ!」
エレナが足を取られ、斜面を滑り落ちた。
慌てて駆け寄ると、彼女は膝を押さえて蹲っていた。
「大丈夫ですか……!? 動かさないでください」
ハルカはすぐさま膝の様子を確認し、口を引き結ぶ。
「裂けてる……出血もある。縫うほどじゃないけど、放っておくと泥が入って感染します。まずは……」
ハルカは小さく息を吐き、ポーチの中から小型の水筒を取り出した。
「ちょっと冷たいですけど、我慢してください」
そう言うと、綺麗な水を傷口にそっと注ぎ、泥と血を洗い流す。エレナがわずかに眉をひそめたが、声を上げはしなかった。
「……よし」
すぐさま清潔な布で水気を押さえ、次に細い針金を取り出す。
即席で“蝶形の止血テープ”のように、傷口の両端を引き寄せ、丁寧に固定していった。
「……そのやり方、あんた……」
エレナの声がかすれた。
「前に言ってたこと、本当だったんだね」
ハルカは手を止めず、かすかに笑った。
「信じてなかったんですか?」
「……信じてなかったんじゃない。ただ、初対面でそんなこと話してくる奴、見たことなかったから。
……でも今思えば、あたしのこと、信頼して話してくれてたんだね。ごめん、疑って」
ハルカは少しだけ目を丸くし、それからゆっくり首を振った。
「私も、あの時……誰かに話したくて、たまらなかったのかもしれません」
二人の間に、少しだけ静かな時間が流れる。
その足元で、スフレが「くぅん」と鼻を鳴らし、そっとエレナの膝に頭を寄せた。
「……なんか、悪いやつじゃないのかもね。こいつも」
エレナがそうつぶやくと、スフレはふわりとしっぽを振り、さらにぴたりと身体を寄せた。
淡い友情の火種が、確かにそこに灯った瞬間だった。
その様子を、少し離れた場所から団員たちが遠巻きに見ていた。はじめは冷たい視線を向けていた彼らも、次第に表情に戸惑いが混じる。
「……応急処置、できるんだな」
誰かがぽつりと呟くと、それに呼応するように、もう一人が「しかも結構、手際よかった」と小さく漏らす。
「犬も役に立ったしな」
硬かった空気に、かすかに亀裂が入った。小さな波紋のように、それは確かに、周囲へと広がっていく。
* * * * * *
朝の食堂。木の床を歩く足音と、湯気を立てる鍋の香り。
ハルカはスフレと共に、壁際の席に静かに腰掛けていた。
以前なら、彼女の隣はぽっかりと空いたままだった。だが今、数人の団員がさりげなく近くの席を選び、無言のまま食事をとっている。
(……少しだけ、空気が変わってきたかも)
食器を下げた帰り道、給仕係の青年がふと声をかける。
「おかわり、どうぞ」
それだけのひと言に、ハルカは一瞬きょとんとする。
(こんな当たり前の言葉が、こんなに胸にしみるなんて)
洗い場では、あの無口な初老の男性が軽くうなずいてくれた。
山狩り訓練のあの団員も、通りすがりに「犬、賢いな」と小さく呟いた。
エレナに至っては、すれ違いざまに「あんた、ちょっとはマシになったかも」とニヤリとする始末。
もちろん、それが“本心”なのかはまだわからない。でも——
(まだ警戒されてるのはわかってる。けど……)
(ちゃんと見てくれた人もいた。無視されるだけじゃない)
ほんのわずか。だけど確かに、風が変わり始めている。
そんな予感を抱えながら、ハルカは静かにスフレの頭を撫でた。
スフレは「くぅん」と甘えるように鼻を鳴らし、彼女の膝に顔を寄せた。
* * * * * *
「ちっくしょう……またかよ!」
革命軍の工作場に、ヴィス=ネブラの荒い声が響いた。
目の前の小型魔導装置が、鈍い音を立てて停止し、筐体の隙間から「ぷしゅーっ」と白い蒸気が虚しく漏れ出す。
(……昨日から、あの装置。何度も調整してるけど、どうしても安定しないみたい)
ハルカは、少し離れた場所から様子を窺っていた。
ヴィスの額には汗が滲み、工具を握る手は苛立ちを隠さない。
ふいに、ヴィスと目が合う。
「……何だよ、“観察対象”さん。傍観が趣味か?」
口調は刺々しいが、どこか疲れたような響きだった。
「……いえ。さっきから、ずっと気になってて……」
ハルカは一歩だけ前に出た。
ここで引いたら、たぶん何も始まらない気がして。
ヴィスの装置は、魔力の流れを調整する“制御盤”を内蔵した特殊な魔導道具だった。
「昨日まで動いてたのに、今朝から突然こいつだけ暴れてる。魔力過熱のエラーが出ちまってな」
ヴィスは装置を叩きながら、唸るように言った。
「これ、制御式ってどこに表示されるんですか?」
「ここだ。下の石板の列……だが、読めるのか?」
石板に刻まれた魔力式と数値。表示されていたグラフの変動に、ハルカは目を細めた。
(この出力のログ、どこかで見たことある。揺らぎ方といい、デフォルトの閾値といい……
あの時、ノアの端末を復元した時よりは、ずっと理解できる。
この世界の数字や基本的な言葉くらいなら、なんとか読めるようになってきたから——)
「ちょっと気になったんですけど……この設定、初期値のままですか?」
「おう。いじってない。なんかあるのか?」
ハルカは数値を指差した。
「この出力値、周期的に上振れしてます。たぶん、閾値が低すぎて過熱エラーが出てるんだと思います。
……試しに、この数式の定数、少しだけ上げてみてもいいですか?」
「……ダメ元でな。壊すなよ?」
ハルカはおそるおそる数値を入力し直す。変化はすぐに現れた。
「安定した……?」
「出力、一定になったな。おい……嬢ちゃん。お前、本当に何者だ?」
ヴィスの視線に、ハルカはほんの少しだけ困ったように笑った。
「……専門とかじゃないんです。昔ちょっと、似たようなことをやった記憶があって……。
仕組みの流れ方が、なんとなく似てたから、気づけただけです」
(正直、装置の中身の構造まではわからない。けど——
情報の流れとか、過負荷のパターン。
そういう“兆候”を読む感覚なら、まだ……)
「……おいおい。感覚で動いてると思ったら、“読み”だったのかよ。余計にこえーわ、嬢ちゃん」
ヴィスがそうぼやくように言って、初めてハルカを「嬢ちゃん」と呼んだ。
* * * * * *
「おーい、嬢ちゃん。ちょいと、来てくれ」
食堂でパンをかじっていたハルカに手を振ったのは、ヴィスだった。
彼に連れられ、作戦室の一角へと向かうと、そこには黒い仮面の男が、地図を広げて待っていた。
(……仮面の梟)
フードの奥、鋭く作られた梟の仮面。
姿勢はあくまで静かで、だがその存在感は強く、部屋の空気が張り詰める。
「……来てくれて助かる。ハルカ」
仮面の奥から落ち着いた声が響く。
それは、からかいや冗談とは無縁のものだった。
「ヴィスから聞いた。……“読み”で装置の不具合を突き止めたそうだな」
「えっと……たぶん、偶然じゃないと思いますけど……」
「その“たぶん”が肝心なんだよ」
仮面の男は、わずかに頷き、指で地図の一角を示した。
「旧帝国軍の封鎖拠点だった場所だ。数日前から、異常な魔力波が観測されている。
封印が緩んだ可能性がある。再調査と、物資の運搬も兼ねて、少人数で向かう予定だ」
そして、声を少しだけやわらげて続けた。
「専門家としてではなく、“外の目”として参加してほしい。……ハルカ」
“外の目”——その言葉に、ハルカは一瞬、胸が詰まる。
ここではずっと“異物”として扱われてきた。
でも、それを武器にできると——彼はそう言ってくれている。
「……わかりました。私でよければ」
* * * * * *
出発の朝、支度を整えたハルカの前に、エレナが足を引きずりながらやって来た。
「……あんた、大丈夫なの?」
まだ治りきっていない膝を抱えたまま、それでもエレナは淡々と言う。
「あんたの顔見てると、ほっとけないのよ。いい加減、勝手に目立つのやめなさいよね」
「……すみません。足手まといにならないよう、頑張ります」
ハルカが頭を下げると、エレナは苦笑しながら肩をすくめた。
「ま、せいぜい死なないで。スフレもついてるから、大丈夫ね」
その足元で、スフレが静かに尻尾を揺らす。
山道へと向かっていく小隊の背に、霧が薄く流れていた。
その中に、小さな決意が確かに並んでいた。




